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青い芝の会の思想と出会って

立岩 真也 2018/03/17
平成29年度自立生活支援セミナー,主催:特定非営利活動法人あいえるの会
於:郡山市労働福祉会館3階大ホール(郡山市虎丸町7-7 )

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横塚晃一『母よ!殺すな 第4版』表紙   横田弘『増補新装版 障害者殺しの思想』表紙   横田弘・立岩真也・>臼井正樹『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』表紙   立岩真也編『青い芝・横塚晃一・横田弘:1970年へ/から』表紙
立岩真也・杉田俊介『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』表紙   『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙   『思想としての3・11』表紙   『大震災の生存学』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

青い芝の会
◇立岩真也 編 2015/05/31 『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』Kyoto Books 700

立岩真也編編『与えられる生死:1960年代』表紙   立岩真也編『青い芝・横塚晃一・横田弘:1970年へ/から』表紙

『さようならCP』
日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会行動網領


――以下、当日配布資料――


 ※以下、いただいた題を忘れていたこともあり、福島に関係する記述をいくつか。(福島)青い芝の会も少し出てはきます。HPではいろいろと紹介しています。私の頁(http://www.arsvi.com/ts/0.htm)の2018/03/17あるいは「青い芝の会の思想と出会って」で検索すると、この文書と同じ頁が出てきます。表紙写真等からいろいろな情報頁にリンクされているのでご覧ください。以下、まず冒頭でそれまでに書いたものを並べて紹介している2015年の文章。その後、2011年のもの2つ、2012年のもの1つから、一部。… というのもなんなので、白石清春さんについてのこちらの頁をさらにつけていただくことにしました。


