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病・障害から社会を描く

『不如意の身体』『病者障害者の戦後』(青土社)刊行を機に
対談:立岩真也×天田城介 2019/04/12 『週刊読書人』3285:1-3
http://www.dokushojin.co.jp/?pid=142167007

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■立岩 真也・天田 城介 2019/04/12 「病・障害から社会を描く――『不如意の身体』『病者障害者の戦後』青土社)刊行を機に」(対談),『週刊読書人』3285:1-3
 http://www.dokushojin.co.jp/?pid=142167007


◆2019/04/14 「天田城介さんとの対談:社会学のこと赤い本青い本・1――「身体の現代」計画補足・588」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2286309531636021

◆2019/04/17 「アーカイヴィングは大学の社会的使命:天田城介対談2――「身体の現代」計画補足・590」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2290497034550604

◆2019/04/23 「社会はデコボコだ:天田城介対談3――「身体の現代」計画補足・592」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2294793997454241

◆2019/04/25 「書いてどうかなるものではない:天田城介対談4――「身体の現代」計画補足・594」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2305764126357228

◆2019/05/12 「例えば熊谷晋一郎さんの『リハビリの夜』:天田城介対談5――「身体の現代」計画補足・596」
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立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙 立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙 立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙 立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

天田 今回、立岩さんは赤と青の本を刊行されましたが、これは二冊で一揃いですね。これはまごうかたなき社会学の本であり、それ以外のジャンルではないというのが僕の率直な印象です。
 赤の本、『不如意の身体』には、冒頭に障害と病に関する契機として、身体には(1)機能の差異、(2)姿形・生の様式の違い、(3)苦痛、(4)死、(5)加害性、という五つがあると掲げられ、そこを基点にこの社会がどう描けるかが語られていきます。
 立岩さんは「障害は何か」という問いの立て方はまずいと言う。それでは「障害」のみを取り出すことになり、社会における障害の形は変わらないままだと。この本を読んで面白かったのは、その疑義からなる、立岩さん独自の問いの立て方でした。
 青の『病者障害者の戦後』では、国立療養所における〈生政治〉の歴史が語られます。もともと結核やハンセン病の人たちを収容するところから始まった国立療養所は、後に筋ジストロフィーの人や、重度心身障害の人を収容していきます。「隔離」という社会防衛的要素であった国立療養所が、患者自身だけでなく、その保護者や医師、看護師ら、様々な思惑が絡み合う中で、そこに働く人の食い扶持や領分をもめぐり、筋ジスや重心の人びとの「居場所」になっていく。
 その歴史が、どんな言説空間の中に出来上っていったのか。国立療養所をめぐる制度の枠組みの中で、関係者たちはいかなる言説に絡め取られながら、自分たちの生活を守ろうとしたのか。病・障害者をめぐる物の考え方が、日本の戦後において、どういうプラットホームに乗らざるを得なかったのか。
 身体に関わる要素を五つに区分して、それについて歴史の中で、社会との接触面を見ていこうとする。この二冊の本は、我々の社会を描き出そうとする構想なのです。
 僕が重要だと思うのは、国立療養所の経営側からの語りと、入居者であった高野岳志さんや福嶋あき江さん、花田春兆さんの言説との間に、溝があり、断絶がある。そして立岩さんがこのまだらな状況に注目し、そこから社会を描き出そうとしたことです。まごうかたなき社会学の本だというのは、そうした隙間や溝や境界が、出発点になっているからです。社会を構成するものの境界や区切られ方が、これまでの仕事を通じて立岩さんにとって大きな関心であり続けている、と僕は思っています。
 もう一つ、その断絶した一つ一つの事柄について、申し分なく書かれているところと、もっと書けるのではないかと思う部分があるのですが、後者について立岩さんは、ここは僕はやらないからやれる人が続きを書いてよね、と後を託しています。また、『病者障害者の戦後』は、ほとんど資料は『国立療養所史』だけで書いている。それでもこれぐらいのことは書ける、と言う。その姿勢にも注目しておきたいと思いました。

