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星加良司『障害とは何か』の2の03

「身体の現代」計画補足・459

立岩 真也 2018/01/11
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/1995655094034801

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星加良司『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』表紙   立岩真也編『社会モデル』表紙   『現代思想』2018年1月号 特集:現代思想の総展望2018・表紙

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 『現代思想』2018年1月号が発売されている。
http://www.arsvi.com/m/gs2018.htm#01
 そこに載っている私の連載の第141回「星加良司『障害とは何か』の2」 http://www.arsvi.com/ts/20180141.htm
を断片的に分載していく。今回はその第3回。立岩真也編『社会モデル』
http://www.arsvi.com/ts/2016m2.htm
の購入者には、この回の原稿を収録した増補版を無償で後日提供します。

 「■星加規範論の仕組み
 […]
 星加は社会学者らしく、社会の、人と人の関係の現実に即する。これはもっともなことだと思える。本人の状態がよくなるべきであると考えるとき、その本人の思いに即しようとするのは当然のことではある。ただ、現に存在する本人たちに即しようという誠実さを肯定しつつも、ときに、必ずしもそう考える必要もないのにということがある。以下、例をあげる。
 星加は「集中」を言う前、「不利益の更新」について記す。「特定の不利益の解消を目指すことが、ある意味で不利益を生み出す線引きを書き換え、ある人にとっての不利益の否定的な意味を増幅させる[…]これを「不利益の更新」として捉えたい。この現象は、不利益の解消と表裏の関係にあり、その意味で不可避的であると考えられる。なぜなら、不利益の解消によって「できる」人が単純に増大する場合には「できない」人にとっての不利益の意味が突出する」([137])。
 そんなこと、つまりできる人が多くなったために数少なくなったできないことが目立ってしまって、できない人の肩身が狭くなるといったことは、この社会に実際にありうることではある。しかし「そんなことは気にしないことにする」という立場もまたありうる。あるいは、できる人が多くなければその分できなくてよい人もまた多くいても生きていくことができ、楽ができるのだから、「できる人が増えることはできない私たちにとってもよいことだ、歓迎する」と言うこともできる(cf.立岩[2010])。
 そしてここでは、どちらが今の社会の現実に近いかということが問題なのではない。「障害者」に定位するという規範的な立場を採用した後、「何をどれだけ」については、基本的に「この社会」にあるものを使うという構えになっていることに私たちは留意せねばならない。この条件を強くとると、注意深くしていないと、「障害者」にとって本来ならもっと楽できるはずの途が選択されないという論の運びになってしまう可能性があるということである。
 むろん現実は現実的に決するのではある。しかし、であるからこそ、基本的な立場を考えて定め、それをまず示すという道がある。規範論とは一つにそのような営みである。星加の示す論も規範論ではあるが、具体的にあるべき姿を「現実の複雑な社会」の方に委ねる――という言葉を星加は受け入れたくはないだろうが――ことになってしまう。  このように見ていくなら、かえって、基準点Pが「社会的文脈と独立にアプリオリに存在するものであるかのように扱われる」という、そして星加によって「記述的」――これは妥当な表現でないのではないかと私は思うのだが――とされる立場の方がすっきりしているとは言えないか。つまりその人たちはこの社会において私(たち)ができないことに関わって損をする部分については社会が責任を有すると(つまりその改善は自分たちの権利だと)言った。他方の星加は、実際に社会に存在する価値があることを言う。あるものをあるとして記述することは時に大切である。ただそれを「規範」「基準」として採用するか否かはまた別のことだ。だとしたら、現実の複雑さをあえて捨象した――と当人たちは思っていないだろう――単純な立場の方が妥当なことがあるかもしれないということだ。」


 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20182459.htm
にもある。


UP:2017 REV:
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