◆2015/11/01 「田舎はなくなるまで田舎は生き延びる」
 天田城介・渡辺克典編『大震災の生存学』,青弓社,224p. pp.188-211

□これまで
 震災について様々がなされ書かれてきたし、これからも書かれるべきだし、書かれるだろう。他方私自身はなにごともできたわけではないが、いくつかの短文を書いてはきた。そこに記したことをまず簡単に紹介しておく。すべてウェブ上で読めるので、興味があったら読んでいただければと思う。次にそれがこの文章の本体ということになるのだが、金の使い方について、とくに「田舎」のことを念頭に置いてすこし考えてみようと思う。災害がなくてもまたあっても、何にどのように金を使うのか、そうしたまったく基本的なことが問われていると私は考えている。
 ごく短いものを別に書いたものは四つある。「考えなくてもいくらでもすることはあるしたまには考えた方がよいこともある」([2011a]、以下拙文について筆者名略)、「まともな逃亡生活を支援することを支持する」([2011b])、「後ろに付いて拾っていくこと+すこし――震災と障害者病者関連・中間報告」([2012a])、「災厄に向う――本人たち・後方から」([2013])である。ウェブにあるから繰り返す必要はないが、簡単に紹介しておく。
 私たちがあの地震の後に始めたのは(とくに病気や障害のある人に関わる)情報を集めてHPに掲載し、それをまた紹介するといったことだった。震災において、また震災に対して、情報を集めるぐらいのことはしたいと考えていることは書いてきた。いくらかのことはした(してもらった)が、なかなか続かない。その紹介の紹介は以上のいずれでもしている。また他(「生存学研究センター」のメールマガジン等)でもしている。(その他こちらで行なったことについては別章で紹介されている。)
 そしてそれらとも関わって、現地で障害者・病者がどのようであった/あるのか、またどのように行動を起こし、続けているのかについても少し書いた。東北で/東北に向けて、活動をしている人たち、それを支援している人たちには、それぞれの過去があり、過去からのつながりがある。それは、この約五〇年近くの、さらに阪神淡路震災後の障害者運動の継承・展開によって支えられているところがある。関西からも人が行き、阪神淡路震災を契機に立ち上がった金を集め配るところ(「ゆめ風基金」)が一定の役割を果たしている。これらについて[2011a][2011a]で少し、[2012a]では紙数が与えられたのである程度細かに書いて、[2013]でも短く繰り返した。そしてそこでは、これは本章の「本体」にも関わることだが、こんな時であってもあるいはそんな時であるからこそ、必要な助けを得て住みたいところに住めることが主張されていること、そのためにその人たちが動いていることを紹介した。
 加えて[2011a]では、「近さ」「悲惨」からものを言っていく考えていくことについて、それはまことにもっともなことではあるが、その難点・限界についても思ってみることが必要だと述べた。それは私がずっと言っていることの繰り返しでもある。私が最初の(そして最後の)まともな調査をしたとき(それが安積他[1990][2012]になった)に感じたことでもあった。誰かと「友達」にならなければ、何かを、たとえば悲惨さやあるいは魅力を、与え示さないことには生きられないのはおかしいと、家を出て施設にも入らずに暮らす障害者たち言われて、それはもっともだと思った。このことも本章の本体に関わっている。
 また[2011b]――精神医療関連の雑誌や本を出している出版社の刊行物に掲載された――では心理面での支援をまったく肯定しつつ、しかしその支援をしている人たち自身がよくわかっているように、その上で実際に実現されねばならないことがある、でなければいつものようにその支援は「アリバイ」としてしか機能しないという当たり前のことを述べた。
 そして[2011a][2013]では――後者は日本学術会議の雑誌に掲載された――では、たしかにこの国でもなくはなかった科学論・科学批判についての検証がなされるべきだと述べた。例えばある国立大学の大学院で関連の企画に呼ばれて話をしたおり、高木仁三郎といった人の名を知らない人の割合が大変高くていくらか驚いたといったこともあった。
 こうしたものを書いたが、私自身がそれから何かできているわけでもない。被災の前後に人々が何を経験してきたのか。人々にどのような対応がなされたのか、具体的には、在宅や施設で生活してきた人たちのなかに住む場を変えざるをえなかった人たち、変えさせられた人たちがいる。仮設住宅に住む人の境遇はどうか。その手前で、どのような経緯で、どこに行ったのか。すくなくともかなり長い間、その消息がつかめなかった人たちがおり、状況があった。役所の個人情報についてのきまりがその理由にされもした。そうしたことごとについて土屋葉たちが調査している。その報告がその都度なされていくだろう。
 ここでは現場を知らない者が大まかなことを書く。そしてとくに「田舎」の「平時」を念頭に置く。まず私は二〇一一年に起こったことがなにか時を画するようなできごとだとは考えていない。もちろん特別の事態への特別の対応は必要だが、それを一部を含みながら、普通の社会のあり方を考える必要があると思う。そして田舎について。もちろん本書が主題とする問題の全体が田舎の問題であるとまったく考えてはいない。ただそれでも、田舎にかなり長く、生まれてから十八年はいた者としても、考えてみてよいように思った。
 言いたいことは単純なことだ。いくらかの人たちはとどまろうと願ったり今さら動くことも考えられない。そうしてとどまっている。移動することができるとともに、その場で生活できるようにすること、普通にその地にとどまれるための工夫はいろいろとあると思う。それをどのようにして行なうのか。人を手伝う仕事をもっとまじめにやったらよい。そしてそうした仕事に就いて暮らせるようにしたらよい。それを基幹産業としたらよい。このことを述べる。単純な話だがそれをきちんと言うには、多くの人があまり理屈としては考えたことのないことがいろいろとある。その幾つかも示せればと思う。

□基本的な見立て
 田舎の人たちは(都会もそうだが、比べればより早く)減っていく。私はそれをどうしても止めねばならないとは思わない。いくらかの産業がそこで営まれること、また新たに営まれる可能性はある。そしてそれはけっこうなことだと思う。しかしそれはどこででも起こることではない。[…]

□受け取りについて
 その上で、考えるべき全体のなかで各人の受け取りだけを見ることにしよう。それは三つに分けられることを述べてきた。(1)基本的な所得と、(2)個別の事情に応じた加算と、(3)労働という労苦に応じた支給である。このうち(1)と(2)との区別がまったく便宜的なものであり、そのことを間違えてならないことを繰り返してきたのだが(立岩他[2012:37ff.]他)、ここでもそれを繰り返したうえで分けることにする。そしてこれら、所得保障・所謂社会サービスと労働(による収入)との兼ね合いについて、ごく基本的なことは別に記した(立岩他[2009:24-28]立岩他[2010:16-22])。
 (1)について。[…]

