構成は以下。序章、第1章「重症心身障害児者(重症児者)施設の歴史的背景」、第2章「重症児者に関する法と親の運動」、第3章「看護はどのように定義され重症児者看護はどこまで研究されてきたか」、第5章「重症児者看護を継続してきた看護師へのインタビュー調査」、第5章「第一世代の看護師が長年重症児者施設で働くということ」、第6章「第二世代の看護師が重症児者施設で働くということ」、第7章「くらしの場を職場として選択した新人看護師たち(第三世代)」、終章。
重症心身障害児者(重症児者)施設で働いてきた看護師がどのようにそこでの仕事を捉え、仕事を続けることができているかを探ることが目指された。そのために、重症児者施設に一年から四一年間勤務した看護師十六名へのインタビュー調査を行い、語りを帰納的にカテゴリー化した。その結果十一の要素が抽出された。「職場選択の経緯と理由」「社会/法の変遷」「組織体制/職場文化との関係」「重症児者との関係」「親との関係」「他職種との関係」「看護師同士の関係」「看護実践」「倫理的ジレンマ」「自己肯定感」「使命感」である。また、その要素を、重症児者施設の歴史と法の変遷を併せて分析することで、十六名は三つの世代に区分された。第一世代に属する看護師は、重症児者施設が開設されてまもなく入所者全員が小児であった時期に、保育士らと一緒に試行錯誤で看護を築き上げてきた看護師たちである。第二世代に属する看護師は、入所者の年齢が成人に達するようになり、障害の程度も重度化した一九八〇年代から二〇〇五年に就職した看護師たちである。第三世代に属する看護師は、入所者が高齢化し障害はより重度になるとともに、診療報酬の改定により看護師数が多くなってくる時期に就職した看護師たちである。
さらに分析を深めると二点が明らかになった。一点目は、看護師の重症児者施設選択の決め手は重症児者との接点だということである。二点目は、重症児者施設で勤務する看護師の就労継続の決め手となるものは、キャリアのある時点で福祉職と協働する〈くらしの中の看護の再定義〉が起きることである。各世代の看護師の語りを読み解くと、重症児者施設で働いてきた看護師の〈くらしの中の看護の再定義〉には次のような特徴があるとわかった。第一世代の看護師は、「みんなで一緒に」療育を創ってきた時代において、職種による境界のない援助が楽しく「これでよい」と感じている。その看護は、従来の「医師の補助を中心した看護」ではなく、重症児者のくらしの中で展開される看護である。それは、医学モデルから独立しようとして提唱された看護理論で定義されているところの看護の本質そのものであった。重度化し成人期の入所者が増えてきた時期の第二世代の看護師には、入所者の日常を支える前の世代のロールモデルが存在し、一般病院でない場で働き続けることを「看護は生活の支援」と捉えることで意味づけていた。第三世代の看護師になると、施設の中での医療が拡大し、また多くは新人として働き始め職場環境への適応が困難なことから自己肯定感が低下しがちだった。しかし、だからこそ、自らの仕事の意味を探し自らを位置づけようとする中で、先輩看護師や異職種の同輩・上司の支えによって「看護の再定義」が起きることが確認された。
看護師(だけ)に認められている行為を行なう場面は、確かに各世代の看護師たちにおいて自らの出番であると捉えられており、その仕事の甲斐のある部分となってはいる。生活の場の拡大を求めようとする福祉職の人に比べると、生命の維持の方に重きを置き、そのことで二つに大別される職種の間に葛藤が生ずることがあることも記述される。ただ、その上で、結局はその差異によって自らを規定するのではこの仕事は続けられない。このことが本論文で説得的に示される。
例えば筆者が第三世代と呼ぶ人たちについて。重症児者施設で看護師・医療職が固有にできる(認められている)ことはある。入所者が重度化していてそうした技術の行使の場面は多くはなっている。それでもその生活の大きな部分は介護と呼ばれる仕事によって支えられている。近年の看護職の増員で数は多くなったが、その多数は新人であるということもある。施設で長く入所者に関わってきている福祉職の人に比べ、自分はなんだろう、と思う。学校で習ってきた最新の技術が発揮できるわけでもなく、そんな設備があるわけでもない。それで辞める人も多い。しかし続ける人もいる。その人たちは、狭義の医療技術の行使を補助する仕事でなく、毎日続く生活をただ支えることが自分の仕事だと思えた時に仕事を続けられる。しかしそれが結局看護の「本義」ではないか。本論文では「再定義」という言葉が使われるが、それは看護の「最初にあるもの」「もとのもとにあるもの」に戻っていくことだ。そのことを入所者から受け取ることによって、自らの仕事から感じることによって、そして同じ職種や異なる職種の人の働き具合にふれることによって、その施設での看護師の仕事が見つかり、続けられる。
重症児者施設での生活やそこでの労働についての研究は少なく、看護師に関わる研究はさらに少ない。本論文はそうした中で希少な研究成果であるというだけでない。本論文は、インタビューで得られた多くの言葉を引用・紹介していって、その感情の機微と感情が位置するその構造を明らかにしている。重要で意義ある研究がなされたこと、博士論文として十分な達成であることについての審査委員の評価は一致した。