立岩 生命や身体について、ここ何十年か、妙に深淵に語られようとしてきたように思いませんか。それにもそれなりの意味はあったんでしょう。ただ、もっと当たり前のところから考えてみたっていいじゃないかと。死ぬこと、痛いことに、論理なんか通用しない。でもその当り前のことを確認してみる、そこからだって話はできる、そういう気持ちがありました。
 社会についても、生政治とか生権力といった語り方があるけれど、実際の世の中はもっと平凡にできてきたのではないかと思うんです。あるいは生政治・生権力といったもの自体がまずはまったく凡庸なものであると。例えばその場を構成した人びとが、自分の利得のために縄張り争いをしたり、保身に走ったりする中で、陳腐な制度が出来上がってしまった、とかね。
 つまり簡単な言葉や単純な事柄を、素朴に組み合わせるだけでも、まだ語られていないことがたくさんあるということです。そしてそこから掘り下げて、話すべきこともまだまだあるけれど、とりあえず僕はここまで提示するから、続きは別の人がやってねと。
 そういうスタンスからでも、同じように障害者に携わっている人びとや団体の間に、隙間や断絶があって、Aの場にいる人はBが見えないし、Bの場にいる人はAが見えていないということが分かる。AとBが断絶したまま併存するところに、この社会は成り立ってしまっている。そしてこの断絶は、因縁あるいは理由があって、起こってきたことなのだと。その理由を書くために、紙幅を割いたとも言えますね。
 僕がよく言うのは、ないより合った方がよいものはまずはあった方がいい。僕のこんな本でもないより合った方がいい。悲しいかな、社会学の現状は、基礎的なものごとについて、書き物が揃っていないのです。



天田 立岩さんには、当たり前に知っているべきことを知っているべきだという、社会学への信頼というのか、社会学者としての矜持がありますよね。社会学的な用語で化粧する前に、単純に知っておくべきことがあると。そのことがこの二冊の本を書かせたと思うんです。

立岩 私は自分は社会学者であると思っているし、そのことに誇りをもっていると言ったっていい。しかし、そんなにたいしたことない「理論枠組」をいちいち示せとか、それがそんなに大切なことかなと思うところはあります。理論より事実が、とか言いたいのではなく、たいしたことない理論をわざわざもってきてもたいしておもしろくはならないだろうと。

天田 とはいえ、単に知識を多く持てばいいということではなくて、特に我々の生存や生活に関わる領野において、家族関係や、福祉や医療を構成する政治について、知っているべきことを知っているべきだというのが、立岩さんには強くある。
しかもAにいる人はAのことしか知らない。Bにいる人はBのことしか知らない、というように断絶しているのはよろしくないと。
この本は、化粧した生政治や生権力の話とは違う。断絶したA、B、Cが併存、対置されている不思議な現実の上に、この社会ができあがっていることへの疑問をぶつけた本ですね。ただし考えの基本線は示しながらも、何で社会がそうなっているのか、立岩さんが最終的にそれをどう考えたのかは、明確には書かれていない。その点は伺ってみたいことでした。