□土地に関わる権利と追加費用のこと
 (1)所得保障は個別給付で現金給付というかたちが基本的にとられる。次に(2)人の身体とそれが置かれている状況に関わる経費がある。これまで私は身体に関わる差異に関わって必要になる部分を論じてきた。その人が住まう土地に関わる部分についてはわずかしか述べてこなかった。そして一般にもあまり論じられることがなかったと思う。[…]

□人を世話する仕事のこと
 そして次に右記したこととまったく別のことと考える必要もないのだが、人の世話をする人が必要であり、その人たちが日々の暮らしを手伝うことをすればよいということになる。
 するとまず一つ、人手不足であるというお話があるが、それはまちがっている。[…]

□ボランティアについて
 併せてボランティアについて確認しておく。ボランティアはけっこうなことだが、すこし距離感をもって考えると、それは緊急時に適したかたちである。[…]

□産業であること
 (2)身体とその身体がある限り具体的なものであるしかない土地に関わって必要になるものについて、それがそのまま(3)仕事になるようにすればよいと述べた。それは「公費」
を使ってなされる。
 それは他にも比して有効な公共事業であると、言いたい人は言える。[…]

□誰がどうして抵抗するのか
 にもかかわらずそれが支持されないとすればなぜか。[…]

□文献
安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店
安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 2012 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版
河出書房新社編集部 編 2011 『思想としての3.11』,河出書房新社
―――― 2011a 「考えなくてもいくらでもすることはあるしたまには考えた方がよいこともある」,河出書房新社編集部編[2011:106-120]
―――― 2011b 「まともな逃亡生活を支援することを支持する」,『別冊Niche』3:61-70
―――― 2012a 「後ろに付いて拾っていくこと+すこし――震災と障害者病者関連・中間報告」,『福祉社会学研究』09:81-96(福祉社会学会)
―――― 2013 「災厄に向う――本人たち・後方から」、『学術の動向』18-11:19-26(日本学術会議)
―――― 2014 『自閉症連続体の時代』、みすず書房
立岩真也・堀田義太郎 2012 『差異と平等――障害とケア/有償と無償』、青土社
立岩真也・村上潔 2011 『家族性分業論前哨』
立岩真也・村上慎司・橋口昌治 2009 『税を直す』,青土社
立岩真也・齊藤拓 2010 『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』、青土社


◆2011/06/30 「考えなくてもいくらでもすることはあるしたまには考えた方がよいこともある」
 河出書房新社編集部編『思想としての3.11』,河出書房新社,pp.106-120

□広告
 […]
 たしかに私はものを考えるのが研究者の仕事だと思っている。だが同時に、あるいは、べつに考えたりしなくてもよいから、現場で日々体力と知力を消耗し、自分たちがやっていることも含めて、集めたり知らせたりする仕事などできない、そんなことをするより別のことをする、せざるをえない、するべきである人たちがいる時、そのうしろ・裏で、その人たちのやっていること等々を拾って集めて知らせる仕事をするのも仕事だと思う。べつにそんな仕事をする人のことを「研究者」とか呼ぶ必要もないのではあるが。実際、報道の収集、それから(仮の)住処に関する情報提供の仕事は、こっちではそこまで手が回らないからと、以前からつきあいのある人・組織から依頼されて始めた。
 そしてその人たち、今、震災の翌日からその現場に入っている人たち、金をかき集めている人たちの相当部分は、一九九五年一月、阪神淡路大震災を体験し、以来、自分たちが助かるため周りの人たちを助けるために活動してきた人たちだ。その十六年があって、今のことがなされているところがある。このことも知らせたいと思う。ご存じの方もいると思うが、神戸大学附属図書館が当時の資料をたくさん集めて、ウェブでも公開している(「神戸大学附属図書館・震災文庫」)。そこまでのことは――まずは予算的に――できない。ただいくらかでもやっていこうと思う。さしあたり必要とされる情報を蓄積していくと、その時に何が起こったのか、何がなされたのか(なされなかったのか)のいくらかがわかる。何が起こったのか(がどのように知らされたのか)を集めていくと、それがなんであったか、知らされ方がどんなであったのかがわかる、それはではこれからどうしたものかを考える材料になる、かもしれない。まず私たちが考えているのは、やっているのはそういう単純なことだ。原発関連の情報も掲載している。ときどき見てもらえたらと思う。そして役に立てられる人は役に立ててほしいし、役に立つものを知っている人もっている人は、知らせてほしいし、ほしい。

