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ここにもっとなにがあり、さらにあるはずについて

解題に代えて

立岩 真也 2019/**/**

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窪田 好恵 201904 『くらしのなかの看護――重い障害のある人に寄り添い続ける』,ナカニシヤ出版

 ◇重症心身障害児(者)/重症心身障害児(者)施設/「全国重症心身障害児(者)を守る会」
 ◇立岩が関係した博士論文

「論文の要旨」

 まず本書のもとになった博士論文の審査委員会(の長としての私)が書いた「審査報告書」の中に「論文の要旨」がある。この部分は、著者(以下窪田さんを指す)が書いたものを適当に短くした部分だが、本をざっと見てそういう箇所がないように思えたので、再掲する。なお、その書類がどういう(めんどうな)ものであるかについては、同じ時に論文を提出し同じ時に博士号を取得した葛城貞三の本『難病患者運動――「ひとりぼっちの難病者をつくらない」滋賀難病連の歴史』(生活書院、二〇一九)に書かせてもらった「ここから始めることができる」をご覧ください。ただ以下の「論文の要旨」については著者が書いたものをたんに短くしたに近く、手間はかかっていない。

 構成は以下。序章、第1章「重症心身障害児者(重症児者)施設の歴史的背景」、第2章「重症児者に関する法と親の運動」、第3章「看護はどのように定義され重症児者看護はどこまで研究されてきたか」、第5章「重症児者看護を継続してきた看護師へのインタビュー調査」、第5章「第一世代の看護師が長年重症児者施設で働くということ」、第6章「第二世代の看護師が重症児者施設で働くということ」、第7章「くらしの場を職場として選択した新人看護師たち(第三世代)」、終章。
 重症心身障害児者(重症児者)施設で働いてきた看護師がどのようにそこでの仕事を捉え、仕事を続けることができているかを探ることが目指された。そのために、重症児者施設に一年から四一年間勤務した看護師十六名へのインタビュー調査を行い、語りを帰納的にカテゴリー化した。その結果十一の要素が抽出された。「職場選択の経緯と理由」「社会/法の変遷」「組織体制/職場文化との関係」「重症児者との関係」「親との関係」「他職種との関係」「看護師同士の関係」「看護実践」「倫理的ジレンマ」「自己肯定感」「使命感」である。また、その要素を、重症児者施設の歴史と法の変遷を併せて分析することで、十六名は三つの世代に区分された。第一世代に属する看護師は、重症児者施設が開設されてまもなく入所者全員が小児であった時期に、保育士らと一緒に試行錯誤で看護を築き上げてきた看護師たちである。第二世代に属する看護師は、入所者の年齢が成人に達するようになり、障害の程度も重度化した一九八〇年代から二〇〇五年に就職した看護師たちである。第三世代に属する看護師は、入所者が高齢化し障害はより重度になるとともに、診療報酬の改定により看護師数が多くなってくる時期に就職した看護師たちである。
 さらに分析を深めると二点が明らかになった。一点目は、看護師の重症児者施設選択の決め手は重症児者との接点だということである。二点目は、重症児者施設で勤務する看護師の就労継続の決め手となるものは、キャリアのある時点で福祉職と協働する〈くらしの中の看護の再定義〉が起きることである。各世代の看護師の語りを読み解くと、重症児者施設で働いてきた看護師の〈くらしの中の看護の再定義〉には次のような特徴があるとわかった。第一世代の看護師は、「みんなで一緒に」療育を創ってきた時代において、職種による境界のない援助が楽しく「これでよい」と感じている。その看護は、従来の「医師の補助を中心した看護」ではなく、重症児者のくらしの中で展開される看護である。それは、医学モデルから独立しようとして提唱された看護理論で定義されているところの看護の本質そのものであった。重度化し成人期の入所者が増えてきた時期の第二世代の看護師には、入所者の日常を支える前の世代のロールモデルが存在し、一般病院でない場で働き続けることを「看護は生活の支援」と捉えることで意味づけていた。第三世代の看護師になると、施設の中での医療が拡大し、また多くは新人として働き始め職場環境への適応が困難なことから自己肯定感が低下しがちだった。しかし、だからこそ、自らの仕事の意味を探し自らを位置づけようとする中で、先輩看護師や異職種の同輩・上司の支えによって「看護の再定義」が起きることが確認された。


