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青い芝の会の思想と出会って
立岩 真也
2018/03/17
平成29年度自立生活支援セミナー
,主催:特定非営利活動法人あいえるの会
於:郡山市労働福祉会館3階大ホール(郡山市虎丸町7-7 )
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※
[表紙写真クリックで紹介頁へ]
◇
青い芝の会
◇立岩真也 編 2015/05/31
『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』
,
Kyoto Books
700
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『さようならCP』
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日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会行動網領
【4上05】2018031701 立岩 於郡山 91分
司会 それでは講演に入らせていただきます。第1部基調講演、「青い芝の会の思想と出会って」。講師、立命館大学先端総合学術研究科教授、立岩真也さま。自己紹介なども含めまして、立岩さま、よろしくお願いします。
立岩氏 おはようございます。こんにちは。立岩と申します。これから1時間20分ぐらい、お話をさせていただききます。
どこからいこうか…。まずはここの会場の関係で、僕はたいがい何か話すときには関係するものを売り歩いて、各地を回っているんですけれども。ここはちょっと物販できないということで、それは今日は持ってこなかったんですけれども。資料というか、「こういうものがあるよ。」というものの紹介をまずさせていただきます。
それから今回のテーマが、「若い障害者にバトンを渡していくには?」というので、若い人に、おじさん、おじいさんたちが何か言いたいと。「青い芝ぐらい知れ。」みたいな。何かそういう感じがするわけですけど。でも、若い人に、「『足りないよ。』って、みんな、言われるわけですよ。」という話をまず最初にふって、それから、青い芝の昔の話をして、1時間20分ぐらい話して終わりっていうふうにしようかな、と思いました。
今回このパンダの資料集のしょっぱなから、だいぶ長い私の資料がついています。プロフィールというのもあって。言い忘れましたけど、私は今は、というかだいぶ前から、京都に立命館大学という大学がありますけど、そこの教員をやっています。大学院の専門ですけど、教えてます。
それから資料が随分あるんですけれども、最初はお話をいただいた時に、やっぱり福島で白石さん…、僕は実は1987年ぐらいに白石さんがまだ神奈川の相模原にいらした頃に、お話を伺いに行ったことがあって。何と30年前ですよ。という記憶もあるんですけれども、それからずっと経って、震災があって、2011年に。その後、白石さんたちが福島で、活動というか活躍されているのを見聞きはしてはおりましたから、障害学会という学会、今は私はそこの学会の会長をやっていますけれども、それの開会の時に白石さんをお呼びし、報告していただいたっていうことの記憶がやっぱあったんですね。そういうことで、今回の資料集の方の資料は、青い芝っていうよりは福島の震災の時について、に関係して書いたものが、私、いくつかありまして。そこの中から一部を抜き出してきて、そこの中で青い芝であるとか、過去の障害者運動とのつながりについて書かれたところを引用する、っていうふうな資料にさせていただいています。それはそれで僕はいくらか意義があると思っているので、読んでいただきたいとは思うんですけれども。今日お話しする話そのものとは、少し違う中身になっています。
ということで、後で見ていただきたいかなと思うんですけれども。そういうことも含めて、ちょっと最初に資料的なことの紹介をしますと、私は立岩真也という名前の人間で、社会学というのが専攻なんですけれども、この名前は日本には一人しかいないらしくて、これで検索してもらうといっぺんにこのページに飛んできます。そこに私が今まで書いてきた本の…これは全部表紙ですけれども…から、一つ一つの紹介文に入る。そこの中では、今日お話しする青い芝の会に関係する本もいくつかあるんですけれども、…に入ります。そこが終わるとですね、こうやってスクロールしてもらうと、新しいものから上に、下の方に行くにつれて古いものになってくという、そういう仕掛けになっています。