立岩 一つ言えるのは、社会というもののかたちは一様ではなく、でこぼこだということです。
 社会学者として、自分の見立てや言説によって社会のかたちを描きたいという思いが、僕にもないことはないんです。でもそれ以上に、なぜこの人たちのことは知られていないんだろう。あの人は、この人たちのことを知らないんだろう。それはよろしくない、という気持ちがある。
 例えば難病という分野の医療者として何十年も従事している人が、障害者の社会運動組織や、政策を作ろうとする動きについて知らない。その結果として、国立療養所以外の別の場所でも暮らせるはずの人たちが、外の世界と遮断されてしまい、そこに留まる選択しかできない。あるいはわずかにそこを出た人が、個人的な苦闘や困難に見舞われることになる。それは端的に、病・障害者の暮らしにとってマイナスです。長い間の断絶のために、知られるべきことが知られず、損をする人がいるのは嫌だな、良くないな、これからでも変えた方がいいなと。青の本で、筋ジスの人たちについて書いたのは、そういう素朴な気持ちからです。だから、形として社会を描こうというよりは、実践の気持ちが大きかった気がします。
 二〇〇四年に『ALS』という本を書いたときに、看護師たちが医療に関すること以外、何も知らないことに気づいたんです。何で知らないんだろう、と思うわけですよ。
 それは先ほど天田さんが言った、何で社会がそうなっているのか、ということに関わってくるのですが、まずはごく単純に形成された断絶について言えるかもしれない。自分たちは医療者であり、目の前にいる人たちは病人である、その関係だけで成立する世界があった。一方、医療とは別の側面で、運動を通じて、彼らの生活を支援し形成してきた人たちがいた。その目に見える縄張り争いは、九〇年代から二〇〇〇年代にかけて起こるわけですが、それはまことに下世話な話で、医療ケアを誰が担うかという、業界内での縄の引っ張り合いになっていきます。つまり業界が自分たちの立場を守ろうとしたり、領分を拡張しようとする中で、断絶が形而下的に形成されていったのだろうと。そういうことをしていたらこの社会はだめだよね。

天田 それがいまにつながっているわけですからね。そういう意味では、これは確かに「実践」的な本であり、社会学者なら最低限これぐらいのことを知っていなければだめでしょう、社会学者以外の人も知っていてよ、という二重三重のメッセージになっていますよね。
 でも立岩さんが、社会のフォルムを描くことを意識しなかったとも思っていないんです。ただ明瞭な輪郭で描く必要はない。その表明もまた、この本の面白さだと思っています。
生政治や生権力といった、どこの社会にも普遍的に通じるような社会の形式を描こうとしたのではなく、我々が生きる、この陳腐で平凡に出来上がった社会のフォルムを、描いたということかなと。



天田 もう一つ伺いたいのは、『私的所有論』で立岩さんは、この社会はいかに構成されているのかという話を、ある意味で仕終えているように思うんです。今回の戦後史においてディテールから繙かれた「そもそも論」と、『私的所有論』の社会形式的な言説との接続も、気になるところです。

立岩 『私的所有論』で僕が書いたのは、人間の能力/非能力に関する、社会の仕組みや、それを正当化するロジックについてです。そして『不如意の身体』の最初に「五つある」と書き、できる/できないについて書いた。その点で言えば、『私的所有論』と『不如意の身体』とは繋がっていて、たぶん『私的所有論』のときには、既に同じことを考えていたのだと思います。
 『私的所有論』で書いたことの方が、ここで書いた話より大きいということはなくて、むしろ逆なんでしょう。
 僕は、赤い本で、人間の身体にはできる/できないというオーダーだけでなく、見栄えの差異や、精神的・肉体的苦痛、死に近接している恐怖などがある書き、それらについてはたいして書けません、と書きました。つまり僕がこれまでしてきた理論的な仕事は、人間のごく一部分について書いたに過ぎないということです。
 僕がなぜ、五つのうちの、できる/できないについて書いたかというと、論理的にわりと語りやすく、現実的な解決法を見出し得る、そういうものだったからです。できる/できないの話は、自分ができなくても、他人ができれば何とかなるということに尽きると思うんです。

天田 シンプルですよね。

立岩 現実には難しいにしてもね。他方、自分の姿形を人と入れ替えることはできないし、それをめぐる好悪について書くことは難しいし、書いたとしてどうなるものではない。あるいは、苦しさについて、苦しいという以上のことを何か書けるか、そして書いたから苦しみが減るわけでもない。だからそれらは、書かずに置いてきたところがある。
 つまり僕は、そして障害学の主流もそうだと思いますが、社会的に変更可能なものについて、書いてきたのだと思うんですよね。ただ、痛みや苦痛や死そのものを論理的に分析することは難しくても、人間がそれを纏っていることは事実で、それがあるということは、言っておくべきなのではないか。