「論文審査の結果の要旨」

 次に「論文審査の結果の要旨」を再掲する。ここを書くのがいかに面倒なことなのかは、やはりさきの葛城の本の解題に書いた――ただ以下についても、そう手間はかかっていない。

 看護師(だけ)に認められている行為を行なう場面は、確かに各世代の看護師たちにおいて自らの出番であると捉えられており、その仕事の甲斐のある部分となってはいる。生活の場の拡大を求めようとする福祉職の人に比べると、生命の維持の方に重きを置き、そのことで二つに大別される職種の間に葛藤が生ずることがあることも記述される。ただ、その上で、結局はその差異によって自らを規定するのではこの仕事は続けられない。このことが本論文で説得的に示される。
 例えば筆者が第三世代と呼ぶ人たちについて。重症児者施設で看護師・医療職が固有にできる(認められている)ことはある。入所者が重度化していてそうした技術の行使の場面は多くはなっている。それでもその生活の大きな部分は介護と呼ばれる仕事によって支えられている。近年の看護職の増員で数は多くなったが、その多数は新人であるということもある。施設で長く入所者に関わってきている福祉職の人に比べ、自分はなんだろう、と思う。学校で習ってきた最新の技術が発揮できるわけでもなく、そんな設備があるわけでもない。それで辞める人も多い。しかし続ける人もいる。その人たちは、狭義の医療技術の行使を補助する仕事でなく、毎日続く生活をただ支えることが自分の仕事だと思えた時に仕事を続けられる。しかしそれが結局看護の「本義」ではないか。本論文では「再定義」という言葉が使われるが、それは看護の「最初にあるもの」「もとのもとにあるもの」に戻っていくことだ。そのことを入所者から受け取ることによって、自らの仕事から感じることによって、そして同じ職種や異なる職種の人の働き具合にふれることによって、その施設での看護師の仕事が見つかり、続けられる。
 重症児者施設での生活やそこでの労働についての研究は少なく、看護師に関わる研究はさらに少ない。本論文はそうした中で希少な研究成果であるというだけでない。本論文は、インタビューで得られた多くの言葉を引用・紹介していって、その感情の機微と感情が位置するその構造を明らかにしている。重要で意義ある研究がなされたこと、博士論文として十分な達成であることについての審査委員の評価は一致した。
 その仕事ぶり、仕事の位置、仕事の意味づけには変化もあり、変わらないものもある。そしてこれらに関わって、この重症児施設というものが有している歴史的・制度的な位置づけがある。本論文は前半でその施設の成り立ち、経緯を明らかにし、さらにそこで明らかになったことと、看護・看護師のあり方の関係を示している。そもそも医療の割合が少ないこの種の施設が医療施設として始まったのは、その方が予算を多く獲得できるからだった。さらに近年、第三世代の新人看護師が多く採用されるのも、配置される看護師の数が増えその数に応じた予算措置が講じられるようになったからである。そうした成立や変化の機制によって看護と看護師はそこに大きく位置づいてはいるのだが、しかし生活と仕事の実質においては自らはさほどのことをしていないとも思えてしまう。そこにこの施設に働く看護師の悩みも、思い直しも発している。
 施設と制度に関わる歴史を記述した第1章・第2章とのその後の部分の接続について口頭試問において質疑があったが、筆者はそれに応え、制度、制度の変化と看護・看護師の「再定義」との連関を説得的に示した。複雑な歴史的経緯をもち、現在も医療の制度と福祉の制度が重なりあっている、この国に独自にある重症児者施設の歴史分析・構造分析の意味を本論文は示すとともに、本論文自体がその端緒を開いた。審査委員会はこの点も高く評価した。