そこでですね、「2018年3月17日」というとこに行くと、郡山市労働福祉会館の3階の大ホールで、「青い芝の会の思想と出会って」という話をするよ、ってのが出てくるわけです。ちなみにこのタイトルは、あいえるの会からいただいたタイトルで、だいぶ前にいただいて僕はすっかり忘れてまして、「何の話をするんだったけな?」と思って、3日ぐらい前に見たら、「そっか、俺は青い芝の話をするんだ。」と思って、っていうぐらいの話です。すいません。
で、これを押してもらうとですね、今日の資料集とかぶる、というか「これを元にこれを印刷してください。」というふうにお願いして、工夫していただいて資料集に載ってるんですけれども。基本同じなんですが、ただですね、こうやって1個1個リンクが貼ってあります。そうすると、今日長い時間と言っても1時間なんぼかっていう時間で、そんなに詳しい話はできない。だけど、もしかして、というか、僕の話は面白くないかもしれないけれども、青い芝の会の人たちが考えたとか、やったことというのは明らかに面白いですよ。そういうことにちょっと関心がもともとあったのが、今日からあるとか、そういう人はこれを見てほしいんです。そうすると、私が今日ちょっとだけ話をする人に関係するページであるとか、色んな人のところ、人であるとか本であるとか、そういったものにつながっていきます。とりあえずホームぺージただなので、ただで読めますし、もっと関心があれば本も見ていただける、というそういう仕掛けのものをつくっております。
ちなみに僕はこの…、このページは何かというとですね、勤め先の立命館大学が生存学研究センターという訳のわかんないセンターをつくってですね。僕はそこのセンター長もやってるんですけれども、そこのページです。そこの中の制作責任者というので私の名前があって、そこを押してもらってもいいんですけども、これが出てきます。それから、例えば、2016年7月26日に、多くの障害者が殺傷されるという事件がありましたけれども、あの事件に関しては、この「7.26に起こった事件」というところを見てもらえばいいです。今、表紙からは外してますけれども…、あ、外してなかった。「震災関連情報」というのがまだ残ってますね。これは2011年につくったページのグループです。
ていう感じで、何か役に立つものがあると思うんです。今日お話しするのは今日で終わりですけれども、これは、そうですね…、僕が作り始めてから…、最初は個人的に作り始めてから、20年目ぐらいなんです。「20年経っちゃった。」って感じなんですけれども。頑張って作ってるつもりではありますから、今日覚えていただいて。これは「生存学」という検索で出ると、1番目か2番目にこれ出てきます。ので、とりあえずそこでやってもらうか、あるいは私の名前で見てもらって、こういう感じで。あとは色々辿ってみる。「迷路みたいだ。」とか色々言われてるんですけれども、その通りなんですが、楽しんでもらえるかなと思います。という資料の紹介、ホームページの紹介でした。 [00:08:34] さて本題に入っていくとしてですね、さっき言いました、おじさん、おじいさんたちがですね…、おばあさんもいるんですけれども、おばさん、おばあさんもいるわけですけれども…、「近頃の若い者は。」と思っているわけですよ。それで今日の催しも企画されたんだと思うんですけれども、そこからちょっと、雑感、話をします。
ちなみに僕は1960年生まれです。ですから今、57歳で、58歳に今年なるんですが。何か、よくピンときませんけれども、そうだそうです。ちなみに今日、午後のシンポジウムで話されるDPIの尾上さんと僕は同じ年で、だからどうだって話ですけれども、そういう感じなんですね。
昨日聞いて改めて確認したんですが、白石さんと橋本さんは1950年生まれなんです、ちょうど私と10こ違う。で、67とか68とかというぐらいですよね。そういう人たちが今の若者たちについて憂いている、そういう構図があるんです。ただですね、考えてみると、例えば今から30年前、僕も27、8とかだったと思うんです。その頃に白石さんとか橋本さんとか、今福島にいらっしゃる方々に…、その時は、それこそ、2016年に人がいっぱい殺された相模原という場所にですね、グループホームと作業所をやっておられた。で、話を聞きに行った、ちょうどそういうことを始めた時期です。そういう時にも、私がつまり20代だった時にも、「お前たち、問題意識がはっきりせん。」とかですね、「生活が良くなっただけ、甘い。」とかですね、同じことたぶん言われてた…、たぶんじゃなくて確実に言われてました。「このままじゃ運動がどうなるかわからない。」とかですね、その当時の、今もう80とか、もう亡くなっちゃったとか、そういう人たちから色んな小言を聞かされて育った、という気がするわけです。