天田 能力/非能力の話は、語られてみれば、非常にシンプルな話です。できる/できないには、そもそも個人差がある。そして、ある人や身体から、別の人やその身体へ移動させることはできない。だけどできないことは誰かほかの人間がやればいいし、機械が補ってもいい。ところが、できないことは社会的な不利益だと捉えられ、できるようになるべきだとされてきた。リハビリは、痛みを伴うものであるのに、例えば脳性まひの人に対し、ときには無駄なリハビリが行われてきたのだと。
その他の、姿形の違い、苦痛、死、加害性についても、そのものについては言えないにしても、社会の中に「不如意の身体」というものが、五つの要素を纏って、現にそこにあってしまう、そのことが示されている。その把握が、単純だけど重要なのだと思うんです。痛いものは痛いとしか言いようがないし、苦しみはいくら語っても苦しみだし、死を除くことはできない。でも痛いこと、死の恐怖、人と異なることの苦しみ、あるいは加害性と、社会との接触面についてなら書ける。立岩さんの書くのは、痛みや病と我々の社会がどう関わってきたのかという話です。
 これは医療社会学や生命倫理、人類学などの分野で、身体そのものを題材に、痛みや苦しみ、死について記述するのとは根本的に違う。了解しておくべき言説だと思います。ただ、すんなり受け入れられるかと言えば、むしろ業界の人の方にとって、ハードルが高いかもしれません。



立岩 個々の痛みそのことについては語りにくいけれど、社会の中でのウエイト付けや優先順位については書ける。あるいは、できないことと痛いこととのウエイト付けが、社会の中で変わってくるということは言うことができる。例えば熊谷晋一郎さんの『リハビリの夜』には、簡単に言うと、痛いのを我慢してできるようになることを求められてきたことが書かれています。リハビリには「痛い」という契機と、「できるようになる」という契機があって、できるようになることの方が、痛いということより大切だという、そういう営みとして、ある種のリハビリがあった。
 リハビリを全面的に肯定する話も、否定する話もつまらない。そしてさらに、どちらとも言えないという話はさらにつまらない。こういうところは受け入れがたいとか、ここまでは認めてもいいとか、もっと精度の高い話をしたいわけです。
 そのために、リハビリをすることの中にある要素を愚直に数え上げて、そのウエイト付けが、社会の中でどうなっているのかを記述する。そういうシンプルな道具立てが必要ではないかと思っているのです。

天田 痛いこと、できる/できない、治る/治らない、かかる費用……等々、区分をどう数え上げ、それをめぐってのウエイト付けと、そこにどんな利得と損失が働いているのか、まずそこから整理しよう、ということですよね。しかし数え上げたところで、同じ天秤に乗らないという側面もあると思うんですよ。

立岩 できるということと、痛いということは、質が違いますからね。そもそもどちらが大切かと問われても困る。でも、同じひとつの身体の中に埋まっているものなので、場合によっては、どちらかを優先せざるを得ないということになる。しかも厄介なのはその優先順位が、本人にとってと、他人にとってで、違うということです。リハビリをさせられる本人は痛い。周りの人たちは当人は痛いだろうとは思うけど、実際に痛いわけじゃない。そこは大きく違うわけです。そういう非常に単純なことを踏まえておかないと、どうしてリハビリを忌避した人がいたのか、治らないのに続けざるを得ない人がいたのか、そういう一つ一つについて、きちんと考えられないと思うんです。

