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統計的差別:「事実への信仰」より・03

「身体の現代」計画補足・465

立岩 真也 2018/01/31
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/2005307013069609

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『現代思想』2018年2月号 特集:保守とリベラル――ねじれる対立軸・表紙   『私的所有論  第2版』表紙   立岩真也編『社会モデル』表紙   『現代思想』2018年1月号 特集:現代思想の総展望2018・表紙  

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 荻上チキ×立岩真也×岸政彦の「事実への信仰――ディティールで現実に介入する」。『現代思想』2018年2月号、特集は「保守とリベラル――ねじれる対立軸」に掲載。
http://www.arsvi.com/ts/20180001.htm
 私の発言部分。第3回。「統計的差別」は『私的所有論』にも出てくる。

 「立岩 統計とか、数的に比べたら実はこうなんだとか、一方ですごく大切です。それさえ知らないというか気がつかないこともたくさんあるので。ただ、一方で実際の数字はそうなんだと言いながら、でもそれを言うことの効力がどのくらいまでなのかということを他方で計りながら言わなければいけない。ここがややこしいところです。そういうふうに何層かに分けて、重ねて、議論をする。それさえも時々無力感に苛まれることもありますが、しかししょうがないからやる。
 例えば今の話で言えば、統計的に率が低いとか同じくらいだということは言えます。ただ、反論も可能なんです。母集団を変えたら違ってくることもあると言われたりもします。犯罪しそうにないうつ病系の人たちは外すとか。また、犯罪全体からすればそうかもしれないけれど、凶悪な犯罪に限ったらどうかとか。そうしたとき、一方では母集団云々の話に付き合い続けるのと同時に、じゃあ確率が高かったら、その確率が高い集団に対しては何をしてもいいのかということも考えなくてはいけないと思います。例えば、アメリカでもどこでも、いわゆる有色人種と呼ばれる人たちの犯罪率が白い人たちに比べて高いというのは統計的な事実だろうと思います。じゃあそういう確率が高い人たちに対して、犯罪に関わったらではなく関わる前に何かをすることが正当化されるのか。私はされてはいけないと思う。つまり、統計的にやばい確率が高かったら何をしてもいいのかというところにも考えなくてはいけないことがある。そういう集団があったとしても、それを特別扱いするのは、これこれしかじかの理由でまずいんだと言っていく。
 そういうふうに、陣容を何段にも分けて、ここが破られても、ここまで引いても、ここでもう一回戦えるとか、そういうことをやっていかないといけないと私は思っています。」


 この号には「社会科学する(←星加良司『障害とは何か』の3)――連載・142」も掲載されている。いっしょに読んでいただけるとありがたい。というか、この号の特集、そして上の討議というか鼎談というかを多少意識してこの第142回を書いたところがある。これは連載の第141回「星加良司『障害とは何か』の2」 http://www.arsvi.com/ts/20180141.htm
の続き、で「身体の現代」計画補足」では前回まで「の2」を分載してきたが、それは中止。雑誌買ってください。立岩真也編『社会モデル』
http://www.arsvi.com/ts/2016m2.htm
の購入者には、「1〜4?」の原稿を収録した増補版を無償で後日提供します。

 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20182465.htm
にもある。


UP:2018 REV:
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