じゃあそれから30年経って、日本の運動が衰滅してですね、影も形もなくなってるかというと、そんなことはないわけです。その当時、20代で何やかんやと、じいさんたちに言われていた人たちも育って、50代になってですね、「そこそこ頑張ってきたな。」という、「頑張ってるぞ。」という感じがするわけです。それは50代もそうだけれども、40代も、30代も、「そんなにそれぞれ沢山いるわけじゃないけれども、でも結構いいじゃん。」という気がする。それはその、僕は大学院生というのを教えてるんだけれども、それも同じでね。最初、例えば、22とか3とかで入って来る人たちってのはやっぱり頼りないわけですよ。で、やっぱり色々周囲から言われるわけね。「ふにゃっとして、何だかよくわかんない。」とか。だけれども、「まぁ待とうよ。」と言うわけです。「10年待とうよ」。で、10年、僕らの大学院もできてから16年目とかになるんですけれども、でもやっぱり、そうやって、「10年ぐらい待とうよ。」って待ってみると、「お、ちゃんとした奴になったじゃん。」っていうの、結構あるんですね。そういう意味で、僕はそんなにその、未来というか若いのというかに、心配していない、というのをあらかじめ言っておきます。
[00:12:03] それでですね、生活が良くなる分、何かこう尖った感が薄れる。逆に今日、わざわざ青い芝ってのを持ってきたのも、「70代のおじさんたち、とんがってたんだぜ。」というのを言いたい、みたいなね、そういうのもあると思うんだが。それはそれでわかるんです。僕はとんがったのも好きなので。
だけれども、生活力なくて、ボヤーンって何か生きられる、暮らせるっていうのも全然、悪いことじゃなくて。それ自体はいいことじゃないですか。何か毎日腹立てたり、怒ったり、そんなことしながら生きてくっていうのは、後になってね、思い出してみると、「俺はあのとき勇ましかったぜ。」とかね、何か、って言って自慢話というか武勇伝みたいになるけども、やってる時は辛くって。私も学生時代にちょっとそんな感じだったんですけれども、だいたいその、怒って闘ったって、大抵負けるわけですよ。ほんで、悔しいし、腹立つし、淋しいし、悲しいし、っていうことの方が多くてね。それよか、「のほほんとでも、ボヤンとでも暮らせたら、そっちの方がいい。」というのは自然な、素朴なことだと思うわけです。だから悪いわけじゃない。おじさんたちに言われたら、「いいじゃん、その方が。」って言い返せばいいわけです。
と、同時にね、自分の生活が曲がりなりにもそういう先輩たちの苦闘の末にまあまあ確保されたと、まあまあ生きてけるという時に、じゃあ何もすることなくて、ゲームやってテレビだけ見てりゃいいのかと。それでも別に構わないと僕は思うんです。思うんだけれども、あとでお話しますけど、そういう時間があって、考えることもでき、生活もできるといった中で、まぁ言ってみれば仲間のために人のためにやれること、やったほうがいいことっていっぱいあるわけです。そういうことのヒントになる部分も、今日、午前・午後の、特に午後の部分も含めて、話が出るといいなっていうふうに、私は思ってますけど。そうやって、自分に余裕ができたら、人のために力を使うこともできるわけですよ。そういう意味で言っても、今は悪い時代じゃない。これからやってけることってあると思います。
[00:14:19] それからもう一つ、課題とか問題とか主題とかそういうものを見つけて、そのために頑張るっていうのも、社会運動、障害者運動の、それこそが使命なわけだけれども。だけどね、昨日僕は朝、京都を出て、で、午後に郡山に着いて。その後、白石さんと橋本さんに話を伺って。2時間ぐらい。すごい面白かったですけど。そんな話を2時間聞いた話を短くしゃべってもいいんですが(笑)。それはやりませんけど。