その仕事ぶり、仕事の位置、仕事の意味づけには変化もあり、変わらないものもある。そしてこれらに関わって、この重症児施設というものが有している歴史的・制度的な位置づけがある。本論文は前半でその施設の成り立ち、経緯を明らかにし、さらにそこで明らかになったことと、看護・看護師のあり方の関係を示している。そもそも医療の割合が少ないこの種の施設が医療施設として始まったのは、その方が予算を多く獲得できるからだった。さらに近年、第三世代の新人看護師が多く採用されるのも、配置される看護師の数が増えその数に応じた予算措置が講じられるようになったからである。そうした成立や変化の機制によって看護と看護師はそこに大きく位置づいてはいるのだが、しかし生活と仕事の実質においては自らはさほどのことをしていないとも思えてしまう。そこにこの施設に働く看護師の悩みも、思い直しも発している。
施設と制度に関わる歴史を記述した第1章・第2章とのその後の部分の接続について口頭試問において質疑があったが、筆者はそれに応え、制度、制度の変化と看護・看護師の「再定義」との連関を説得的に示した。複雑な歴史的経緯をもち、現在も医療の制度と福祉の制度が重なりあっている、この国に独自にある重症児者施設の歴史分析・構造分析の意味を本論文は示すとともに、本論文自体がその端緒を開いた。審査委員会はこの点も高く評価した。
「重心」といえば必ず小林の島田療護園、そして糸賀一雄のびわこ学園が引き合いに出されるが、その偉人たちやその活動についても、見ておくことはできるかもしれない。その人たちの思想や実践について、これまで書かれてきたものにすべてをまかせ肯定すればよいとは限らないようだ。[…]意義があるのかわからないが、その確認のためにも、調べておいてよいと考える。また、島田とびわこは枕詞のように二つ並列させられて語られるのだが、その二つの間にもずいぶん違いはあったはずだ。そんなことは当然だと言われるかもしれない。しかしそれは具体的に明らかにされた方がよく、さらにそうしたことは、「公式」の「 年史」の類や先駆者を賛美するために作られた書物等によってはたぶんよくはわからないはずのことだろうと思う。(259-260)
[…]先駆的であったものがやがて普通のことになっていく[…]。政策化された後、子どもたちを数多く引き取っていったのは国立療養所だ。そうしたことを看過することになるのであれば、それはよくない。
[…]業界、業界の学界の人々は、先駆的で代表的な施設やそれに関わる人を語って、その全体の歴史を語ってしまうことがある。ただそこには何種類かの間違いがある。一つは、そこに起こった問題、衝突が十分に記述され検討されることがないからだが、もう一つはもっと単純なことで、目立ったところを書くことはその全体を書くこととまったく別のことだということだ。先駆的な施設は、なにかしらの志から始まり、それが続くこともある。注目され模倣されようとするなら、その分がんばろうという気になる。国立療養所であっても仙台の西多賀病院のように、最初に筋ジストロフィー者を自ら受け入れることに決めた施設は、その時からしばらくの間は、いろいろと工夫したり入所者に協力したりすることがある。そこには見学者などもやってくることがある。[…]
多くの病院・施設は、結核療養者の減少といったことがあり、制度の改変があり、成り行きがあって、受け入れることに決まった人たちを受け入れる、普通の施設・病院だ。経営者は官庁からの天下りであったり、大学の医学部から移ってくる人たちであったりする。[…]
思想を点検し考察すること、それと現場との距離を測ること。[…]ほとんど言葉のない空間を見ていくこと、しかしそれでも言葉があって言葉が伴った動きがありその消去・忘却の動きがあるなら、それを再度言葉にすること。そのいずれについても私たちはたいしたことができていない。
全国各地に、近所の人たちもなにか建物はあるがどんなものかはよく知らない施設、近所に家もなく人もあまりいない施設があって、そこに長く静かな日常があってきた。むしろ、それが現実のほとんど全部なのだ。本書で書いてきたのも、大きな静かな空間、長い時間を囲っている縁(ふち)、その始まりのいっとき、熱くなったり苦労したりしたその挿話だった。より大きく静かな時間と空間は書かれない。(261−263)
初期においてはかなり多様な人たちがいたようだ。びわこ学園に務めたことのある窪田に、そこには脳性まひでものを書いたりする人もいると聞いた(264)。そしてその人たちは当然、今はもう小児などではまったくなく、高齢に達している。さらに文献にも当時サリドマイド児も入所していたことが記されている。制約はありながらも、まだそれほど規定がはっきりしていなかったこともあり、困窮度によって、あるいは施設やその関係者への訴えが――ときには有力者を介してということがあったかもしれない――有効であった限りで、入れる人は入れたということかもしれない。(116)
例えば一九六〇年代前半、サリドマイド薬害の子どもたちが島田療育園にいた。びわこ学園には、就学を求め、それを希望する文章が小さな雑誌に掲載された人もいる。そして、その人も他の多くの人も、もうすこしも子どもでなく高齢になっている。それまでのことを職員が聞き取った記録があり、びわこで働いたことがありそうした施設で働く看護師についての研究をしてきた窪田好恵を介して入手できた。許可を得て全文をHP公開している。(264)