□[補]科学技術論
 まずはそれだけなのだが、一つ、前から気になっていることを加えておく。[…]

□近さと深さについて
 […]


◆2011/07/10 「まともな逃亡生活を支援することを支持する」
 『別冊Niche』3:61-70

□他所でのものとほんんどまったく同じ宣伝
 […]

□逃げること・住むこと
 そんなこんなで始めるには始めた。すると、「もの」の問題も多々ありながら「住」の問題がさらにやっかいであることは明らかだった。動けと言われても動くに動けない人がいる。誰かの手助けで動くとして、「普通」の避難所では対応できないということになり、ぜんぜん知らない場所の施設にということになったりする。普通に避難所やら仮設住宅にいる人はやがて戻れるかもしれない。しかしその人たちは、比べて、さしあたり「とりあえず」ということであったとしても、もとのところに戻れるなり、あるいは住みたいところに住めることになるだろうか。知られないまま、そのままになってしまうことがありうる。
 そんな現実的な危機感がある。というより既に起こっている。それで、やがて戻るにせよ戻らず新たな場所に住むにせよ、もっとまともな住む場所がほしいと、またそれを提供しようと思う人たちがいる。それは阪神淡路の時と比べても難しい。あの時には同じ場所(の近く)でどうやってやっていくかということだった。しかし今回は原発の問題が絡んでいる。
 行く(行かされる)場所がどんなところであるかによって、その人のそこでの生活、そしてその後の生活が決まってくる。どこに行くことを勧めるのか。そういうことに、残念ながら、今いるそういう方面を担当している(はずの)人たちがあまり役に立つとは思えない。そんなことをする人たちが、その「本義」としては、「ソーシャルワーカー」ということになるのかもしれないけれども、実際にはそう期待はできない。
 時にはその本人の話を聞いたり、相談に乗ったりするだけでなく、行政だとか各種機関と(場合によってはかなり強い調子で)やりとりをする、主張すべきを主張することが必要にもなってくる。そういう確かな立ち位置・姿勢と、ある種の手練手管をもってないとならないことがある。どういう暮らしが本来ならあってよいのか、どこでどんなふうに暮らしていくのか、自らもそれを求め、またそのための支援や交渉の活動を行なってきた人たちがいる。
 つまり、もう四〇年ほど前から、とにかくだまって言われることを聞いているとろくなことにならないと言って、与えられた場所・施設に住ませられるのは嫌だと言って、住みたい場所に、介助が必要なら介助者を得て、その制度を要求し獲得して、暮らそうという運動が、おもには身体障害者の方から始まった。「自立生活運動」などと呼ばれる。(同時期に、精神障害の人たち自身による運動も始まり、また、いくらか間を置いて、知的障害者の――親の会の運動は早くからあるが――本人の発言がなされるようになる。身体障害の方の人たちの一九九五年までの動きにいては安積純子他『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(藤原書店、増補改訂版一九九五)、その後のことも含め渡邉琢『介助者たちは、どう生きていくのか――障害者の地域自立生活と介助という営み』(生活書院、二〇一一)、これから紹介する人たちのことも(一部にだが)出てくる定藤邦子『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝の会を中心に』(生活書院、二〇一一、もとになったのは私たちの大学院に提出された博士論文)等を読んでもらえるとよい。
 大阪・兵庫は、東京辺りとはまたすこし違った「乗り」で、そうした活動が盛んな地域だった。その人たち・組織が、一九九五年一月に阪神淡路大震災が起こるとすぐに救援・支援の活動を始め、続けてきた。すぐに「障害者救援本部」・「被災地障害者センター」といった組織ができた。私にも当時の遅い電話回線のパソコン通信で通信が届いた。そのうち郵便で各種通信が送られてくるようになった。