天田 立岩さんのように、基本的な位置に立つところから始める仕事こそ――あまりないのですが――社会学の仕事だろうと感じます。
 できないことは、他者や機械の補いで可能になることもある。でも痛いことは変わってあげられない。その前提を示した上で、社会一般のウエイト付けがどうなっているかという話と、そもそも同じ土俵で語るべき話なのか、別の種類の利得と損失であるにも関わらず、なぜ二者択一を迫られるのか。立岩さんは、そうした価値基準が、この社会の中でいかに構成されたのか、その中身を詳細に見つつ、社会の構築してきたものの実態を解き明かしていきます。
この二冊がセットだというのも、本来両方向から見ていかなければいけないことで、手間はかかるけれど根本から解きほぐせばロジカルに言えることがある。それが語られることなく、分断されたまま歴史を重ね、知られるべきことが知られずにあった結果、国立療養所は、あるいは我々の社会はこうなりました、という話になる。この二方向を押さえないと、二冊の本を、丁寧に読み解くことにはならないんです。



立岩 成り立ちというのか、本を書いた思いは、そんな感じだったと思います。
 おまけのエピソードとして、『生の技法』という本になった調査をした、八〇年代半ばから終わり、『こんな夜更けにバナナかよ』に登場する鹿野靖明さんの短文を読んでいるんですよね。でも鹿野さんが同世代で、二つしか違わないと、当時は気づかなかったのね。そしてその人は、僕が生きてきた数十年手前に亡くなっている。鹿野さんの場合は、渡辺一史さんが本にしてくれて映画にもなったけど、僕が今度の本で書いた高野岳志さんや、福嶋あき江さんことは、そばにいて彼らに関わった人でないとほとんど知らない。彼らも僕の同世代で、八〇年代に国立療養所を出て、その後一人で千葉で死んだり、埼玉で死んだりしている。それって何よって。何かそういう思いがあるんだよね。
 それでも彼らはまだ字が書ける人たちで、文字として残されたものがある。福嶋さんも高野さんもその人生は短かったけれど、最期の数年間に書きものを残しています。が、それは例外的なことで、残るようなかたちでは何も語らずに、逝った人がたくさんいます。
今回の本を書きながら思っていたのは、結局僕は言葉になっているものを再構成して、言葉にし直しただけともいえる、ということです。

天田 ある物からしか書けないけれど、ないものにどれだけ思いを寄せるかということですよね。

立岩 昨年、福嶋さんが埼玉に暮らしていた時に、埼玉大学の学生で、以来地域で活動していた佐藤一成さんにお話をうかがうことができました。島田療育園で働いていた石田圭二さんたちにもうかがいました。いまのうちに聞いておかねばというような、単純な動機も、この本の元になっていると思います
 島田療育園での脱走事件の顛末も初めて知りました。三十年前に、島田療育園を出て暮らそうとした斉藤秀子さんという女性がいるのだけど、それに関わって解雇させられた石田さんはいまでも多摩で障害者支援活動を続けていました。
 重心(重症障害児)の施設とされたところも、当初は知的にも身体的にも極めて重度という人ばかりが収容されていたわけではありませんでした。
 ただそんな事件もあり、また事故で人が死ぬなどガタガタになっていた島田療育園を立て直しに入った、ある種有能な施設長が、出たい人出られる人は出てよい、という方針を出したのだそうです。その流れの中で斉藤さんは、身体障害者福祉法でいうところの療護施設に移って、十数年後に亡くなったそうです。物を書けたり、話せたりする人は出ていった。結果、物を言えない人だけがそこに残ることになりました。
 まず一つ、いろいろな人がいることが、都合のよい方に一色にさせられることがあります。園は斉藤さんの脱走について、知的障害ゆえに、その行いは本人が主体的に行ったものではなく、反主流派の施設職員がそそのかして連れ出したと主張し、斉藤さんを連れ戻しました。いまでも、ついこないだも、本人に知的障害があるからということで、本人同意では記録を見せられないといった旧国立療養所がありました。その人はフェイスブックなんかやってる人なんですが。
 同時に一つ、他方でほんとに話せない書けない人だけがいるという空間はあります。そのようになった経緯もあります。今回の本に重心の人たちのことを書いたかといえば、書いていないんです。書けないからです。この語れなさには、とても難しいところがあります。そしてその沈黙を、わずかに残された別の言葉から語り得るのか。その難しさを感じないわけではない。

