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嘘を言うから「障害」が要ると言われる・4

「身体の現代」計画補足・499

立岩 真也 2018/05/05
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/2057463751187268

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立岩真也編『社会モデル』表紙   『弱くある自由へ』表紙   『現代思想』2018年4月号 特集:現代思想の316冊――ブックガイド2018・表紙   星加良司『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]
 以下であげる[201410]は「そもそも難病って?だが、それでも難病者は(ほぼ)障害者だ」,難病の障害を考える研究集会
http://www.arsvi.com/ts/20141024.htm
 星加良司の本を『現代思想』連載の4回分、榊原賢二郎の本を1回分※、書いてそれを04/18刊行の『社会モデル』ver1.3に収録した。
http://www.arsvi.com/ts/2016m2.htm
今年中にまとめるつもりだが、その時には構成などだいぶ変わっているはず。『社会モデル』には連載で取り上げられなかった部分、本にはならない部分たくさんあるので、これはこれとしての価値があると思う。分量あるが、HTMLファイルなので検索なども便利。
 ※「榊原賢二郎『社会的包摂と身体』――連載・144」,『現代思想』2018-4
http://www.arsvi.com/m/gs2018.htm#04

 まだここでは、2月号掲載の
◆2018/02/01「社会科学する(←星加良司『障害とは何か』の3)――連載・142」,『現代思想』46-(2018-02):-
http://www.arsvi.com/ts/20180142.htm
からの分載を続けている。この回の目次は
 □大きな話は終わっていない
 □社会(科)学は
 □ただ一つひとつ応ずればよいではないか
 □嘘を言うから「障害」が要ると言われる
こうやって切れ切れだと全体は見えない。それは仕方がない。ただこれらの断片を、できれば、ゆっくり読んでいただきたいと思う。


 「□嘘を言うから「障害」が要ると言われる
 […]
 「不正な使用は、現実にある。ただそれは、一つに多くは、実際には仕事をしないというかたちでなされる。供給者(が属する組織)に払われるのだが、仕事はなされず、結果、供給者・組織が着服してしまうということはありうるし、実際なくはない。また、利用者に払われる場合(cf.ダイレクト・ペイメント、[201008])には利用者(側)が着服してしまうこともありうるし、実際なくはない。ただこれは不正であり、わかれば利用・支払い停止の制裁が課されてよい行ないである。それを発見し制裁し防ぐのと事前の証明と、いずれが、誰にとってよいか面倒でないかだが、前者を選ぶ方がよいという主張は可能だ。その場合には「障害」は現れない。
 もう一つは、自分でもできるのだが、面倒なので他人にさせるといった場合である。さきのは仕事をしないのだが、こちらでは仕事はなされるところが異なる。例えば家事がめんどうなので人にやってもらう。これもないではない。ここでは虚偽(の可能性)は「自分はできない」にある。それで「障害」(の有無の判定)がまた現れることになる。それはよいことかと考えた時、例えば無理すればできる(こともある)ができないこともある(多い)といった場合は多く、またできないことの証明は困難であることは多く、そして査定はそもそも給付を絞る選別のためになされるのだから、査定される人にとってはうれしくはない。だが、それでも(楽に)できるのにさぼる人だっているだろうと言われる。
 抽象的に考えると、査定は、つまり「障害」を現させしまうことは、否定できないように思われる。しかし、意外にそんなにはないことも多い。なぜどのようにどのぐらい痛いのか証明せよと言われてもできないが、痛いので自分でできない。できるのであれば、自分でやってしまうのに、ということは多い。私は、ケアについてしみじみとした物語を語るより、こうした、心が狭く寂しくなってしまうような部分について考えることが必要だと思っている。
 議論は簡単には決着しない。それでも以上で確認されたことはある。いくつかの条件があれば、「障害」があるとかないとか言う必要がないということである★13。査定が、結局は「障害」という範疇が、まったく要らないとは言い切らないことにしよう。ただ第一に、「障害」が少なめに査定しようとするとときに持ち出されるものであることは確認された。
 そしてそれは実践、政策に関わる。必要の実情に合わせて「障害」の範囲を拡大させるという手はあるし、実際にその方向での運動があってきた。ただ、実際に必要な「障害」の数を増やしていくことによって限界・境界を変えていく必要な全体を拡大していこうという動きには、そのなかに数えられないものは常に残るに決まっているのだから、常に限界はある。ならば代わりにどうしようかということになる。そして、「障害」を取り出すということが、たしかに虚偽から護るという営みであること、そのことそのものにおいてあるいはそれを理由として、ある部分つまり「障害」を、特別のものとして扱うことは仕方がないとしつつ、それ以外の部分については放置する、それでよいとするという営みであることがわかる。
 これが、あらかじめ「障害」をあるものとして見ない、社会内に現れる(また消えていく)ものとして見るということである。そしてこのことは、そのように見ていくことができるような筋道を論の「構え」の中に用意しておかないとうまく捉えることができない。」

 「★13 実際には、どのように「公金」を支出するかについて、様々の、ときにあまり辻褄のあっていない理屈が言われ、苦しまぎれのことがなされた。その歴史がある(cf.二〇一五年から二〇一七年にかけての本連載、他に[201410]等)。こうして、ここで述べていることは「歴史篇」とつながりもする。今書いてものをまとめた「理論篇」と合わせ二冊の本を、今年できれば同時に刊行する。」

◆立岩 真也 2018 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社
◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社



UP:2018 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇『現代思想』 
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