その後みんなで、あいえるの会が経営している場所の一つかな、と思うんですけど、そこで飲んだり食ったりしたわけです。で、それがふつうに楽しいわけです。会で作ったのか、白石さんが作ったのかわからないけど、梅酒があって、梅酒飲んで、気持ちよかったんですけれど。そういう…、何て言うんだろうな、一応目的があって会というものを作り、運動というのをやってるわけだけれども、そういうことをやりながら、でも、話したり、飲んだり食ったり、それの方が…、そういうことも、1日の、1週間の、1年の一部分にあってもいい(?)じゃないですか。毎日、テレビ見たりゲームしててもいいんだけれども、そのうちのいくつかの時間を人と、そうやって。
そういう意味で、これからも集団とか組織とか、そういうものの中で人が集まって、何か考えたり、ただ食ったりということの意味とか楽しさというのが失われるってことは決してないと思うし、そういう意味で、僕は地域の運動にしても、それから日本全国の、あるいは全世界の、というところを取って見ても、障害者が「自分たちの権利のために闘う」と言いながら、遊ぶ。遊びながら闘う、ということの意義というか、そういうものは減っていったりするもんではないという。そういう意味では楽観している、あるいは楽観することにしている、ということを、まず最初に申し述べておきます。
[00:16:36]
さて、おじさんはそんなに未来を悲観していないよ、という話をした上でですね、昔話というかな、に入って行こうと思います。振られた話題で思い出した、「あ、そっか。俺は今日その話をするというので郡山に呼んでいただいたんだ。」という、その、青い芝の会の話をします。 たぶん僕は青い芝の会というものに、字を書いた日本人の中で、ということは世界の中でってことなんですけれども、一番やっぱり字を書いた人間だと思います。で、それを読んでもらえると、嬉しいは嬉しいんですけどね。どの話から行こうかな。その話はちょっと後で。
日本の障害者の施策とか、あるいはそれに対して要求したりする運動というのは、もちろんずっと前からあったにはあったんですよ。たいがいみんな戦後のことから話しだしますけれども、戦前だって無くはなかった。というふうに話してると、これは学校の講義みたいになっちゃいますから、やめますけれども。
そういって、昔から無くはなかった運動というものが、1970年にですね、わかりやすい、数えやすい年に変化を画す。さっき言いましたけど白石橋本は50年、私と尾上さんは60年。そして70年。めちゃくちゃわかりやすいですが。だからどうだ、何の意味もないんですけれども。(?)ても10年ごとに区切られてる。その70年に起こったことというのはですね、何が起こったかと言うと、横浜市で脳性マヒの2歳になる女の子を母親が殺したという事件が起こった。で、「そんなのは知ってた。」と言う人と、「初めて聞いた。」という人とはたいがいこういう講演の場所では混ざってる話(?)ですが、今日は基本、知らないって人標準でいこうと思います。ですから、知ってる人は眠っててください。そういうことがありました。
[00:18:52] で、こういうことはそんなに珍しいことじゃない、残念なことに、不幸なことに。今も昔も、障害児の親が障害児を殺すということはあった。今もある。で、その時もあった。で、その時に、これも珍しいことではないんだけれども、その、殺してしまった母親に対してですね、「この母親だって別に殺したくて殺したわけじゃない。」と。「色々事情があって、悩んで苦しんだ末にそういうことがあったんだ。」ということで、減刑、つまり死刑とかじゃなくて、刑を軽くしてくれ、っていう運動が起こるわけです。ちなみにこれを起したのは、その、地元の町内会とかっていうわけじゃ必ずしもなくて、神奈川県で障害児を育てている子どもたちの親の会の人たちなんかが中心となって、そういう運動を展開するわけです。
これは考えてみると、結構深い話です。つまり、「障害の側に立つ人たちが、障害児を殺した親の減刑を望む」っていうこと。で、結構それはあるんですよ、今もね、昔も。で割と、「そうだよな。何か事情があって、殺しちゃったんだよね。」みたいな。そういうふうに思う。そうやって割とスルッとそのまま通るってことの方が、今も昔も多いだろうと思うんです。ところがですね、その1970年という年に、横浜にあった神奈川県の青い芝の会という、もともとは1950年代にできた組織ですけれども、それが、あれこれあって70年に、それに対して文句を言ってしまうわけです。「殺したって…、殺されたのは人で、障害児では…。障害児は殺されてもよくて、障害児じゃなかったら殺されちゃいけないのか。」と、「障害児が殺されると刑が軽くなるのか? そういうことでいいのか?」っていうことを言っちゃったんです。それが事の始まりでした。