 そしてその人たちは、「ゆめ・風基金」を作った。そのホームページを見ると、「五か月後に、ふだんから非常事態に備えておこうと「ゆめ風基金」運動が発足しました」とある。「そんなに早かったんだ」、と思う。そして、実際に基金を立ち上げ、国内だけでなく、トルコ、台湾、エルサルバドル、 アフガニスタン、イラン、パキスタン、ミャンマー、中国、フィリピン、ハイチでの災害の時、援助を行なってきた。そして今度の震災で、これらの団体が素早く動き始め動いている。
 その「自立生活運動」は一九八〇年代に入ると「自立生活センター(CIL)」を作って活動するようになる――現在そうした多くのセンターは介助者派遣事業の収入でなんとか組織をまわしている――のだが、東京都八王子市に(実際にサービスを提供する組織としては)日本で初めてのCILを設立し、その全国組織の代表を務めてきたりした中西正司さんが「東北関東大震災障害者救援本部」の代表を務めている。そうした組織の一つで兵庫にある「メインストリーム協会」の人たちは地震のあった翌日に東北に向かったと聞く。
 福島にもそう動きが一九七〇年代の半ばに現れる。その中心人物の一人がいま「被災地障がい者支援センターふくしま」の代表をしている白石清春さんだ。彼は脳性まひの人で、福島で橋本広芳さんたちと活躍し、秋田にも活動を広げるために一時いたこともあり、また全国組織にも関わり、かなり長く神奈川の相模原にいた後、福島に戻った。私たちと一緒にさきに記した『生の技法』を書いた安積純子(今は安積遊歩で通している)さんはその(養護学校および「福島青い芝の会」の後輩・仲間ということで、(調べてみたらもう二六年も前に)インタビューさせてもらったことがある。また(やはり調べたら一九九九年に)船引町に講演に呼んでいただいた鈴木絹恵さん――安積さんが「その道」に入った直接のきっかけを作った人でもある――が、その町で支援の活動を続けている。そうしたところに、さきに記した「本部」や「基金」がお金を送ったりして支援している。
 ここでも人は大切だ。ただ福島なら福島で、そういう(ちょっと押しの強い、経験のある)人手が足りないということがある。それで――なのかどうか、事情はまた今度聞いてみようと思うが――兵庫から、かつてのその「青い芝の会」の全国組織でいっしょだった――そこには様々な対立・分岐もあったのだが――古井(旧姓は鎌谷)正代さん、そしてやはり脳性まひで長く兵庫で活動してきた福永年久さんが、まず福島を訪れた。そして古井さんはいったん戻った後、もう一度福島に行って、三週間の支援にあたることになった。古井さん自身も介助が必要だから、その募集の要請もあり、その介助に私がいる大学院の院生など、関係者が同行した。
 その最後の一週間、介助しながら様子を見てきた最後の人で帰ってきたのはつい二日前で(今日は五月三一日)、具体的にどんなだったかはまだ聞いていない。ただ、たしかに人手も足りず、混乱もしている状況であっても、というかであるからこそ、残念ながら、今まであってきたし今もある行政や医療や福祉の専門職者の対応にまかせておけない、むしろそこにものを言っていく、変えていく必要があるということだ。そんなことをしなくてもことがうまく運べばよいと思う。しかし、残念ながら、こういう部分で押し問答をしたり、ねじ込んだりといったことは必要であらざるをえないということだ。
 その人たち自身の心労もまたずいぶんのものなのだろうと思う。その人たちは「上役」だから、そう弱音もはけない。私は、かつて調査などでお世話になったことはあるが、あくまで部外者だから、すこし苦労話も話してもらってそれでいくらか気が紛れることでもあるなら、ひさかたぶりにその方々のところに御挨拶にうかがったりさせていただくことはあるかもしれない。ただ、その活動自体に私たち自身が本格的に関わることは難しいか、できない。仮にからだが空いたとして、手練手管というか、迫力というか、そういうものを持ち合わせていない。ただ、そんな人たちからの要請を受けて、「受け入れ」に関する関連情報を提供することを始めた(さきに記したHPの「東日本大震災:住む暮らす」)。それでどこまでうまくいくかわからない。実際に受け入れる場が存在しなければ、その情報を提供すると言っても、実際の「逃避」「避難」につながらない。実際のところは厳しいと思う。ただそれでも、さしあたりやれることはやっていこうと思っている。逃げたい人には逃げたいところに逃げてもらいたいと思う。

