*以下に収録しました。
◇立岩 真也 編 2017- 『リハビリテーション/批判――多田富雄/上田敏/…』Ver.1.2 \600→Gumroad 〔更新〕
立岩 真也 2018/11/18 障害学会第15回大会・2018,於:クリエイト浜松
→20191225 『障害学研究』15
特集II 第15回大会シンポジウム 障害学とリハビリテーション学との対話――予防・ヘルスプロモーションをキーワードにして
特集趣旨……田島 明子・朝日 まどか
予防、ヘルスプロモーションを通して……岸上 博俊
言語聴覚士からの報告……関 啓子
健康長寿キャンペーンの罪――歩けなくなっても、人生は終わらない……古井透
ディスカッション……立岩 真也 他
立岩真也:私は20年ぐらい前に「なおすことについて」という文章(立岩真也「なおすことについて」野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』有斐閣選書,2001年,所収)、その後に「ないにこしたことはない、か」という文章(石川准・倉本智明編『障害学の主張』明石書店,2002年,所収,以上2点『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社,2018年に収録)を書いたことがあって、その頃から、というか、それ以前から、治すということをどう考えるかが僕のテーマの一つではありました。また、それらの文章では、治すと称して、社会が、われわれが、人びとが何をしてきたのか、それをきちんと調べる必要があると書きました。
今日は3人のお話一つ一つにコメントすることはしません。3人のお話を聞きながら、われわれは、これから、きちんと研究をしなければならないとあらためて思いました。分析的であらねばならない。クールでなければならない。冷静であらねばならない。そして、政治と歴史をきちんと見ないといけないとあらためて感じました。私自身は、そういう思いで『不如意の身体』という本を書きました。
そこでも書いたのですが、やはり、おおざっぱに語ってはだめだなとあらためて思いました。他人は何を治したがっているのか、自分は何を治したがっているのか。そして、なぜ、それを治したいと思うのか、その一つ一つの理由。そして、その治すことの効果として、実際にどういう結果がもたらされるのか。結果として、何が、どこまでのことが可能で、また逆に難しいのか。そして、それは当の本人に何をもたらすのか。そういうことを、ざくっとした話じゃなくて、一つ一つ分けて考えていかないと、こういう話はどうにもならないと私は考えています。
例えば、現在、いろんな業界の人が「社会モデル」とか「生活モデル」とかいう言葉を持ち出し、言説がお互いに近寄ってきて、そんなに区別がないかのように見えるという現実が一つにはあるわけですが、それは単純に言祝ぐべきことなのか、ということです。
また例えば、上田敏というリハビリの業界のボスみたいな人がいて、彼は「全人的復権」ということを言います。全人的復権というのは、言葉の定義にもよりますけれども、良いことであるに決まっているので、ある意味では、意味のない言葉でもある。しかし、実際には一人一人の専門家が一つ一つの身体の一つ一つの部分を治していたりする。そうすると、全人的、つまり人間の全体に関わっている人というのが、実際にやっていることよりも大きなこととして祭り上げられる可能性だってある。そうしたことの全体を見ていかないと、すべての人が一緒に同じことを肯定しているような議論しか出てこなくて面白くない。というか、そもそも、事実として起こってきたことが見えないのではないか。
効果があるかないか分からないけれども、そんな悪いことは起こらないから、続けよう、みたいなリアリティは確実にあって、それはそれで、僕はまあいいと思っているんです。しかし、20年ほど前に書いたのは、それでは済まないこともあるということです。例えば、このところ僕が聞いて回っているのは、脳性まひのリハビリとか治療についてです。これは古井〔透〕さんがよくご存じのことでもあるんだが、僕と同じくらいの1950年代、60年代生まれの脳性まひの人たちが、治すと称して、どれだけのことをされ、その結果、何を失ったのかということです。そういう検証の中で、具体的に何がなされたのかを評価するということが初めて可能になるし、そうした研究をこそ、しないといけない。そのことを20年近く前に書いたのですが、残念ながら、この20年間でそういう研究が現われなかったので、もう一度、そういうことを今回の『不如意の身体』で書きました。
ただ過去にそういうことがあったというだけではありません。二〇〇〇年代になっても、ドーマン法といった、以前からあって既に批判もなさてきたはずの療法でなおった、コミュニケーションできるようになったという人が現われ、それがNHKのテレビに大々的にうつされ、それが大変美しい、立派なことであるかのように語られたけれども…、という苦い話もあります。
障害学というのは、リハビリテーションとか治すことが基本的に嫌いだというレッテルを貼られている(自分で貼っている部分もある)が、仮にそうだとして、先ほど言及した上田敏さんも、ある時期、リハビリテーションの期間を限定するということに賛成の側に回るわけです。それに対して、多田富雄という有名な生理学者がそれに反対する行動を起こす。とするとこれはどういうことなのか。なぜ、どちらに与するのか。というところまで、思考や言葉をのばさないと、ほとんど何も言ったことにならないし、現実にも作用を及ぼさないということです(『不如意の身体』所収の文章では「リハビリテーション専門家批判を継ぐ」)。なんとなく、いいこともやっているよね、という感じでことが進み、そして、本当に良いことなら、それはけっこうだと思いますが、そういうことにはならない。ある人たちは、過剰に、余計に何事かをされ、迷惑を被り、ある人たちは、してもらいたいことが、してもらえない、という現実が、僕は続くだけだと思います。
そういう意味で、われわれは、分析的に、科学的にと言ったっていい、研究と学問をきちんとやらないといけないと、今日、あらためて思いました。以上です。