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売れなさそうな本を、それでも、なんで書いているか

何がおもしろうて読むか書くか 第7回

立岩 真也 2019/01/25 『Chio通信』8:12-13(『Chio』122号別冊)
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■『Chio通信』/『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』/『おそい・はやい・ひくい・たかい』

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『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』
『おそい・はやい・ひくい・たかい』

■『病者障害者の戦後』

 この夏から秋、種々給料取りの仕事をしながら、原稿を書き足したり、なおしたり、並べ変えたりし、ときには何をしているのかわからなくなりながら、二冊の本にした。一つは『不如意の身体――病障害とある社会』、一つは『病者障害者の戦後――生政治史点描』。もとになった連載を『現代思想』という雑誌に書かせてくれた青土社から十一月と十二月に刊行された。
 四八一頁と五一二頁、合わせて一〇〇〇頁ほどになった。並製という表紙にしてもらうなど安くなるようにしてもらって、この厚さの手の本の価格としてはずいぶん安くしてもらったが、税込み三〇二四年円と三二四〇円。
 そんな売れなさそうな本を、それでも、なんで書いているか。こちらの連載はそういうことを書くという連載でもある。いろいろと理由は言えるのだが、ここでは、後者の「歴史篇」の本について幾つか。

■どうでもよくは、じつはない話

 ひとつ、たまたま、と言ってもよいのだが、いま、以前「国立療養所」と呼ばれた施設から出て暮らし始めた筋ジストロフィーの人やこれからという人のことを見聞きしている。昨年の十二月二四日には京都だと「宇多野病院」というところから、金沢だと「医王病院」というところから出てきた人に話してもらう京都での企画で私も話した。
 たとえば金沢の人は四〇年ほどそこに、いたいわけではなかったのだが、いた。なんでそういうことになったのか。そのもとを辿っていくと、長い長い話になる。簡単には、出たい人が出ればよいというだけの話なのだから、みなが昔のをことを知らねばならないわけではない。けれども、いくらかの人たちは知ってお△012 いた方がよい。また、社会福祉を専攻したり人で間違ったことを教えられ覚えている人は間違いを間違いと知った方がよい。そしてそれは、これからどうしたらよいのかにも関わってくる。
 前回、毛利子来のことを少し書いた。他にも本誌にも関わる石川憲彦、山田真といった人たちがいる。この人たちはいま、優しいおじさんあるいはおじいさんとして知られている。それは間違っていない。しかし、それだけでなく尖(とんが)ったところもあって、それもまた大切で、そして優しいことと尖っていることとはつながっている。そして、その人たちは、似たように見えるかもしれない別の「反体制」的人たちの流れとは別のところにいて、その人たちと喧嘩をしたことのある人たちでもる。そういう対立は今は目立たなくなっているので、もうどうでもよいようにも思える。しかし、どうでもよくは、じつはない。そのことがわかるように、やはり長い話をすることになる。これが一つ。
 このことに連続してもう一つ。あるところでは、例えば「難病」という領域では、よい人だと讃えられている人、椿忠雄井形昭弘といった人がいる。しかし、その人は水俣病の被害者やその支援者たちにとっては怨念の対象でもある。その人たちはもう故人であって、やはりもうどうでもよいではないか。しかしやはり、そうではない。なぜそんなことが生じたのか。また、讃える人たちと恨む人たちが別々にいて、互いにまったく知らないというのはどういうことか。これも考えてみた方がよい。
 さらにこのことに関連して一つ。よい人だと思われている人がじつはそうではない、ということを言いたい時、例えばさきの山田真さんの世代は、たいがい、その人たちは悪徳病院と結託していたとか、(同意を得ない)人体実験をしていたとか、ロボトミー手術をしていたとか、そんなことを言う。それはそれで間違っていないことはあるから、その時には言えばよい。しかしそれだけのことではない、批判するべき人たちは実際よい人なのだが、あるいはよい人であるがゆえに、まずいことに関わったのだという言い方を、あるいは言い方も、した方がよいことがある。それでそんな部分を書くことになる。悪を告発するというわかりやすい話にはならないが、そういう書き方も必要だと思っている。

■ここ(から)は引かない、引く必要がない場所を

 こんなことを言って、わかってもらえるのだろうか。とは思う。けれども、私は、誰かはいちおう、一度は言っておくべきだと、かなり強く、とても強く思っている。それを書く人は私でなくてもよい。しかし長く待っていたがそんな本は出なかった。そして、僣越ながら、私だから書けるという思いもある。私は、まっすぐな正義感によって怒った人たちよりも後の時期を暮らしてきた。同時に、その人たちの世代がものを言わなくなったこともあってまったく何も知らない人たちよりは前の時間を生きてきた。前の人たちの怒りや正義感をある程度は共有しながら、もっと冷たく、引いたところからものを見て書くこともあってよいと思うから、そうした。そんな場所にいる人たちは他にもいるはずなのだが、結局、書かれたものは現れない。そこで書いた。
 いつも私は、本を出すと、通信販売をしたり、講演や学会の場に持っていって売り子をしたりする。結局、私ができることは字を書くことで、そのことによって、一番後ろで――派手なことは前にいる人たちにやってもらって――しかしここ(から)は引かない、引く必要がないという場所を示し、護ろうとしている。いつもそうなのだが、今回の二冊は、そんな思いがより強い。だから、もう書いて本になってしまっのだからその中味はどうこうできないが、いろいろに工夫して、売れるように読まれるようにしていうと思っている。


※以下の2冊

◆立岩 真也 2018 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社
◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社

立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙 立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙 立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙 立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙

UP:20190119 REV:20190126
『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』  ◇『おそい・はやい・ひくい・たかい』  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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