□心と社会と両方言われるが、何も埋まらない、に抗する
 […]



◆2012/05/30 「後ろに付いて拾っていくこと+すこし――震災と障害者病者関連・中間報告」
 『福祉社会学研究』09:81-97(福祉社会学会

□1 はじめに
 […]

□2 伝達と集積、そして電源他
 […]

□3 人・組織およびその来歴
 このたび、即時の、そして後の上記の課題にも関わる「本人」たちの動きは早かった。
 まず全国的な組織としては「東北関東大震災障害者救援本部」が設立された。また被災した各地に県別の組織、福島県であれば「JDF被災地障がい者支援センターふくしま」(開所式は4月6日)他が設立された。そして阪神淡路大震災<0085<の後に設立された「ゆめ風基金」がこれまで集めた金を各所に渡すとともに、さらなる募金と活動を展開している。
 それらがどこまでのことをできていて、どんな困難を抱えているのか。それを追っておく必要がある。そしていちおう注目しておきたいのは、ここではその要因までは述べないけれど、かつて少数派であった部分が先頭に立って、そしてかつてはあまり(時にはとても)仲のよくなかった部分も含めて、やっていっているということだ。
 これは非常時だからということもあるだろう。またいつまで続くかわからない今の政権に代わったという要因もないではないだろう。かつての政権党を支持してきた側にしても、得られるものがあるから支持してきたということであって、その要求先が変われば態度も変わる。そして、共産党に近く、とくに障害児教育のあり方を巡って鋭い対立を見せていた部分も、今はかつてほどの攻撃性はなくなっているといったことがあり、そちらに近い(と、今は関係者たち自身の大多数が思っていないのだろうと思う)「共同作業所全国連絡会(共作連)」に属する組織やそこにいる人たちも例えは福島のセンターで仲良くやっていると聞く。このセンターの名称の先頭についている「JDF」は「日本障害フォーラム」。この組織は旧来の大手の組織「日本身体障害者団体連合会」(日身連)といった組織を含む大同団結的な組織である。
 ただ、例えば福島であれば、そのセンターの代表をしているのは「福島県青い芝の会」を橋本広芳らと共に始めた白石清春(1950生)である。その白石らの主張に反感を感じて事務所に乗り込んでいって徹夜で議論して「寝返り」、その活動に参画するようになったのが鈴木絹江で、さらにそれに感化されたのが安積遊歩(1956生)ということになる。鈴木も今、田村市で支援の活動をしている(現在「ケアステーションゆうとぴあ」理事長)★04。いまは原発を逃れ、東京からシドニーに移っている安積は白石らについて次のように語っている。

 「当時、全国青い芝の代表は横塚晃一さんだった。福島で最初に始めたのは白石清春さんと橋本広芳さん。そのころ、橋本さんも白石さんもすごく過激でね。施設へ行って、ベッドの周りに棚があって鉄格子みたいになってると、「おまえら、こんなところに入りたいと思うのか」ってすごい剣<0086<幕でどなったりしがみついたりして。二度とこないように立入り禁止になったりして。怒り狂って。悲しみのあまりにね。私たちの目の前で、ご飯に味噌汁とおかずと薬と水をかけて、ごちゃごちゃに混ぜたのを口につつこまれたりしているんだよ、私達の同窓生がさ。あまりにも悲しみが高まるよね。「おまえら、こんなのめしだと思うのか」ってつかみかかってどなるのよね。
 白石さんはその後、青い芝の活動のために秋田に移り住んで、青い芝の事務所のある神奈川と往復してた、福島にもしょっちゅう来てたけど。七九年には白石さんが全国の代表になったんだ。橋本さんは白石さんの女房役でね。」(安積[1990:30→1995:30])