天田 でもそれ以外にやりようがないですからね。

立岩 そう、当然バイアスも出てくるし、おじけづきたくなる気持ちもあるんだけど、他にはやりようがないと感じながら書いています。黙してしまうのではなく、これしか残されていないというコンテクストも含めて、提示することはできるし、やるべきだと思う。ただ気を付けないと、病・障害者の中でも、先駆的だったり、元気だったり、発言力がある人たちの物語が、全体を語ることになってしまうのは、違う。一方それがマジョリティではないからといって、無視していいものでもない。そのせめぎ合いは、厄介でもあるけれど、僕にとっては面白いんです。

天田 限られた資料からしか語れないことは往々にしてあるので、語らないという選択ではなく、我々はアクセスできるところでしか、話を聞いていない、という自覚を持ち続けるということでしょうね。
 そしてやはり知るべきこと。先ほどの島田療育園の有能な施設長の話などは、いまその業界にいる人たちも、知っておくべきことだろうと思いますね。つまりCを知ることで、知っていると思っていたAの見方や、Bの見方が変わることがある。

立岩 島田療育園と、創設者の小林提樹が讃らえ、びわこ学園と、糸賀一雄が讃えられる。島田とびわこは、いつでも障害者支援施設中興の祖、と賞讃される。でもそれだけでは何も伝わらない。例えば両者にはずいぶんの違いがあります。そう簡単に並べられるものでもない。そして、各々のよさがどういうものであったのか。さらに、よさ、ということでは、すくなくとも今日的にはならないのですが、例えば小林提樹という人が、実際に何をしたのかということも、見ておかなくてはいけない。この人は五〇年代に精神障害の治療として、大脳の神経回路を切断するロボトミー手術に加担した形跡があるという。それから最近、京都新聞が、障害者施設の近江学園でも、不妊手術が行われ、創設者の糸賀一雄も承知していた可能性があるという。だから悪い人間だったと言いたいわけではなく、そういうことまで込みで、そこから社会の成り立ちを見ていかないといけないのではないかと。

天田 我々の色眼鏡を解除しないと、見えてこないところもありますしね。小林提樹にしても、ロボトミーについて、治る可能性があるなら、なぜその可能性にかけないのかと思っていたかもしれない。我々がいま相対すると思っているものも、当時は順接していた可能性があります。