それが、「え?」みたいなことが、波紋というのかな、そういうことが起こり始めたんですよね。その時の社会的な背景、状況と言うのもある。大学紛争、大学闘争と言われてるものが68年ぐらいから始まって、日本中が騒がしくなる。今まで文句言えなかった人たちが、文句を言ってもいいんだよ、という、そういう雰囲気ってのもたぶん後押しをしたんだというふうに思います。それは僕が、その、文句を言い始めた一人である横田さんという人に直接会って、そのことを聞いたことがあるんですけれども、「うん、それはある。今までそれは言っちゃいけないみたいな感じだったんだけれども、『俺たちだって言うぞ』みたいな、そういう気分になった、ということはあったね。」っていうふうに言います。
[00:21:52] そのことを訴える…、それは新聞にも載ったし、NHKのテレビでも報道されました。そしてそれはやがて、ひとつには映画になっていきます。これは『さようならCP』という映画ですけれども。原一男という、『ゆきゆきて、神軍』とかですね、そういったドキュメンタリー映画で有名ですけれども、彼が最初に撮った映画です。これは1972年に公開されました。これはもちろんというか、一般の映画館で上映されたっていうのではないんだけれども、これを観て、「びっくりした。」というか、「これ観せなきゃ。」みたいなこと思った人というのが結構いた、ですよ。で、関西でも関東でも、それからやがて福島でも、その上映会というのが行われるようになります。で、白石さんもこの映画を観て、「びっくりした。」というように自ら語っておられます。僕は何か「青い芝専門家」みたいな…、そんなことはないんだけれども、一方でそういうふうにも言われたりすることがあるんだが…、この映画をちゃんと通して(?)観たことが実は、長いことなくて、最初から最後まで。去年…じゃない、一昨年でした、原一男監督に我々の大学に来てもらって、上映会をやって、トーク…しゃべってもらったんです。それで初めて最初から最後まで、ずっと観てましたけど。
…うーん。まあ変な映画ですね。まぁ1回観てください。さっき見たらアマゾンで売ってました。4千円ぐらいしますけど…、5千円ぐらいするのかな。今、DVDで買えます。これは観てもらうしかないんだけれども、だいたいこの、絵が変ですよね。これ横田さんですけども、裸で、路上で裸になってるという、「何だこれ?」 基本やらせなんですけれども、原さんのね。だから結構これ、脚色というか…、もう入ってるんですが。
でも、例えばその頃、障害者ものであった映画ってどういうものかって言うとですね、例えば松山善蔵という…、知らないと思いますが、『典子は、今』っていうサリドマイドの女の子の映画というのがその後、ですよ。80年代になってから、その映画を撮ったりする人がいますけど。その人がもっと前に撮った『名もなく貧しく美しく』とか、そういう聾者の夫婦がそれこそ名もなく貧しく美しく生きた末に事故で死んじゃったみたいなですね、そういう映画ですよ。そういう「障害者ものっていったら、そういうものだ。」っていう世の中に、こういう映画。それでびっくりするわけですね。
[00:24:56] で、そして、それが本にもなる。…今、ずれてしまいましたけど、この横塚晃一さんという人の『母よ!殺すな』っていうのは、もうタイトル的にズバリですけれども、そういった、いわゆる事件が起こったことを受けて、その時々に書いたものを集めた本なんですね。これは70年代に1回本になって出ています。で、彼は1945年の生まれですけれども、確か。1978年って年に死んでいます。78年というのは、今が2018年ですから、今から40年前ってことになります。びっくりしてしまう。今から40年前に亡くなった人のことを、少なくとも…、少なくない、少ないかもしれないけれども、いくらかの人たちは今でもずっと覚えてる、っていうことが世の中にあるんだっていうことなんですよ。
僕はちなみに79年に東京に出てきましたから、この方には会ったことがありません。亡くなったことも知りませんでした。でも78年に死んだこの人の本を読んで…、これは本当にいい本です。一家に一冊みたいな。「『母よ!殺すな』っていう本が一家に一冊ある世の中ってどうなんだろう。」と思ったりもしますけど、でも一家に一冊ぐらいあってもいいかな、っていうふうに思うんです。78年に…、別に脳性マヒで死んだわけじゃない。脳性マヒで人は死にゃあしない、今どきね、…癌で亡くなりました。
