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社会(科)学は

「身体の現代」計画補足・486

立岩 真也 2018/03/17
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/2032162640384046

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立岩真也『希望について』表紙   『現代思想』2018年2月号 特集:保守とリベラル――ねじれる対立軸・表紙   立岩真也編『社会モデル』表紙   星加良司『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』表紙

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◆2018/02/01「社会科学する(←星加良司『障害とは何か』の3)――連載・142」,『現代思想』46-(2018-02):-
http://www.arsvi.com/ts/20180142.htm
より。目次は
 □大きな話は終わっていない
 □社会(科)学は
 □ただ一つひとつ応ずればよいではないか
 □嘘を言うから「障害」が要ると言われる

[201802]は「でも、社会学をしている」。2月には出ず、4月になる。また紹介する。
http://www.arsvi.com/ts/20170024.htm
荻上・立岩・岸[2018]はこの連載?で紹介してきた。
http://www.arsvi.com/ts/20180001.htm
[200412]は「社会的――言葉の誤用について」(『社会学評論』55-3(219):331-347)。『希望について』に収録されている。
http://www.arsvi.com/ts/2006b1.htm


 「■社会(科)学は
 こうして、星加の議論の検討の続きをしていく際しての短い前置きのつもりが長くなったのは、本誌の本号の特集のこともある。今述べてきたような普通の仕事から離れて、社会科学、例えば社会学は何をしてきたのだろうと思うからでもある。
 なされてきたことには種々がある。まず、種々に具体的なもの、人によったら細々としていると思うものが記述されてきた。そのたいがいはよいことであったと思う。ただ、加えていくらか社会の全体を見通そうという欲望があってわるいわけではない。星加の本も、また榊原賢二郎の本(榊原[2016])も、結局そうした本だ。差別や排除、資源の配分や労働のあり方を考えざるをえないといった場合には、どうしてもそのようなところに話は及ぶ。そうした時、私たちのもとにこの数十年あった道具立てはどの程度使えるものであったかということにもなる。
 「相互作用」を見るべきだとか、「二項対立の否定」といったことを言っていた人たちがいる。ただ、様々は様々と相互に関係しあっているのは当然のことであって、それを言うこと自体はたんに当たり前のここでしかない。そして、個人か社会かという二択ではないといったことを言う時、人はときに間違えるのでもある。例えば「社会モデル」は、ものをみてものを言う場合の場所、帰責のその宛て先を示している。ここで、人と人は、人と社会は関係しあっているとか、浸透しあっているといったことを言っても仕方がないのだ。それはまちがいではないが、そのあたり前のことを言ったからといって何がどうなるということでもない。あえて宛て先を定めたことの意味を見損なうことにもなる。さらに、その「社会」のなかに「私」が含まれるのは最初から当たり前で、個人が免責されると決まってもいない。
 他方、浸透とか交流といった気分にあまりなれなかった人たちは、依然として、社会を言ってきた。つまり、しかじかが「構築」されてきた、されていると言ってきた。交流と構築と、二通りの人たちがいてきたということだ。そして例えば社会学は、自己提示において、自分はあまり熱くないことを示したい人がやっていることが多いので、構築を言うことになる。そのため構築を言って廻る人たちの方が有勢であったのかもしない。こうして見ていけば、まったくずっと以前からあった構図が、そんな二つの並立が古びたものであるということになってからも続いてきたということである。
 このことについてとくに言うことはない。ただ一つ、構築を言う人たちはその様をうまく捉えることができているかということがある。社会内的な、歴史的なできごととして捉えるということがどこまでできているか。そして一つ、必要なことは普通に分析的であること、分けるべきを分けることである。社会はいくつにも分かれていて、分かれながらつながっている。このとき、つながっているとか関係しあっているとただ言っても仕方がないという、これも当たり前のことだ。たしかにつながっているが、つながっているからこそ一つひとつを考える必要がある。社会領域の境界、関係をみていく。そんな学の蓄積も伝統もなくはないのに引き継げているか★02。
 そしてもう一つ、できごとの生成や継続を見ていくことと、そのこと、そのことにまつわる是非をどのように言うか。片方だけ言うこともできるし、両方を言うこともできる。ただ、両者の連続と非連続に留意すること。なにかが「社会的」であるとか「構築されている」と言うことがそのまま何かついて批判的な場所にいられることを意味するわけではないという、これもまた当たり前のことを確認すること([200412])。そうしたことに思いいたったのか、一度規範的な議論がいくらか流行しかけたことがあるように思う。ただ思うに、それは長く続かなかった。
 繰り言めいて語っても、やはり仕方がない。一つには「原論」にあたるようなものをきちんと書くこと。一つには具体的な主題について、なされてきた議論を相手にし、それを論じなおすこと。ここで行なっているのは後者の一部ということになる。」

「★02 なされてきたのが結局のところざっぱな話であったのに対して、私が社会学に意義があると考えるのは、一つにはできる/できないと社会との関わりを考えること(荻上・立岩・岸[2018]における私の発言)であり、もう一つは、社会にある所領域についてその境界について検討することのできる場に(例えば政治の内部にいる政治学、等より)社会学はいるし、実際、幾つかの社会学的営為はそうしたものとしてなされてきたということである。これらのことを、簡単にではあるが[201802]で述べている。」


 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20182486.htm
にもある。


UP:2018 REV:
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