具体的に個別の全体を書く、というのもある

 本書のもとになった論文は、だいたいいま引用したように評価できると思う。その上でだが、幾つかある。そして「要約」「講評」的なものはもう終わったことにして、以下は、解題とか解説ではない。せいぜい、横からなにか言うといった類のものだ。そしてそれは本書に対してというだけのことでない。日頃思っていることを、すみませんが他人さまの本に、というものになる。そしてさらに反則だが、拙著(立岩の本)の引用など長く――さきにあげた葛城本にはもっと長い引用をしてしまったのだが――引用する。
 何を書く/書かない/書けないかについて。看護の人は結局看護師のことを書く。それは看護学ならほぼ仕方のないことだ。看護という実践に関わる学が看護学というものということになっているからだ。ただ私が働いている研究科は看護学の研究科ではないから、その制約はない。それでも、著者は看護師のことを書きたかったのだ。なら書けばよいというだけのことなのではある。ただ、例えば訪問看護のことを研究している人がこちらに幾人かいるのだが、看護(師)のことを書くにしても、看護されている人にとっての看護(師)のこと「も」調べて書いたらよいのに思うことがある。同じことは看護(師)が関わる他の様々についても言えることだ。
 しかし、本書の場合は確かに難しい。理由はまずは単純で、重症児者は、ほぼ、語らないからだ。そうした場合は仕方がないのか。仕方がないとは言いたくはないが、どうしたらよいか。どうにもなりはしない。しかし、それでも、いろいろとやってみることはできる。
 本書に書かれているように、看護師になった時期、その施設で働いてきた期間によって異なるというのはその通りだろう。ただ、著者がよくわかっていること、そして著者と幾度が話したことがあるのは、施設によってもかなり違うということだ。
 そのことは今回本書には書かれていない。それは著者がこちらの大学院に来る前に既に始まっていた調査における調査対象の選定、同意のとり方に制約されていて、仕方のないこと動かせないことだった。だからまったくのないものねだりなのだが、その空間がどういうふうにできてそして今どんな空間なのか、具体的にわかるとよかった。それは一つの場でもまったくかまわなかったと思うが、幾つかの施設であれば、その各々について書かれ、そのなかで働く看護師のことが書かれるとよかっただろう。
 私は書かれたものを使って書くから、そこに固有名詞が書いてあればそれをそのままに記す。ただそれだけのことでなく、どこの病院・施設で、ということは大切だと思う。「A病院」とかでも、かまわない。さらに可能なら、人にせよ施設にせよ、固有名を記すのがよいと思う。その理由は幾つかあるかが、一つには、「それ」「その人」についての次の研究を誰かができる、引き継げるということだ。同じものを別の面からみる研究・記述もできるということだ。
 この部分で、本書がではないが、多くの研究に無駄でときに有害な萎縮があると私は思っている。それは近年の「研究倫理」の流行にもよるのだろうが、それだけのことではない。例えば施設入居者への(もちろん本人同意のうえでの)調査・インタビューやその公表について、施設の側の了承を得ねばならないと思ってしまっている人がいる。これは、基本的には、とんでもないことであり――施設の側にそんな権利・権限などあろうはずがない――そんなことを思ってしまうこと自体が、よくない現実を維持し肯定しているその一部であるということには気付くべきだ。