で、この本、ずっと長いこと買えなかったんです。買えなかったんだけれども、横塚さんがいいと思ってきた高橋淳さんという、生活書院…、本屋さんをやってる人ですけれども、福島出身の人です。…が、どうしてもこの本をもう1回みんなに読んでもらいたいということで、2007年に再版しました。で、これが今、出ています。これ背負ってでも持って来たかったんですけれども、ここでものを売っちゃいけないっていうんで、持ってきませんでしたが、僕はそこの解説を書いています。
[00:27:29] で、そういった動きの中で言われてきたことっていうのは、愛される…、愛してはいるけれども、愛ゆえに、というか、時には殺してしまったりもする。そういう存在…、そしてそうやって、愛される、あるいは愛されることを求められ、愛されることを求められる人として、その愛されることによって生きていける私たちである。「そういうことでいいんだろうか?」っていうことが、問われたんだろうと思うんです。
もちろん、もちろんと言うか何ていうか、愛するとか愛されるということはきっといいことですよ。きっといいことなんだけれども、自分が生きてる時に「愛されるから生きてける」っていうことになってしまうとね、「自分は人々に愛されなかったら生きちゃいけない」ってことにもなるわけじゃないですか。そうすると、自分は愛されるということを、人々に求めなきゃいけないし。人々に対して愛らしく、美しく、可愛げに見えるということを、そういう存在になんなきゃいけないってことでもあるし。それに失敗したら生きていけないってことになるし。そして考えてみたら、愛すとか愛されるとかっていうのはいいことみたいだけれども、でも何か、それだから生きていける、それだから生きてていい、ってことになったりしたら、苦しいし、しんどいし、愛されなくなったら捨てられる、死んでしまう。愛されなくなったら、愛する人に捨てられるのはまだ仕方がないにしても、社会から捨てられる、殺される。「そういうことになったら、それでいいのいか?」っていうことを初めて真面目に考えた。そういうことが起こったんだろうと思うわけですよ。
[00:29:47] で、この青い芝の会っていうのは、今言った横塚さんという、『母よ!殺すな』というのを書いた横塚さんという…、43で死んでるんだよね。それからもう僕はもう15年ぐらい長く生きてしまっているんだけれども、やれやれっていう感じがしますが…、この人と。それからさっき映画でこれはラストシーン辺りだと思いますけれども、裸にさせられてというか、路上で座ってる横田弘という人ですけれども。これもずばり障害者(?)っていう。これは2016年に相模原の事件が起こったあの後、売れた。再び売れたというんで、この本を担当した編集者の小林みつこさんという方ですが、「喜んでいいんだか。でも基本悲しいよね。」ということをおっしゃっていましたけれども。まあ、あの時再び売れた本ですけれども。
その横田さんという人は、この人は長生きした。80年生きました。1933年に生まれて2013年に亡くなった。で、彼はそうやって長生きした…、80まで生きたので、僕は、生前彼に3回呼んでもらって3回彼と対談することができたんですね。ある意味ありがたいことだったと思いますけれども。その横田さん…、ちょっと脇道にそれて新しいのは、この2016年に出た『われらは愛と正義を否定する』という、これからちょっと解説する青い芝の綱領の、そのままのタイトルなんですけれども。これが2016年に、やはりさっき紹介した生活書院という、福島から出てきた編集者…、社長さんによってつくられた本になっています。でその、横田さんという人が、勝手に作っちゃった。もとは彼らが勝手に作っちゃって、自分とこの雑誌に勝手に載せちゃったっていうね、すごい叱られたんですけれども、その人が作った青い芝の綱領、「俺たちはこんな感じでやるんだぜ。」みたいな、そういう綱領と呼ばれているものがあります。で、それを今、ちょっと出します。
[00:32:24] はい、これですね。「日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」行動綱領」というやつです。で、今赤い画面出ていると思いますけど、5ヶ条あります。実は最初は4つで、そのうちに「われらは健全者文明を否定する。」というのが加わったというやつなんですけれども。これは何を言ってるのか?