 記録を見ると、白石の秋田への「オルグ」のための移住は1976年。1977年の(全国)青い芝の会の大会で選出された会長が横塚晃一(1935〜1978、
75年の著書の新版が横塚[2007])、副会長が白石、事務局長が鎌谷正代(後述の古井正代)。白石は、同年、ごくいちぶでは有名な「川崎バスジャック闘争」にも「中心的な立場で」参加してもいる。その翌1978年、横塚が亡くなり、路線を巡る対立等々が起こる。白石は、1979年、「全国青い芝の会再建委員会」(正式名称がこれでよいかは不詳)の代表に就任。そして1980年には秋田から相模原市に移る。そして、1970年からは長く、もっはら糾弾・反対の運動をしてきたこの団体において、所得保障要求を中心においた対話路線の「東京青い芝の会」の人たちが前面に出た(その方向を進めた官僚がいたということもあった)一時期――だから、というわけでは(まったく)ない(と私は思う)が、障害基礎年金が1985年に始まる――その人たちと活動もした人である(そして、そういう時期はいっときのことであり、その後、この組織は様々に対して反対する組織に戻り、実際の活動を担う人は長い間にすこしずつ減っていくという組織になっていく。この辺については立岩[1990→1995]に少し記している。)
 私は、1980年代の後半、安積の紹介・仲介で相模原で白石らが運営していた「くえびこ」という場所(1981年開所、制度的には作業所ということだったのだと思う)でインタビューさせてもらったことがある。そして彼らはその頃すでに「シャローム」というグループホームの運営の始めていたはずだ。その白石は、<0087<1989年に再び福島に戻り、1990年設立の「グループらせん」、1994年開設の「オフィスIL」、2001年設立の「あいえるの会」に関わってきた。そんな人だ。私はそれきりになってしまったが、土屋葉らが聞き取り調査を重ねてきて、いくつかそれに基づく論文もある(土屋[2007a][2007b]――がさらに記録(が公表)され書かれるべきことが多くあると思う。)
 そして、その福島に、早々に、応援しようと乗り込んだのが、古井(旧姓・鎌谷)正代と福永年久だった。古井(1952生)はかつて「関西青い芝の会」の中心人物で、後に「健全者(健常者)」(の集団)との関係等を巡って「大阪青い芝の会」他と対立しつつ、その「健全者組織」を(作ってそして)解散させるあたりの時期にいた人で、またそうした「内紛」の後、活動から(いったん)離れることになった人である。だから基本現在は無所属ということになるのだろうが、とても元気な人で、ここ十年ほどの間に幾度か集会やら研究会でお会いしたことがあった。
 また福永(1952生)は、「兵庫青い芝の会」に関わり、「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」の幹事を務め、そして震災前から、そして震災後、「阪神障害者解放センター」、「拓人こうべ」の代表など務めてきた。『こんちくしょう』という映画の「制作総指揮」をした人でもあり、その映画作りに関わった人とともにCOEの企画「障害者運動・自立生活・メディア――映画『こんちくしょう』のスタッフと共に考える」で大学に来てもらって話してもらったことがあった。(関西における障害者運動について、山下[2008]、渡邉[2011]、定藤[2011]等。)
 その人たちが、4月に福島に、白石たちのところに行った。両人とも重度の脳性まひの人で、介助者がいるわけで、それでとんな連絡がいつ来て何がどうなったのか記憶にないのだが、青木千帆子(2011年度のCOEのポストドクトラル・フェロー、現在は立命館グローバルイノベーション研究機構研究員で電子書籍のアクセシビリティについての研究グループの一員、本業は「障害者と労働」ということであるはずで、後出の「差別とたたかう共同体全国連合(共同連)」、現在は(NPO)「共同連」が正式名称)等に調査に行っている)、そしてやはり大学院生で(2011年度に3年次入学、本業としてはベトナムの精神障害者のことを研究している)権藤眞由美が、介助者として同行するといったことがあった。