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「『社会が現れるとき』拾遺」3

「身体の現代」計画補足・509

立岩 真也 2018/06/28
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/2087268674873442

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若林幹夫・立岩真也・佐藤俊樹編『社会が現れるとき』表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 東京大学出版会の雑誌『UP』に「『社会が現れるとき』拾遺」
http://www.arsvi.com/ts/20180014.htm
を、宣伝になるかならないかわからないが、宣伝のために書いた。それを分載していく。その3

 「それはいくらかおもしろい場所ではあった。ただ、結局、それが先に述べたことだが、見切りをつける過程であったと思う。いつも論理的な最終の「詰め」まで行けるというわけではない。ただ、おおまかに、「この(種の)話はこの辺りで止まるな」とか「繰り返しになるな」と、だいたい、思える。その他各種の話、流行りの話のだいたいの範囲(限界)がわかる。周りで話をしている人たちが頭がまわる人たちであることはまず確かで、そこでなされる話がこのぐらいだとか、私の論にも一定の耐性(批判・論難に応じられる可能性)があるようだとわかる。もちろん自分一人である程度の量のものを読んだりする必要はあるのだが、私は修士課程まででそれはやめた。やめても大過なかろうと思った。金を稼ぎながら、自分がしようと思う仕事をするには手間と時間がかかるわけだから、ある範囲(外)の話にはあまり付き合わなくなる。それでもおおまかには外れていない。そのことがわかるための場所として大学院は役に立った。
 たぶんそれは、いつのどこの大学院にいても経験できることではなかったと思う。今の私の勤め先は大学院だから、今でも「これ違うと思う」とか大学院生に言ってはいる。ただ、それは、客筋(大学院生というお客さんの「手持ち」)を読んだうえでの、たぶんに教育的なものだ。この時、私は「知っている人」として振る舞い、語っているのだが、それはなにか近頃のいろいろを知っているからではない。だいたいこの世のこの種の話とはこの辺で止まるとか、回るとか、という見立てのもとで言っている。そしてその偉そうな態度は、多くは、普通に、論理を何段か重ねていけばこうしかならないという作業をすこししてみればそうなるはずだということでしかない。ただいくらかは、かつて、いろいろとたいへん物知りの人たちから耳学問したことがあり、空中戦的な議論から得たところがある。その「世界観」を語ることは、私の勤め先では、ない。その「見立て」に基づいて、こんな具合に仕事(研究)をしたらよい、こうするとうまくいかない(と私は思う)と話すのが私の仕事だ。」


 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20182509.htm
にもある。


UP:2018 REV:
立命館大学大学院先端総合学術研究科  ◇病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇『現代思想』 
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