横田さんと話すとですね、「お前はこの綱領をどう思うんだ?」みたいなことを問い詰められてですね、うるさかったんですが(笑)。「もういいよ。」みたいな、感じだったんですけれども。すごい、横田じいさんはこだわりあってですね。「俺がつくった。」 本当に実際そうだった、彼らが考え付いたんですけれども、そういう問答をせざるを得なかったんですが、今日は止めます。
ですけど真ん中に「われらは愛と正義を否定する。」という文言がある。これがすごいひんしゅくをかい、「何だ、こいつらは。」みたいなふうに思われたと同時に、少なくともある人々をつかんだ、という言葉でもあったんですよね。
これはどういうことなのか? つまり色んな解釈ができるわけです。色んな解釈ができるんだけれども、でも一つはさっき、私が言ったことですね。「愛される存在になるように努力しなきゃいけないっていうのが、障害者なのか?」と。「愛されなかったら、愛されることを求めてそれが成功しなかったら、自分たち生きてちゃいけないのか?」と。「そんな愛だったら、愛はいらない。」っていう。そういうことを、そういうふうに言い切っちゃった、という人たちでもあった、そういうふうにも理解できるわけですよ。
[00:34:04] で、これは、かつて福島にいて、郡山養護学校に…、ここにいる人々のかなりの人たちは郡山の関係者だったりすると昨日聞いて、「何だこれは?」と思いましたけども。やっぱり郡山養護学校を出た、安積遊歩というのが…、ご存知の方も、もしかすると直接に知ってる人もいるかもしれませんけど。僕らは彼女と1990年っていう年に…、これも何かわかりやすい年ですけれども。『生の技法』という本を書くんですが、安積さんと一緒に書いたんですけれども。僕はその本をつくる時に、彼女にインタビューしたんですね。8時間ぐらいインタビューして、それで書をつくったんですけど。そこの中に出てきますけど。結局、その、養護学校にいて、その隣接する病院にいて、看護師さんとか医師であるとか、そういう教師であるとかの中にいた時に、あるいはその学校にやってくる見学の小学生とか中学生、といった時に、自分たちがどういうふうに自分てものを示さないといけなかったかというと、「可哀そうね。愛らしくて。」というふうに提示する、自分を示すってことを求められていた。そういうふうにずっと生きてかなきゃいけないか、って思うと、「それって嫌だな。」って思ったけど、どういう…、嫌だと言っていい、ということがわかんなかった。
だけどそれが、70年迎えて、在宅の障害者やってた時に、白石さんとか橋本さんとかが在宅訪問やって来て…、「どっか別のところ行こう。」って。「最初は花見に行った。」って彼女は言ってましたけれども。もうすぐ花咲きますけどね、福島でも。花見大会と言うんですか、福島では。よくわかんないですけど。「花見大会に行った。」と言ってました。「花見って大会かよ。」って思ったんですけど、まあ行ったと。ほんで、「別に愛されなくても」というか、あるいは「自分が何であろうと、どういう存在であろうと、少なくとも、生きてく、ちゃんと世の中で生きてくってことはできていいんだし、存在していいっていうことを主張していいんだ、ってことがリアルにわかった。そのことによって、自分たちは、自分は、ずいぶん楽になった。」ということを、そのインタビューでしゃべって。それはその『生の技法』という本に出てきます。
[00:36:54]
青い芝っていうと、そうやって色んなことに反対し、例えば減刑嘆願運動に反対し、そのあと何が起こったかというと、72年…、減刑嘆願運動反対は70年ですね。それから72年になると、優生保護法の改正というか改悪に反対するんです(?)。これも、今から思うと、その時だったんですね。
ちなみにその優生保護法の話は、今年になってようやくもう1回世間に知らしめられるようになったのは、みなさまもご存知かと思います。つまり、優生保護法という法律の下で…、不良な子孫が生まれるのを防ぐ、という主旨の法ですね。…の下で行われた優生手術、不妊手術ですね。そういったことが行われた。それは優生保護法の下で合法だった手術であれば、優生保護法の下でさえも合法とは言えない手術も、かなりの数おこなわれたわけです。
