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なおる/なおらない/なおさない

立岩 真也,企てに参するを企てる・3
生存学の企て,gacco:無料で学べるオンライン大学講座
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■立岩真也「企てに参するを企てる」1〜6
HP広告  ■PV

名づけ認め分かり語る…  ■なおすこと



石井雄一「言葉がさかさまになる怪獣」

 ※以下立岩担当分

企てに参するを企てる
 ■1 与える人たちの学問でないこと
 ■2 歴史を見る
 ■3 なおる/なおらない/なおさない
 ■4 言葉を調べる
 ■5 名付けられること/わかること
 ■6 誰が?

■3 なおる/なおらない/なおさない

 ★01なおらないなら仕方がない、なおす人はなおす。けれども、そうと決まったものかという問いがあります。
 「障害を肯定する」とか、「なおさなくてよい」とか言う人がいます。そのことをどう考えたらよいのか。「不便だが不幸ではない」という言葉もあります。この言葉は、そうかもしれないと思うとともに、なにか無理をしている、やせがまんをしているようでもあります。そんなことを考えるという主題もあります。
 「全部ひっくるめて考えたときに、治る/治すことはいいことなのだろうか、明日にでも治りたいという人もいれば、ひとまずはこのままでいいやという人もいる――そういうあわいというか境といったものをちゃんと考えましょうというのが「生存学」のスタンスです」。これは『考える人』という雑誌のインタビューに応えて述べたことです。
 ★02私たちのところにいた大学院生で、SJS(スティーブンスジョンソン症候群)という、変わった障害というか病気で目が見えなくなった人がいました。植村要さんと言います。目が見えないから、見えるようになった方がよい、とは彼も思うわけです。実際、そのための手術もあったりして、なかには、拒絶反応が起こらないようにするためでしょうが、自分の歯を取り出して削って眼球にするというなんだかすごいやり方もあるのだそうで、彼はその手術を日本で最初に受けた人のことで1本論文書いています。
 ちょっと脱線して言っておきますが、世界で、とか日本で最初、というのを、まだ人が書かないうちに調べて書くというのはよいです。人が既に知っていることのなかから、知らないことを探し出して書くというのはけっこう高級なことで、めんどうです。それより、普通に人が知らないことを書く。そのほうが面倒でなくて、そして読んで、へーっと思ってよいことがあります。
 さて目が見えるようになるのがよいとして、その手術がうまくいってもそんなにすごく見えるようにはならないということがあります。そして、手術の前に、そしていったん手術なら手術を受けた後も、アフターケアというか、めんどうだったりいたかったりすることがあったりします。ならきれいさっぱりあきらめるかというとそうでもないのですが、どうも全面的によいとは思えず見えない今のままの状態が続いていたり、手術はいちおう成功したけれどもいまいち感をもって生活している人たちがいる。そういうことを書いています。「おち」はないのですが、おちがないのがおちみたいな論文です。しかし、なおそうとする力と、それに伴ううれしくないこともあって、両方あって、その間ぐらいのところに人は生きているということを書いています。
 それは技術を使うか、どう使うかという主題でもあります。人間に限らず、あらゆる生物が技術を使っている、とこれも技術という言葉の定義によりますが、いえます。しかしそれはもちろん、なんでもよいということではない。では何がよくて何がよくないのか。ただこれも、自然か人工か、とか、漠然と考えてもよくわからないと思います。私たちはあるいはある人たちは、何を使ってきたか、どのようによいとされたり、あるいは批判されたりを調べるというのが一つあります。
 ★03例えば、「人工内耳」という装置があります。聴覚に障害のある人の身体に埋め込む機器として、日本では1990年代から使われるようになったようです。自身のお子さんがその初期の使用者であったということもあり、それがどのように日本で使われるようになってきたのかを調べている田中多賀子さんという大学院生がいます。
 ★04他方、自分たちは「日本手話」という言語を母語とする集団であり、機器で聞こえるようになろうというのは違うという主張をする人たちもいます。これは、私たちのところで研究し、その博士論文が本になったクァク・ジョンナンさんの『日本手話とろう教育――日本語能力主義をこえて』です。日本手話を言語として使用するフリースクールが学校になったその経緯とそこでの実践を研究したものです。
 ★05さて、機器を使って聞こえるようになるか、手話を使って聾者のプライドをもつか、どしたものでしょう。本人が決めればよいではないかというのが、普通用意されている答です。しかし、言葉というのは、たいがい本人が選ぶ前に身についてしまうものです。とすると、本人に決めてもらうというだけではすまないということになります。なんだか難しい、こんな主題もあります。


★01 [PPT]
 【全部ひっくるめて考えたとき、治る
  /治すことはいいことなのだろうか】
★02 http://www.arsvi.com/w/uk01.htm 〜どういうふうに使うかはおまかせ
★03 http://www.arsvi.com/w/tt16.htm 〜どういうふうに使うかはおまかせ
★04 http://www.arsvi.com/b2010/1703kj.htm 表紙写真 の下に
 『日本手話とろう教育――日本語能力主義をこえて』(大きめ)
 クァク・ジョンナン,2017,生活書院 (小さめ)
★04 [PPT]
 【…とすると、本人に決めてもらうという
  だけではすまない、となるとどうする?】