古井は、そしてその二人他も、その後も福島を訪問している★05。古井たちは、関西、というか大阪・兵庫の人た<0088<ちの中でも、前向きの、言うことははっきりと強く言うという人たちであったから、当地では、いささかのあるいはそれ以上の当惑を、ものを言っていく相手だけでなく、当の組織のスタッフ他にももたらしたようだ。白石は、闘士であったとともに温厚な人格者でもあり、福島という――とも一括りにできないのだろうが、おおまかには控え目な人たちが多い――土地で、方向が(ときにかなり)異なる人たちも含めてやってきた。ただ、こういう状況であっても(あるいはあるからこそ)押す時には押す、言う時には言うということに積極的な意味もあったのだろうと思う――古井に同行した青木の報告として青木[2011]。(このことを最後に記す。)
 そして、「東北関東大震災障害者救援本部」の代表は、そのHPからそのままとってくれば、中西正司(DPI日本会議常任委員、全国自立生活センター協議会常任委員)、副代表:牧口一二(ゆめ風基金)。呼びかけ人には、DPI日本会議から三澤了、山田昭義、尾上浩二、奥山幸博、八柳卓史、全国自立生活センター協議会(JIL)から、長位鈴子、平下耕三、佐藤聡、東京都自立生活協議会(TIL)から横山晃久、野口俊彦、今村登、ゆめ風基金から楠敏雄、福永年久、共同連から松場作治、地域団体から江戸徹(AJU自立の家)、廉田俊二(メインストリーム協会)、障害者権利条約批准・インクルーシブ教育推進ネットワーク:北村小夜、青海恵子、徳田茂。この人たちについてもいくらでも書くべきことがあるが、きりがない。(「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」の代表幹事であったこともある楠については現在、やはり私の勤め先の大学院生の岸田典子が聞き取りを継続的に行なっている。その成果がそのうち出されるだろう。)
 そして、「ゆめ風基金」は、阪神淡路の地震の5月後に設立された基金で、今名前が出た関西・大阪の障害者運動にはじめから(人によっては途中から)縁が深い人たち、『そよ風のように街に出よう』という雑誌を出してきた河野秀忠といった人たちが関わってきた。(その地の震災以降の関連の活動については、大学院生他とともに長期間に渡る調査を行なってきた似田貝らの著作(似田貝編[2006]、佐藤[2010])にいくらかは出てくるが、それ以外にはないのではないか。)
 それらは新興の――とは言えないだろう、ずいぶんな時間が経っているのだから――その時々の福祉の政策(やときに学問)を批判してきた(が言うことを聞いてもらえなかった)勢力である。ただ、この時間の間に、「青い芝の会」に<0089<せよ「全障連」にせよ、もっぱら批判・抗議の運動を展開してきた部分の活動力は、言い放ってしまえば、低下しており、後景に退いてきている。ただ、その流れを汲んではいる人たちが幾人もいるし、そうした「傾向」の組織が多く加入している「DPI日本会議」が現在の運動・政策の一つの核になっている。そして同時に、そして福島県もそうだったが、「事業所としての自立生活センター」というかたちができていったことによって、そうした組織の存在・存続が、かつかつながらではあるにせよ、可能になった。ただ同時に現在でも、東北でも(日本の他の地域でも)こうした組織がない県・地域はある。福島の場合、1970年代以降の運動・活動があり、それを始めた人の里帰りもあったりして、つまり、より以前からの運動と1990年代以降の事業体としての活動と、両方の要素をもつ動き・組織があって、とにかくすぐに動けた部分があった。阪神淡路の時もそうで、そしてそれが今度の東北への支援にもつながっている。

□4 住むこと・移ること
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UP:20180306 REV:
青い芝の会  ◇立岩 真也 
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