その各々の配置を見る、というのもある

 こうして本書では、研究・調査の設計として、一つひとつの施設の成り立ちやその空間のあり方と看護師たちの働きや感じ方をつなげることはなされなかった。そこで第T部の記述は、第U部とは一定独立のものになった。第U部を書くためにをどうしても第T部が必要であったのかと考えれば、そうではないかもしれない。ただ、それでも、まず私自身、書いてくれることを望んだ。だから書かれたわけではないが、第T部は書かれた。多少不格好であっても、私は、あった方がよいものはあった方がよいと思う人だ。
 その私は私で、本書が出る少し前に、『病者障害者の戦後――生政治史点描』(青土社、二〇一八)という本を出してもらった――以下()内の三桁の数字はその本の頁。そこに、島田療育園、びわこ学園から始まりつつ、やがて国立療養所が重症児者と筋ジストロフィーの人たちの収容施設になっていった経緯、そしてその後を略述した。そこに筋ジストロフィーの人たちが書いたものはたくさん出てくる。私の本はほぼ書かれたものだけを使って書いたから、全体の分量としても筋ジストロフィーに関わる記述がずっと多くなった。その本についてはそれで仕方がないとは思ったが、もちろん、ただ本人が話さないからといって、重症児者についての記述が薄くてよいということにはならない。その薄いところを本書が書いてくれている。そして、もっと書いてくれたらもっとうれしかったと、私は、思う。これは論文→本書のまとまりを作ろうという方向の助言・指導ということであれば、むしろそれと逆向きのもの言いになるかもしれない。ただ、それでもそう言いたい。
 施設によってだいぶ異なるはずだと述べた。多く島田療育園とびわこ学園が並べて語られるが、その二つの間だけでも、だいぶ異なる。

 「重心」といえば必ず小林の島田療護園、そして糸賀一雄のびわこ学園が引き合いに出されるが、その偉人たちやその活動についても、見ておくことはできるかもしれない。その人たちの思想や実践について、これまで書かれてきたものにすべてをまかせ肯定すればよいとは限らないようだ。[…]意義があるのかわからないが、その確認のためにも、調べておいてよいと考える。また、島田とびわこは枕詞のように二つ並列させられて語られるのだが、その二つの間にもずいぶん違いはあったはずだ。そんなことは当然だと言われるかもしれない。しかしそれは具体的に明らかにされた方がよく、さらにそうしたことは、「公式」の「  年史」の類や先駆者を賛美するために作られた書物等によってはたぶんよくはわからないはずのことだろうと思う。(259-260)


 そしてこの二つと、その後多くの人を収容していった国立療養所(国療)は違い、国療の各々もまた違うだろう。本書で筆者が述べようと思ったことが書かれるに際しては、それを記すことは必須ではなかった。しかし一つひとつを書いてくことの意義はある。

 […]先駆的であったものがやがて普通のことになっていく[…]。政策化された後、子どもたちを数多く引き取っていったのは国立療養所だ。そうしたことを看過することになるのであれば、それはよくない。
 […]業界、業界の学界の人々は、先駆的で代表的な施設やそれに関わる人を語って、その全体の歴史を語ってしまうことがある。ただそこには何種類かの間違いがある。一つは、そこに起こった問題、衝突が十分に記述され検討されることがないからだが、もう一つはもっと単純なことで、目立ったところを書くことはその全体を書くこととまったく別のことだということだ。先駆的な施設は、なにかしらの志から始まり、それが続くこともある。注目され模倣されようとするなら、その分がんばろうという気になる。国立療養所であっても仙台の西多賀病院のように、最初に筋ジストロフィー者を自ら受け入れることに決めた施設は、その時からしばらくの間は、いろいろと工夫したり入所者に協力したりすることがある。そこには見学者などもやってくることがある。[…]
 多くの病院・施設は、結核療養者の減少といったことがあり、制度の改変があり、成り行きがあって、受け入れることに決まった人たちを受け入れる、普通の施設・病院だ。経営者は官庁からの天下りであったり、大学の医学部から移ってくる人たちであったりする。[…]
 思想を点検し考察すること、それと現場との距離を測ること。[…]ほとんど言葉のない空間を見ていくこと、しかしそれでも言葉があって言葉が伴った動きがありその消去・忘却の動きがあるなら、それを再度言葉にすること。そのいずれについても私たちはたいしたことができていない。
 全国各地に、近所の人たちもなにか建物はあるがどんなものかはよく知らない施設、近所に家もなく人もあまりいない施設があって、そこに長く静かな日常があってきた。むしろ、それが現実のほとんど全部なのだ。本書で書いてきたのも、大きな静かな空間、長い時間を囲っている縁(ふち)、その始まりのいっとき、熱くなったり苦労したりしたその挿話だった。より大きく静かな時間と空間は書かれない。(261−263)