一九八二年に島田療育園を「脱走」した人の文章も文集に残されている。二〇一七年、その脱走に加担した石田圭二[…]にインタビューをして知ったことだが[…]、事件を起こした人は別の施設に移った[…]。
騒いだ人がいて、あるいはごく小さいできごとであっても、騒動になった。そしてその人たちのある部分は、施設から出た暮らしを始めるなどして、いなくなる。すると、なにかがとくによくなったというわけではないのだが、騒がしさは減る。さきに、より大きく静かな時間と空間と述べたものは、このあたりに現れる。
こうして、居住している人に変化はあるのだが、一つ再度確認しておくことは、それは、医療の側にある必要のないことだったのだが、基本的に医療の側が受け持つことになったということだ。そのいわれを本書では書いてきたのでもある。そもそも国立療養所が「病院」である必要があったかといえば、たいしてない。「国立病院」があったのと別に「国立療養所」であったこともそれに関わるだろう。(264)
一九六〇年の前後、偉人たちが現われ、その後社会福祉が発展したという物語がある。東京の島田療育園には小林提樹がいた。滋賀のびわこ学園他の創始者として糸賀一雄がいる。その二つの施設は、重症心身障害児[…]――施設として先駆的な施設だった。その後、国立療養所が、結核療養者の次のお客として多くのその「重心」の子を受け入れもする。小林は医師だが、糸賀は違う。この人は今でも例外的に知られており、その時代(から)の福祉を語る時の符丁のようなものにされている。その人々を尊敬する人たちによって書かれたものもある。ただ、この定番な人たちをあげてなにか歴史を語ったつもりになるのはよくないと思う。人を語り、その人たちが肯定されるべき人たちであるということから零れるものがある。[…]
まず、私は、その人たちは立派であったと思う。その人たちは、その後の人た2018/12/30ちのように、本人やその「代理人」の(事前)決定に委ねればよいといったことは言わない。「生命の質」といったことも容易には言わない。その人たちに象徴されるような実践がなかったら、かなりの数の人たちがもっと早くに死んでいただろうと思う。それはよいことであった。そのうえでの話だ。
具体的な検討は一切省いて、二人を二つの「型」としてあげる。悲観的で人道的な人と、人道的で肯定的な人、その二つである。(206−207)
そうして私は、小林を前者として、糸賀を後者としてしばらく書いている。むろん単純にすぎるのではあるが、ただ「ざらっとした」感じのままでいるより、どうしてそう思えるかを考えてみる。そんなことをしてもよいと思う。
■開いておくために、絞りこむ
重症児者その人たちのことを、その人たち自身から聞いて書くことはできないと述べた。しかし聞けず書けないものを、私たちは悲惨であるとは言ってしまうのだ。なぜそのように言えるか。おかしくはないか。それとは別に、もちろん皆が皆でないが、まずはびっきりしたりぎょっとしたりして、その後いくらか慣れていくという過程がある。そうして言葉なく流れていく生活がある。同時に、本人の反応や変化があって、それが看護・介助する人たちの仕事の「甲斐」になることはあり、そのことも本書では記されている。糸賀はそれを「(横への)発達」といった言葉で捉えたということになる。ただ、それほどがんばって発達を言わねばならないわけでもない。しかし、変化や反応を見出すことによって、さぼらないようにするという方向に自らをもっていくという営為があり、同時に、変化や反応が簡単に見出せないことがさぼってよいということにもならないという諫めの感覚もある。それらもまた本書に描かれている。そうして日常をやっていくことは、「大所高所」からものを言う人と異なる。
〔例えば府中療育センターの初代所長だった白木博次には〕悲惨の感覚がある。「重心」の人は、脳性まひの人は、ホープレスな人だと言うのである。臨床にいてよく知っている人もいれば、組織の管理的な立場にいるなどして、おそらくはそうでもないという種類の人たちもいる。「現実」に即するから暗いのだろうとも思えるが、実際には、その場に長くいてきた人に、かえってそう暗くはない人がかなりの数いると思う。糸賀一雄の後を継いで「重症児」についてたくさんの本を書いた高谷清もそんな人だと思う。そうした場に働く看護師にも仕事をよい仕事として続けている人たちがいる(窪田[2017]、書籍化したものが[2019])。とするとたんに現場にいるから、というわけでもない。繰り返すが、反対に明るくなる必要もない。しかし、例えば「重症心身障害児(者)」についてどのように人は暗くなる必要があるのか。考えられる要素を分けて取り出して考えてみようと、もう一冊[…]の方で言った。そしてすくなくとも本人に即した時にはだが、暗くなることはないと述べた。いったん暗くなると、悲惨から発する善意を呼び出すことになる。[…]だが、考えてみよう、というのがその本で記したことだ。暗さや敵意が向けられているものを腑分けし分解していこうということだった。(429-430)