■青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉 2019/09/10 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院
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■今しばらく留めること
記録すること、留めておくことが大切だとほうぼうで言ってまわっている私自身がときどき虚しくなることがある。そんなことはまったくきりがないではないか。所詮不可能なことだと思えてしまう。ただ、このたび、私の勤め先の大学院生・栗川治さんの亡き・妻清美さん――二〇一八年に癌で亡くなられた――を追悼する本(栗川編[2019])に、求められて短文を書くことになって、そこに以下のように書いた。
ずいぶん長いこと、研究者として、この時代を生きてきた一人ひとりのことを書こうとほうぼうで言ってまわって来て、繰り返して来て、かえって、私はすこし疲れているのかもしれない。あらゆる人は死ぬから、その死者の数は既に数百億かになっているはずで、その人たちのことをいちいち書こうなどということは、まったく無謀で無理で無駄なことに思える。
しかし、こんなふうに人は、疲れた時に、間違えるのだ。人は死ぬ。死んだその人には何も伝わらない、と私は思う。しかし周りにいた他の人たちは今しばらく生きていく。そのしばらくの時間、忘れるのをいくらかでも引き延ばすために、記憶に浸りたいために、人は人のことを書いて残す。また読んで残す。長い時間の間には、やはりそれもすっかり消えてなくなってしまうとしても、まったく、それでよいのだ。本書を読んで私はそういう気持ちになれた。(立岩[2019e:382])
永遠にとどめておこうというのは無駄で無理なことである。さらに、ときにはいらなくなった方が、忘れてしまった方が、よいこと・ものもある。しかしだからといって、まったくいらないわけではない。当座いるものを集めて、そして、いらなくなるまで、留めておく。そうした当座の行ないを行なっていると思えばよいのだと思う。
とくに社会運動にはそうしたところがある。運動は、運動がいらなくなるまで続く。しかしそのいらなくなる時は(残念ながら、そう簡単には)来ない。だから続くことになる。そういえば、そんなことを、過去にも書いたことがある、とやはり思い出した。横塚晃一の『母よ!殺すな』の新版の解説の末尾だ。
この本は、この本がいらなくなるまで、読まれるだろう。そしてその時は来ないだろう。しかしそれを悲観することはない。争いは続く。それは疲れることだが、悪いことではない。そのことを横塚はこの本で示している。(立岩[2007:461]
少し追加説明がいるかもしれない。いらなくなる時が来るのは、もしそんな時があったとしたらだが、よいことだ。しかし、それは来ない。すこし体制が変わったぐらいのことでは、差別・抑圧はならないのだ。そして、そのことを言ってきたのは(この国の)障害者運動それ自身だ。さてそこで、一つ、なりなりきったりしないと思いきるなら、理想郷が実現しないことに絶望する必要もない。一つ、そのうえで、運動は続けた方がよいことになる。あまり暗くなりすぎずに続けることができる。そして一つ、まっとうなことを言うこと、言い続けることは、ときに疲れてしまうのではあるが、愉快なこと、ときに痛快なことでもある。どうせ持久戦だと思いきってしまえば、じっくりとやっていける。だから、続いてもよい。
すると、その続いている間、いくらかのをことを記録し記憶し続けるのもよいとなる。むろん、いつも、そうそうおもしろいわけではない。例えばビラの類が残されるのだが、何年も何十年も経っているなら、何年のものであるかわからなくなり、それを特定しようとしてそれだけでもずいぶんな時間を使ってしまうことがある。それでも結局わからないこともある。それでも仕方がないから、いくらかはそういう作業もする。悔しいから、これからはもっとまめに年月日をいちいち記録するようにしようという気持ちにもなる。
■人について書くこと+そのまま残すこと