今とは違う人が入った時期もあった

 もう一つ、私が著者から教わったのは、そして本書にも記されているのは、かなり以前のことにはなるが、言葉を話したり文章を書いたりする人もけっこういたことがあること、その人の中には高齢になって今でもそこにいる人がいるということだった。

 初期においてはかなり多様な人たちがいたようだ。びわこ学園に務めたことのある窪田に、そこには脳性まひでものを書いたりする人もいると聞いた(264)。そしてその人たちは当然、今はもう小児などではまったくなく、高齢に達している。さらに文献にも当時サリドマイド児も入所していたことが記されている。制約はありながらも、まだそれほど規定がはっきりしていなかったこともあり、困窮度によって、あるいは施設やその関係者への訴えが――ときには有力者を介してということがあったかもしれない――有効であった限りで、入れる人は入れたということかもしれない。(116)
 例えば一九六〇年代前半、サリドマイド薬害の子どもたちが島田療育園にいた。びわこ学園には、就学を求め、それを希望する文章が小さな雑誌に掲載された人もいる。そして、その人も他の多くの人も、もうすこしも子どもでなく高齢になっている。それまでのことを職員が聞き取った記録があり、びわこで働いたことがありそうした施設で働く看護師についての研究をしてきた窪田好恵を介して入手できた。許可を得て全文をHP公開している。(264)


 そして私は、島田でもものを言う人がいて、その人が「脱走」し、それを「手引き」した職員が訴えられたりといったことがあったことを記した(264・423−425)。

 一九八二年に島田療育園を「脱走」した人の文章も文集に残されている。二〇一七年、その脱走に加担した石田圭二[…]にインタビューをして知ったことだが[…]、事件を起こした人は別の施設に移った[…]。
 騒いだ人がいて、あるいはごく小さいできごとであっても、騒動になった。そしてその人たちのある部分は、施設から出た暮らしを始めるなどして、いなくなる。すると、なにかがとくによくなったというわけではないのだが、騒がしさは減る。さきに、より大きく静かな時間と空間と述べたものは、このあたりに現れる。
 こうして、居住している人に変化はあるのだが、一つ再度確認しておくことは、それは、医療の側にある必要のないことだったのだが、基本的に医療の側が受け持つことになったということだ。そのいわれを本書では書いてきたのでもある。そもそも国立療養所が「病院」である必要があったかといえば、たいしてない。「国立病院」があったのと別に「国立療養所」であったこともそれに関わるだろう。(264)


 また東京都の府中療育センターの場合には、当初重症児者だけの施設にしようとされたが、予算の都合で他の人たちもいっしょになったということのようだ。そんなこともあって、「自己主張」する(できる)人たちによって「府中療育センター闘争」と呼ばれるものが起こったことを紹介した(252−258・422)。
 そんな人たちが語らぬ人たちを代理したり代表したりすると捉えることはない。さきほど出てこないと述べた「本人」の代わりになると言いたいのではない。ここはどう書いてもうまくは落ち着かないのだろうと思う。ただ、あったことはあったのだし、「正史」の類にはそうした部分が省かれてしまうことは知っておいた方がよいと思う。そうしたことごとの脇で、人々は働いてもいる。どんなことがあったのかをまずは知っておく必要はある。そう思って私は私の本を書いた。

ざらっとした部分を、少なくとも残しておく

 著者は、いくらか私を?気遣ってくれた部分もあってか、施設(のほんのいくつか)にいま私が触れたような批判的な雑音的な動きがあったことも記している。それが本書全体に「効いている」かというと、そんなことはない。だから、やはり「余剰」ではあるのだ。しかし、まずその話の落ち着きどころがわからなくても、書いておくことには意味があると、私は、思う。そこが全体の中に位置付かなくても、なにかすこし「ざらっとした」感じが残る人がいるかもしれない。するとそこから、別途、調べたり考えたりすることもできると思う。
 私は私で考えてみた。「守る会」やその中心にいた人のこと(126−)について。そして二人の「偉人」について。小林提樹が一九五〇年代にはロボトミーに関わったという報告があることは、こちらの現役の院生の植木是から教えてもらった(190−191)。詳しいことは何もわからない。そのことをもってあげつらうつもりは何もない。ただ、不可解でもありまたありそうなことでもある。研究がすることの一つは、そんな「つるっと行かない」部分を残して、それを考えてみることだと思う。私は、この二人に対してどういう態度を取るのかと問われれば、肯定する。問題はそのうえでのことなのだ。ただたんに礼賛することは、その偉人たちを讃えるためにも、私はよくないと思っている。

