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「『社会が現れるとき』拾遺」1

「身体の現代」計画補足・507

立岩 真也 2018/06/


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若林幹夫・立岩真也・佐藤俊樹編『社会が現れるとき』表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 明日6月17日、入試説明会。立岩出ます。
http://www.arsvi.com/ts/20180617.htm
 東京大学出版会の雑誌『UP』に「『社会が現れるとき』拾遺」
http://www.arsvi.com/ts/20180014.htm
を、宣伝になるかならないかわからないが、宣伝のために書いた。それを分載していく。
 以下で、記念文集に書いた文章というのは、2016/03/21「山本泰先生とのこと」,山本泰最終講義記念文集
http://www.arsvi.com/ts/20160021.htm

 「二〇一六年三月に山本泰先生が駒場キャンパスでの仕事を終えて、最終講義というものがあり、そういう種類のものに初めて出た――そこで先生が正統な社会学者であってきたことを、ほとんと初めて知って、感心した。私は一九八三年に東京大学大学院社会学研究科に入ったのだが、学部の時は指導教員が吉田民人先生だったのを、代えてみて、山本先生にお願いした。当時は駒場の教員を指導教員にすることができたのだった。
 最終講義に際して記念文集が作られた。私の文章はごく短いもので、「先生の演習において河合塾の模試の採点をしていた等々の奇行――それが合理的な行動であったと思っていて、実は今でも思っている私は、たぶんそこが変なのだろう――は、だいぶ誇張されて、その後の人々によって語られていると聞くので、それは誇張です、と言うだけにとどめよう。/先生との会話で私が覚えている…一つは」と始まるもので、これで五分の一ほど。全文は当方が関係するサイトでご覧になれる。「山本泰先生とのこと」で検索すると最初に出てくる。その不肖わたくしは、山本先生が受け入れた最初の院生で、それが理由で、昔であれば『なんとか教授退官記念論文集』といったものになっただろう本を作ろうということになった時、編者の一人になった。あと二人の編者は佐藤俊樹と若林幹夫で、書名の決定もなにもかも、実際のところはこの二人と、編集者の宗司光治さんがやってくださった。私はほぼまったく何もしなかった。もうしわけない。
 そして若林は第1章「「都市」をあることにする」、佐藤は最後の第12章の「自己産出系のセマンティクス――あるいは沈黙論の新たな試み」を担当。さらに若林は冒頭の「はじめに――「社会が現れるとき」と「社会学(のようなもの)」が現れるとき」を、佐藤は終わりの「社会は現れる――一つの解題として」を書いていて、これらは販売促進のためにも、ということで、HPに掲載させてもらってもいる(『社会が現れる時』で検索)。なので、この原稿は私がということになったのだろう。
 おもしろい本なのだが、なにか一つのテーマについてのものではない。こんな場合にどうしたものか。これは考えてもわからない。ただざっと眺めると、あまり今どき普通でないものを書いているのは、中では古い人たちのようだった。大学院に入った順序では私、太田省一(八四年)、佐藤俊樹(八五年)、若林幹夫(八六年)、中村牧子(八六年)、中村秀之(八七年)、遠藤知巳(八七年)。」


 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20182507.htm
にもある。


UP:2018 REV:
立命館大学大学院先端総合学術研究科  ◇病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇『現代思想』 
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