 ※この話に関係する、番組収録の後に刊行された本

立岩 真也 2018/11/30 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社 文献表

□第3章 なおすこと/できないことの位置
 □1 なおすことについて
  □1 なおすことについて
  □2 例えば脳性まひ
  □3 考える場はあること
  □4 例えば脳性まひ・続
  □5 ほぐしていくこと
  □6 近辺でなされた仕事の例

 □6 近辺でなされた仕事の例 ※全文 ※リンクはあとで
 「 こうして全般的に研究が進んでいるとは言い難いのだが、それでも私が働いている場はそんな仕事がしやすい環境にはあり、いくらかの作業はなされてきたと、さきに幾つか引用した。例示する。
 「聾文化」という言葉、「手話は言語である」という主張は一部の人に知られている。日本手話による教育を行なうフリースクール「龍の子学園」の活動が始まりそして「明晴学園」という学校になった経緯、そこでの実践についての博士論文に基づく単著としてクァク[2017]。他方に、クァクと、そして聾者でもある甲斐更紗(センターの研究員を務めた、甲斐[2013][2015])と時々小さな勉強会をしてきた田中多賀子は、その息子が人工内耳を初期に使い始めた人でもあり、日本で人工内耳が普及してきた△077 経緯を調べている(田中[2013][2014][2015]他)。他方それらの人たちの前、かつて『たったひとりのクレオール』(上農[2003a])を書き、聴覚障害をもった子たちに対する医療の特質について、医療が何を見て何を見ないかについて博士論文(上農[2009])を出した上農正剛は『現代思想』には「医療の論理、言語の論理――聴覚障害児にとってのベネフィットとは何か」(上農[2003b])、「人工内耳は聴覚障害者の歌を聴くか?」(上農[2010])を書いている。
 植村要は、粘膜他を冒されるスティーブンス・ジョンソン症候群(SJS、薬の副反応が主な要因だと言われる)で失明した人だが、SJSで視力回復の手術を選んだ人に、その前、決めた時、その後を聞いた。そのままで暮らしている人にも聞いた。そして「視力回復手術を受けたスティーブンス・ジョンソン症候群による中途失明者のナラティブにおける「治療」についての障害学的研究」(植村[2014])という題の博士論文にした。結局、なおす/そのままにする、どちらにもはっきりとは落ち着かないという、当初の彼の感覚とそう違わない話になった。しかしその「どちらとも(簡単には)言えない」ということを説得的に言えれば、それはそれで意味がある。答が出ない条件を一定の精度で示すという論文には存在価値があるということだ。
 また自身が脊髄損傷者でもある坂井めぐみが研究しているのは、脊髄損傷の人たちとその団体とその活動なのだが(博士論文である坂井[2018]が書籍化される予定])、その一つ「日本せきずい基金」は脊髄損傷がなおるようになるための基金である。事故である日突然障害者になるという事情もあり、多くの人はなおることを強く望む。しかしその上で、変な(なおらない、危険な)なおし方を受けいれるわけにはいかないということはある。そしてなおらない間は、障害者として必要なものを得ようとする。そうしたまずはまっとうと思える動きを追ってもいる。他方で、ひたすら治療法を求めだんだん暗くなっていくという、バランスを欠いている活動、組織もこの世にはある。むしろ世界的にはその方が普通か△078 もしれない。拙著『ALS』([200411])でも、また今度の『病者障害者の戦後』([201812])でも述べたことだが、なおすための営為がよくないというのではないけれど、そこにだけ力が使われ、他のことが進まないことがあるということだ。
 そして、心理や精神が入ってくるとさらにやっかいになりそうだとさきに述べた。『私的所有論』では、『「早期発見・治療」はなぜ問題か』(日本臨床心理学会編[1987])等をあげ、「これらはごく一部にすぎない。主張されたことを検証する別の作業が必要になる」と記した([199709→201305:535])。こちらは、さきの脳性まひについて言った一七年前より前、二〇年以上は前に、調べることの必要性を言ったということだ。
 ただこれについては、研究は現れた。日本臨床心理学会の「改革」と、その後のいくらかの「現実路線」への転換について堀智久が調べ、堀[2011][2013]を書いて、博士論文の一部になり、書籍(堀[2014])の一部になった。資格化等を巡って分裂、反対した少数派は日本社会臨床学会を立ち上げた。臨床心理学会に長く関わった山本勝美へのインタビューとして山本[2018]がある★11。
 そしてその堀の本には二〇〇二年に、やはり調べたらよいと述べた(本書第10章)「先天性四肢障害児親の会」についての章もある(杉野編[2011]に堀[2007→2011]が再録)。指の数が少ないといった「奇形」があったとして、それはどのようによくないか。機能としてはさほど不便ではない。自分だけが、あるいはそういう指の数の人たちだけがいるのなから、気にすることではないと言われればそうだ。しかし、実際に社会はそうはなっていない。他人が気にするものが自分の気になる。さて、というのが第4章ですこしだけふれた差異、姿・形を巡るできごと、問題だ。
 だから調べること、その後で、あるいは調べながら、考えるべきことがたくさんあって、その一部について仕事は進んでいるが、大部分についてはそうでない。だから、こちらの仕事を仕上げるというそ△079 の前に、再度呼びかけようと思って、この本(たち)を書いたのでもある。」

立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙 立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙 立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙 立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙




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UP:2018 REV:20190118
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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