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「喩としてのマルコ伝」以後 

立岩 真也 2019/02/01 『福音と世界』2019-2:4
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立岩真也『私的所有論  第2版』表紙   立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙
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 このコーナーのエッセイを幾つか見て、キリスト教はよくわからんけどイエスっていいかも、的な乗りをまるで共有しないわけではない。ただ、近代がどうとか、主体がどうとか、を考えることになった私が幾度かあげてきた本は、吉本隆明の『論註と喩』(一九七八年)中の「喩としてのマルコ伝」(現在は本隆明全集撰5・宗教、八七年、大和書房、所収)。◇この本のことは橋爪大三郎の「性愛論」(後で本に収録されたが、私が最初に読んだのは彼が手書きで書いて青焼きというもので複製し頒布していたもの)で知った。◇吉本本人も書いているが、下地にある一人はニーチェだ。フーコーの『性の歴史・1』(原著は七六年)の記述と似ているところがあるが、双方でニーチェは共通しているから不思議でない。そんなことは『私的所有論』第二版(生活書院刊)の補章1「ごく単純な基本・確かに不確かな境界」八〇三頁に書いている。
 罪の準位を内面に置いたことによって、人は罪の主体となり、キリスト教は個別かつ普遍的に人を捉えることになった。おおむねその理解でよいと思っていて、それをさきの拙著第六章第二節「主体化」に書いた。ただ、それでおしまいという感じもしない。一つは、ずっと前に書いてもう現物もどこかに行って手許にはない「主体の系譜」という修士論文の時で、キリスト教の変遷をどう捉えどこに変移を見るかといった妙なことにかかずらわった。例えば、吉本は福音書(の一つ)をもってくる。フーコーはカトリックの告解のことを言い、そしてウェーバーならカルヴァン主義だ。さて、と考えたが、さほどどうかなったわけではない。本は、その辺を省き、割り切って書かれた。
 そしてそれはもう一つ、論理的な問題にも多少は関わっている。罪について人が有責であることと、生産物について生産者が所有者であるとされることと、どこまでが同じでどこが違うか。これについてもいちおうのこと、つまり両者を分けた方がよいことは書いてきたつもりだ。今度の私の本、『不如意の身体――病障害とある社会』(青土社)の第6章「加害のことについて」もそういう立場で書いた。しかし詰めきれてはない。というか、詰めきれないだろうと思い、なら代わりにもっと簡単な問いを考えようと思って書いている。


※編集者に 超過でよくないのであれば、◇◇の間を略してください。(制限字数:900字)

■cf.

◆立岩 真也 2021/06/01 「この単純な場所に立って、むだにぐるぐるしない、ために」,『福音と世界』2021-6


UP:20210426 REV:
『論註と喩』  ◇『私的所有論』  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇立岩 真也:本  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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