 一九六〇年の前後、偉人たちが現われ、その後社会福祉が発展したという物語がある。東京の島田療育園には小林提樹がいた。滋賀のびわこ学園他の創始者として糸賀一雄がいる。その二つの施設は、重症心身障害児[…]――施設として先駆的な施設だった。その後、国立療養所が、結核療養者の次のお客として多くのその「重心」の子を受け入れもする。小林は医師だが、糸賀は違う。この人は今でも例外的に知られており、その時代(から)の福祉を語る時の符丁のようなものにされている。その人々を尊敬する人たちによって書かれたものもある。ただ、この定番な人たちをあげてなにか歴史を語ったつもりになるのはよくないと思う。人を語り、その人たちが肯定されるべき人たちであるということから零れるものがある。[…]
 まず、私は、その人たちは立派であったと思う。その人たちは、その後の人た2018/12/30ちのように、本人やその「代理人」の(事前)決定に委ねればよいといったことは言わない。「生命の質」といったことも容易には言わない。その人たちに象徴されるような実践がなかったら、かなりの数の人たちがもっと早くに死んでいただろうと思う。それはよいことであった。そのうえでの話だ。
 具体的な検討は一切省いて、二人を二つの「型」としてあげる。悲観的で人道的な人と、人道的で肯定的な人、その二つである。(206−207)
 そうして私は、小林を前者として、糸賀を後者としてしばらく書いている。むろん単純にすぎるのではあるが、ただ「ざらっとした」感じのままでいるより、どうしてそう思えるかを考えてみる。そんなことをしてもよいと思う。

開いておくために、絞りこむ

 重症児者その人たちのことを、その人たち自身から聞いて書くことはできないと述べた。しかし聞けず書けないものを、私たちは悲惨であるとは言ってしまうのだ。なぜそのように言えるか。おかしくはないか。それとは別に、もちろん皆が皆でないが、まずはびっきりしたりぎょっとしたりして、その後いくらか慣れていくという過程がある。そうして言葉なく流れていく生活がある。同時に、本人の反応や変化があって、それが看護・介助する人たちの仕事の「甲斐」になることはあり、そのことも本書では記されている。糸賀はそれを「(横への)発達」といった言葉で捉えたということになる。ただ、それほどがんばって発達を言わねばならないわけでもない。しかし、変化や反応を見出すことによって、さぼらないようにするという方向に自らをもっていくという営為があり、同時に、変化や反応が簡単に見出せないことがさぼってよいということにもならないという諫めの感覚もある。それらもまた本書に描かれている。そうして日常をやっていくことは、「大所高所」からものを言う人と異なる。

 〔例えば府中療育センターの初代所長だった白木博次には〕悲惨の感覚がある。「重心」の人は、脳性まひの人は、ホープレスな人だと言うのである。臨床にいてよく知っている人もいれば、組織の管理的な立場にいるなどして、おそらくはそうでもないという種類の人たちもいる。「現実」に即するから暗いのだろうとも思えるが、実際には、その場に長くいてきた人に、かえってそう暗くはない人がかなりの数いると思う。糸賀一雄の後を継いで「重症児」についてたくさんの本を書いた高谷清もそんな人だと思う。そうした場に働く看護師にも仕事をよい仕事として続けている人たちがいる(窪田[2017]、書籍化したものが[2019])。とするとたんに現場にいるから、というわけでもない。繰り返すが、反対に明るくなる必要もない。しかし、例えば「重症心身障害児(者)」についてどのように人は暗くなる必要があるのか。考えられる要素を分けて取り出して考えてみようと、もう一冊[…]の方で言った。そしてすくなくとも本人に即した時にはだが、暗くなることはないと述べた。いったん暗くなると、悲惨から発する善意を呼び出すことになる。[…]だが、考えてみよう、というのがその本で記したことだ。暗さや敵意が向けられているものを腑分けし分解していこうということだった。(429-430)