立岩 ロボトミーや断種手術が、悪いことだと考えられるのは、後の話ですからね。
 ただ主流だった治療法を止めるには、何か理由があったはずで、私たちはその経緯を知り、考えたいわけでしょう。でも、よもや小林提樹の本を読むことがあろうとは思わなかったですが(笑)、その経緯を知らせるものはいまのところ何も出てきません。
 もう一つ言っておくと、今回の本は理詰めで調べていくことだけで成り立っているわけではないということです。一九七〇年代の終わりから八〇年代にかけて、対抗的な社会運動の滓のようなものを、僕が体験していて、だからこそ、存在を賞讃された施設や、尊敬を集める創設者たちといった定説と、実際に見えていた世界にズレを感じるところがあった。僕自身、ある特定の立場で活動し、物を言ってきたところがあって、だから僕は僕で偏っているとは思います。でもそれは仕方がないというか。見えているものがあるのだから、この場所からきちんと書こうと。でもだからこそきちんと調べて、公平に慎重に言おう、という気持ちはありました。
 難病や国立療養所に関わった、椿忠雄、白木博次、井形昭弘といった人たち、彼らはその世界の権威として、一部の人たちの尊敬を集めた。例えば椿は、スモンの原因がキノホルムだと明らかにしたし、新潟水俣病の原因解明によっても知られています。でも別の角度から言えば、水俣病患者認定を厳しくした人物でもある。
 白木も、水俣病に関わり、化学物質の害を言い続けた立派な人だと言われているけれど、そういえば東大闘争に参加していた人たちにとって、白木は敵だったと。まったく知らないほどすっかり忘れていましたが、私より五歳年上の斉藤龍一郎さんが知らせてくれました。
 実際に読むのは、白木の文章も椿の文章も、ほぼ初めてでした。白木が七〇年代に『世界』他に書いたものも読みました。ある意味で真っ当というか、正義感に貫かれているわけです。東大闘争で辞めることになったけど、真面目に物事に取り組んだ人だったことを疑う必要はない。でも、そうだけど、あの時代の彼らの見立てや処遇が、その後を規定することになり、それは僕の目から見たら、やはりおかしいよね、ということです。
 置かれた立場によって、人は一つの側面からしか見ようとしないけど、化粧を剥いで努めて素朴に考えないと、凡庸な社会や政治というものが見えてこない。凡庸で素朴な事実が組み合っていった中で、亀裂が生まれ隠される物があり、美しく語られる物事の後ろに埋もれる事実があり、それらがいまを作っている、そういう話だと思うんです。



立岩 今度、福祉社会学会で、天田さんを中心に「施設の戦後史」という自主企画をやるでしょう。

天田 『病者障害者の戦後』を見据えながら、立岩さんがいうところの、身体をめぐる五つの契機において、それぞれの施設から、どのように戦後史が語れるのかという取り組みです。ハンセン病の施設がどうだったのかは、知的障害の業界ではほとんど知られず、知的障害の話は、ハンセン病他の施設と共有されていない状況に、何か一つ投げ込みたいと。

立岩 書籍の点数だけでいったら、ハンセン病関連は圧倒的に多いけれど、もともと結核の人びとの組織として生まれた日患同盟と、ハンセン病の全療協や全患協が、どういう位置づけなのか、その後に出てくる難病の組織、全難連などと、繋がっているのかいないのか、そういう関係性を書いたものはほとんどないんだよね。
 いろいろ思うことはあります。労使対立がどのように収束していくかは、労の側にずっとついていては見えないところがあります。国療の歴史では、職員サイド、あるいは組合サイドが、自分たちの職場雇用を守るために、新たな病・障害者を収容することに賛成していくという流れがあった。良し悪しはまずはおいても、その事実を書いておかないといけない。医療者、経営者がおり、労働者がおり、そこに入所している病・障害者がいて、その家族がいて、各々の施設に共通しているところと、異なるところがある。
 もともと結核の人たちが入居していた国療には、六〇年代に入り、筋ジスの人たちが入所していったわけですが、そこでは関係各位の利害が一致していました。経営者は入居者募集中だったし、看護介護に困った家族がいて、この子たちを何とか救おうという声があり、その話を聞いて涙する政治家がおり、労働者はこの場に勤め続けたかった。

天田 ハンセン病の菊池恵楓園に勤めている人は国家公務員ですから、入居者が減ったからといって、労働者の雇用を目的に、人を入居させなくてもよかったはずです。療養所ではない場所に配置転換する、なぜそういう話にならなかったのか。その背景には、ハンセン病の隔離政策が進んでいったという社会状況がありますが、さらには、もともと多くの人を菊池地区から現地雇用していたために、職員が配置転換を嫌がった。そのあたりでは比較的割のいい仕事でもあったので、療養所を残すことを切望したんです。自分たちの労働保証と、同時に毎日顔を合わせていく関係性の中で、当事者たちへ強いコミットメントが起こるという、奇妙な成り立ちがあった。

