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星加良司『障害とは何か』の2の02

「身体の現代」計画補足・458

立岩 真也 2018/01/07
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/1995652824035028

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立岩真也編『社会モデル』表紙   『現代思想』2018年1月号 特集:現代思想の総展望2018・表紙   星加良司『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』表紙

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 『現代思想』2018年1月号が発売されている。
http://www.arsvi.com/m/gs2018.htm#01
 そこに載っている私の連載の第141回「星加良司『障害とは何か』の2」 http://www.arsvi.com/ts/20180141.htm
を断片的に分載していく。今回はその第2回。立岩真也編『社会モデル』
http://www.arsvi.com/ts/2016m2.htm
の購入者には、この回の原稿を収録した増補版を無償で後日提供します。

 「■星加規範論の仕組み
 […]
 基準点より状態がよくない分が不利益となる。それを評価するのは基本的には本人だとされる。基準点(についての本人たちの認識)と、現状についての本人たち他社会内の認識とは事実の水準にある。「基準点Pは、予め普遍的な定点として存在しているものでもなければ、その都度自由に変更可能なものなのでもなく、当事者の置かれた社会的状況に拘束されつつ社会的過程の中で変容・更新していくようなものなのである。[…]この基準点Pをめぐって日常的な実践においても社会理論上の論争においてもポリティクスが生じているのであり、こうした規範的な問いを放置することによって「記述的」な理論構成を行っても、それは「不利益をめぐる政治」への免疫力を欠いたものにならざるを得ないのだ」([119])。
 星加は規範的な議論をすべきだとする――他方の批判の対象とされている議論が本当に「記述的」な理論構成になっているかという問題はある。ただ今引用された部分にあるのは社会的な事実である。どうして事実についての記述が規範的な議論になるのか。これは二つの要素からなる。一つ、ここになされている操作は、基準に達していないことをよくないとすることだ。ある所有(権)の布置をよしとした場合に、自分の状態を下げられること、例えば税として「奪われる」ことを不正とする立場もあるわけだが★02、星加はその主張は採らない。つまりここで星加は規範的判断を下し、平等主義的な立場を採用しているということである。
 一つ、本人に即するとする。右記第一の立場はそれだけで成立しうるから、その限りでは本人の判断(を採用すること)は必須ではない。また、本人に準拠するというだけでは、述べたように基準より上の人と下の人のどちらをよしとするかは決まらない。基準に達しないところにいる人がいることを問題にし、それを不正とする。その限りで、星加の立場はまず第一のものであると言うことができる。その上で、社会的によしとされている状態に達していない、そのことを本人がよくないことであると思っている。その思いを正しいこととして採用しよう、よくない立場の人の境遇は改善されるべきであるというという判断がここでなされている。その境遇に対する評価は、特別の場合を別として、その人自身のものが採用されるべきだとするのである★03。
 本人、ただの本人でなく不利益を被っている側の本人がよしとするものを受けとるべきであるというのはたしかに規範的な立場ではあるが、基本的には現実に存在する評価としての不利益の存在をもって主張がなされる★04。星加は社会学者らしく、社会の、人と人の関係の現実に即する。これはもっともなことだと思える。本人の状態がよくなるべきであると考えるとき、その本人の思いに即しようとするのは当然のことではある。ただ、現に存在する本人たちに即しようという誠実さを肯定しつつも、ときに、必ずしもそう考える必要もないのにということがある。以下、例をあげる。

「★02 [144]に(Nozick[1974=1992])への言及。そのノージックの議論は立岩[2004](その前は[1997])でも検討され、別の立場に立つことを述べている。
★03 「ここで、評価の主体が誰であるかは決定的に重要だ。第一義的な評価主体が、当該の不利益の焦点となっている当事者であると考えるのは、当事者のリアリティに定位したディスアビリティ理論の構築を目指す本書の立場からの要請である。それは、個々の主体が経験している否定的な現実を記述・分析することからしかディスアビリティ理論は出発し得ないと考えるからである。ただし、基準点Pに関わる期待値や規範的観念が極端な水準にあるような特殊な状況下においては、当事者の評価をいったん留保することが必要となる場合もある。なぜなら、きわめて低い水準の社会的状態に満足するようなケースを理論の射程外に置くことは、最も顕在化し難いけれど最も深刻であるような不利益を看過する危険性を含むからである。したがって、特殊なケースに限って、当事者による主観的評価を超えた社会的評価を行う余地は理論的にも残しておくことにする」([142])。「特殊なケース」としてよくとりあげられる「飼い馴らされた主婦」についての議論(Sen[1987][1992=1999])の想起が求められる。私もこの議論を検討している(立岩[2004])。それを見てもらっても、私の方がことの決め方についてより民主的でなくリベラルでないことがわかると思う。
★04 「基準点Pがどのように設定されるのかをめぐって、従来の「社会モデル」理解は欠陥を持っていた[…]。ディスアビリティを「記述的」に特定しようとするアプローチにおいては、基準点Pが現実の社会的過程において生成され、流動化するものであることが看過される傾向にあり、基準点Pは社会的文脈と独立にアプリオリに存在するものであるかのように扱われるか、さもなければ個々の不利益の解消の主張に応じてその都度アドホックに設定可能であるかのように扱われているのである」([118-119])。前者としてオリバー等が、後者としてフィンケルシュタインがあげられる。」


 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20182458.htm
にもある。


UP:2017 REV:
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