 大所高所からの人には理屈(らしきもの)があるから文字にはしやすい。しかし本書で描かれる看護(者)の世界はそういうものと異なって、描くことは、本来、難しい。ただその難しいほうにも確かな現実はある。本書は本書としてそれを描いてくれた。
 そのように読むこともできる。話をどこかに帰着させようと考え、論をもっていくこと、私はそれが、論文・書物の作法というだけでなく、思考するということの本性のようなものとして大切だと思っている。いま引用した箇所で「もう一冊」と述べたのは『病者障害者の戦後――生政治史点描』の一月前に同じ出版社から出してもらった『不如意の身体――病障害とある社会』という本なのだが、その本はそのような本である(はずだ)。ただそのためにも、余剰のような部分を捨てないことも、論文や書籍としていくらか不細工になることもあるのだが、大切だろう。そのことについて、他人さま、著者、窪田さんの書籍の一部を借りて長々と書いてしまった。繰り返し失礼をお詫びする。しかし、「重心」と略されることもある重症児者、の施設についてにわかにすこしだけ勉強した、その中身と、なぜそんなにわか仕事をしたのか、本書を読まれる方にお伝えしたいとも思い。以上書かせてもらいました。失礼いたしました。


『くらしのなかの看護――重い障害のある人に寄り添い続ける』表紙   立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]

■cf.

◇2019/04/09 「窪田好恵『くらしのなかの看護』解題?1――「身体の現代」計画補足・585」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2284960788437562
◇2019/04/16 「窪田好恵『くらしのなかの看護』解題?2――「身体の現代」計画補足・589」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2288361338097507
◇2019/04/22 「固有名を書く:窪田好恵『くらしのなかの看護』解題?3――「身体の現代」計画補足・591」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2291844694415838
◇2019/05/11 「一つひとつの施設を見る:窪田好恵『くらしのなかの看護』解題?4――「身体の現代」計画補足・595」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2305783079688666

◇2011/03/31 「関西・大阪を讃える――そして刊行を祝す」
 定藤邦子 20110331 『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝を中心に』,生活書院,pp.3-9
◇2011/11/30 「補足――もっとできたらよいなと思いつつこちらでしてきたこと」
 新山 智基 20111130 『世界を動かしたアフリカのHIV陽性者運動』,生活書院,pp.185-198
◇2013/11/14 「これは腎臓病何十万人のため、のみならず、必読書だと思う」
 有吉 玲子 20131114 『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』,生活書院,336p. 3200+160 ISBN-10: 4865000178 ISBN-13: 978-4865000177 [amazon][kinokuniya] ※ a03. h.
◇2018/09/30 「この本はまず実用的な本で、そして正統な社会科学の本だ」
 仲尾 謙二 20180930 『自動車 カーシェアリングと自動運転という未来――脱自動車保有・脱運転免許のシステムへ』,生活書院,300p. ISBN-10: 4865000860 ISBN-13: 978-4865000863 3000+ [amazon][kinokuniya]
◇2019/01/25 「ここから始めることができる」
 葛城貞三 20190125 『難病患者運動――「ひとりぼっちの難病者をつくらない」滋賀難病連の歴史』,生活書院
◇2019/03/31 「ここにもっとなにがあり、さらにあるはずについて――解題に代えて」
 窪田 好恵 20190331 『くらしのなかの看護――重い障害のある人に寄り添い続ける』,ナカニシヤ出版


UP:20181215 REV:20181216, 17, 25, 30
窪田 好恵  ◇立岩が関係した博士論文  ◇重症心身障害児(者)/重症心身障害児(者)施設/「全国重症心身障害児(者)を守る会」  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇病者障害者運動史研究 
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