立岩 そうなんですよね。日患同盟で結核のための療養所が減らされていく中で、そこを放り出されて、生活のあてがないと、残りたい人もたくさんいたわけです。そこで、働く場を維持したいという人たちと連帯していくし、日頃は組合を目障りだと思っている経営者も、都合によっては利害が一致する。そういう歴史がどのように出来上がってきたかを、見ておきましょうということですね。

天田 療養所の歴史について知るにも、患者だけでなく、労働者、組合、経営者、家族や、場合によってはそれ以外の団体にも目配りをするという、相当数のアクターにフォーカスせざるを得ないことになります。それは一つの業界にいる限りにおいては難しい作業で、やはり社会学者がすべき仕事なのではないかと思います。個々の出来事のディテールは当事者がよく知っている。でもそれを組み合わせることによって、どこに亀裂や溝や断絶や、あるいは同床異夢があるのか、見取り図がないと説き明かせないところがある。

■アーカイヴィングは、大学の社会的使命 ▼20192590

天田 社会学の基本として、人物にフォーカスをあてて、まだ表に出ていないことをきちんと調べていくということは、とても大切なことですが、当事者やその家族が亡くなれば、資料が散逸するのはほとんど間違いない。立岩さんが繰り返し書いていますが、いまはかろうじて、戦後の日本に起こった物事を、調査できる最後の時期ですよね。

立岩 ハンセン病関係などももう危機的な時期に至っています。ハンセン病の療養所の長島愛生園も、建物があった一帯を保存するというのが、なかなか難しそうで、そのことに関心をもってもらおうと、こちらの研究所でも企画展示を今年やろうと画策している人がいます。

天田 いまかろうじて残っている資料や、当時を知る人びとにも、アクセスがどんどん困難になっています。そうした資料の収集をたぶん国はやらないので、大学がいかに資料を集積していくか、という話になりますね。

立岩 昨年十二月の頭に、同僚の医療社会学の美馬達哉らが企画した、各大学や民間団体の人を集めた、アーカイヴィングに関するシンポジウムは面白かった。
 例えば立教大学には、市民の社会活動に関する資料を収集・公開する共生社会研究センターがあるし、法政大学には大原社会問題研究所の中に、環境問題に関するアーカイブを持っている。それから神戸大学には、震災に関するアーカイヴがある。どこもお金も人も余裕があるわけではないので、一校一芸を目標にやっていくんだろうと思っているんです。

天田 カリフォルニア大学バークレー校をはじめいくつかの大学では、様々なアーカイヴィングが進んでいます。面白いのは、基本的に様々な人たちや組織に資料を寄贈してもらう仕組みになっているのですが、事前に厳密に領域やジャンルを設定していないことです。各種のマイノリティの運動も障害者運動も高齢者運動も、さしあたり区別しないことも少なくない。受け取った後の資料の取捨選択の際に、丁寧に資料を分類していく合理的な仕組みになっている。

立岩 昨年、脊損連の元会長が亡くなられて、段ボール五〇箱の資料を受け取ったんです。一部屋いっぱい、さあどうしよう、ということになりましたが(笑)、ここ数年、資料を引き受けてほしいという依頼が増えています。

天田 そうした資料を取捨選択、整理する仕事を若い研究者が数年かけて行い、その作業の中から、自分の研究テーマを見つけていく、という流れはありだと思っているんですよ。
 研究は独自に物を考えることだと思われがちだけれど、実は資料をきちんと整理収集、分別するという単純作業を通して研究が進むことがあります。玉石混淆の資料を整理する中から、社会学を志す人それぞれがテーマを見つけ、物事を考えていく。研究者を育てる意味でも、社会学研究を底上げするためにも、そうした仕組みは合理的かつ効果的に思うんです。

立岩 知るべきことが知られ、私たちがものを考えることできるようになるために、アーカイヴィングは大学の社会的使命だと思います。(おわり)


UP:2019 REV:2020
天田 城介  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇病者障害者運動史研究 
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