社会学(者)は、個人を持ち出してなにかを説明することを避けてきたところがある。ただ、よく言うのだが、まず、それはやってわるいことはない。文学であるとか美術史であるとかは年中そいうことをやっている。夏目漱石がどこでなにをしたとかなにを食べたとか、誰それがどんな学校で誰に学んだかといったことを調べて、書いている。そんな探索・詮索の対象を、文化人や政治家たちに限らねばならないとは決まっていない。書きたいのであれば書けばよい。
何を書くか。「論文」となると、すこし違ってはくるかもしれない。論文というのは、就職の際など仕事を評価するための対象というようなものでもある。審査に通った論文がしかじかあるというのは力の証拠ということになる。なにか解釈を示せるなら、それがもっとも(らしい)なら、研究者・教育者として雇ってもよいということにされたりする。論文というものが、なにかもっともらしいことを言うことができることを示すものであるとすれば、聞いた話を並べるだけでは評価されないということにもなる。しかしそれはそれだけのこと。別の書き方もある。
さらに言えば、いやもう言ったことだが、どう読むか、何を読みとるかの手前で、話したり、書いたり、そのままの方がよいということもある。それは別の機会にして、あるいは別の人にゆだねて、ただ集めて、とっておいたり、読んでもらえるようにしたらよいということだってあると思う。
そして、考えてみれば、いや考えなくても、人が話すこと(また書いたこと)というのは、既に、人がどのように自分が生きてきたか、世界を見ているかということである。だから、「もと」と「もとの解読」いう具合にはなっていない。「どう見て&してきたか」をもとに、「さらにどう見るか&したよいと思うか」を書くという具合に、ずるずるとつながっていくのが、私たちの仕事だ。それがうまくいって、ものごとが整理されてすっきりしたり、なにかが展望できるとよい。そんなことを願って書いているのではある。ただ、いつもうまくいくわけではない。だからといって、あきらめようとは思わないが、しかし一つ、他の人が(他の人も)読み取ったり考えられるようにするためにも、「もと」をそのままあるいはそのままに近いかたちで示すことも大切だと思う。また一つ、なにより、その「もと」そのものがおもしろい。その人がどういうふうに世の中を見てきたか、何をしてきたか。「そのまま」でいいじゃないかと思う。私は大学院生が論文を書くことを手伝うのが仕事なのだが、もってきたその草稿を見て、あれおかしい、もっとおもしろい話のはず、と思って、インタビュー記録見せて、と持ってきてもらって、そちらの方を読んでみると、やっぱり、「もと」の方がずっとおもしろいじゃないか、ということがしょっちゅうある。
そんなことを最後に書くのも、実は私は、まったくいけないことなのだが、『飛――白石清春氏・橋本広芳氏還暦祝い記念誌』(あいえるの会[2010])を読んでいなかった。そういうものがあることは知っていて、なかに写真があるということで、その写真を本書に使えるかもと思って、田中に送ってもらって、この日に原稿を出さないと間に合わないというその日を一日過ぎた七月一一日に入手して、初めて読んだ(今日は七月一六日)。そして、なんだこれをそのまま掲載したらよいではないかと、よかったのではないかと、思ってしまったのだった。知りたいことがたくさん書いてあった。おもしろかった――HP上でよろしければ、全部を掲載いたします。他のものも、みなさん、どうぞよろしくです。
しかしそれでも、私たちは私たちとして、仕事をした。やはり書いたことだが、「ないよりよいものはよい」と私は思うことにしている(一〇頁)。いやもう少しは志高く仕事をしたとは思う。それでなんとか一冊にした。どうぞよろしくです。そしてもう一度、同じ言葉で。話をしてくださったみなさま、資料を提供してくださった方々、その人たちをこれまでそして今支え手伝っておられる方々、活動をともにされている方々にお礼申し上げます。
そして、本書は科学研究費助成研究(基盤B)「病者障害者運動史研究」の研究成果でもある。税を介して資金を提供してくだされている方々に感謝します。さらに生活書院の、まこうことなき福島県出身の出版人高橋淳さんは、たいへんお忙しいなか、たいへん短い期間で本書を作ってくださった。ありがとうございました。
二〇一九年七月 今になって読むべき『飛』を読まなかったことを反省して 立岩真也
※(特定非営利活動法人)あいえるの会 2010 『飛――白石清春氏・橋本広芳氏還暦祝い記念誌』,あいえるの会,編集・製作:前橋秀一・岡部聡
この冊子についての頁これからつくります。