そして、その実態というものは、長く明らかになってきませんでした。それがようやく今年になって、その手術を受けたという人が提訴に踏み切り、仙台の方で。そのことによってマスメディアが取り上げ、政府も動く、ということになってく、というのはみなさまもご存知だと思います。そういったことがようやく今年になって起こったんだけれども。それは、70年に起こったできごとですね。「優生保護法っていうのは問題があるんだ。よくない法律なんだ。」ということを、あらかじめ、まったく知らないか、それこそ「そんなこともあったかな?」ということさえも忘れているほど忘れている、ていう時期が、その70年から数えれば、40年間続いた。そういうことでもあるわけです。でも、その時に反対して…、でもその70年代の始めの頃については、「あぁそうか。あれって法律っていけない法律なのかな。」っていうふうに初めて思ったことがあったかもしれない。そういうことをするわけです。
優生保護法の…、その時は、改悪についての反対という形でしたけれども運動が起こりました。ちなみに、その、神奈川の人たちが騒ぎだした運動というのは、割と短時間のうちに、まず関西の方に広まります。大阪、兵庫みたいなですね。京都にも和歌山にも、ちっちゃい団体できましたけれども。
そして、その兵庫の方で、その当時ですね、「不幸な子どもの生まれない県民運動」というのを兵庫県がやっていたわけです。で、「不幸な子どもっていうのは誰だ? 俺たちだ」。で、俺たちを要するに産ませないということを県を上げてやろうということで、兵庫の青い芝の人たち、関西の青い芝の人たちっていうのが抗議をするわけです。兵庫県立こども病院なんかが…、県知事が率先して始めた運動に協力する拠点病院みたいなのがあったんですけども、そういったところに抗議に、てことを。このことも言ってみればその前までは、不思議がる人がいなかった。「何か嫌だな。」って思った人はいるかもしれないけど、言葉に出して言う、論理によって言う、政治的に主張するってことは、この時が初めてだったんです。
[00:40:50] ちなみにその、親殺し…、じゃない子殺しですね、…のことにしても、そのことを相模原の事件が起こった後の本にも書いたんですが。70年のちょっと前、62年とか63年とかっていう年には、優しい、愛を持って障害児に接してきた、障害者福祉を前進する、70年の時に減刑嘆願運動をやった親の会の運動に連なるような、そういう動きをつくった人、作家に水上っていう人がいました。彼の娘さんが二分脊髄かな、…の障害児だったっていうことがあって、「障害者福祉ってものを進めよう。」ってことを60年代の前半に主張して、それが政府を動かして、っていうそういうことが起こるんです。で、その人はそういった充分な愛を持ち、ですね、福祉を前進させなきゃいけないってことを政府に訴え、メディアに訴えたんですよ。だけれども、実はその人が、その同じ人が同じ年に、「やっぱり子どもが生まれたら、そのまま生かすかそれとも殺すかということを、これは親は大変だから政府の方で決めてくれ。そういう委員会をつくってくれ。」ということを言った、同じ人でもあるんですよね。このことの意味ってどう考えるか?ってことでもあるんです。そういった、何か、「良くしていかないといけない。」っていうことと同時に、「でもそういうことができなかったら、まぁ殺しても仕方がない。」っていう60年代から、きっぱり、「もう無理やりでも何でも、できなくてもでも生きていかせるんだ。生きてくんだ。」ってことを言った、ってことが70年に起こり、72年に起こるんですね。
[00:42:49] で、そのことによる…、そういうことなんです(?)。ちなみにその、こども病院っていうのは、創立何十周年という記念誌を一昨年つくって、そこにその、名誉病院長という人が「こういう良いことを昔やったんだよ。」っていうことを書いてたもんだから、「そんな良いことったって言えるんですか?」っていうのを去年の末に、私はその学会の学会長として質問状を送り、答えを…、フニャッとした何だかよくわからんない答えでしたけれども…、そういうことがあった(?)。
そういうふうに、70年、72年、それから79年に向けての養護学校義務化の運動、そういったことに「反対、反対、反対」ってふうにしていくわけです。で、僕はそのことによって、「こいつらは何か、『愛と正義を否定する』なんていう過激なことを言い、何か建設的なことは言わず、『反対、反対、反対』って言って、文句ばっかり言ってるやつら」ってふうに言われましたし、実際言われたし。それから各地で、「ああいうものに染まるな。」とかですね、「話を聞くな。」ってことをいっぱい言われた、って話を僕はこのところ各地で、こないだは富山でその話を聞いてきましたし。あの、そういうことがあったんだと。
そういうふうに考えるとですね、何か、批判ってそういう意味で大切なんですよ。大切なんだけれども、何かを生み出すわけじゃないじゃないですか。せいぜい悪くなるのを止める、ぐらいのことしかできなくて。うまくいきゃあ、まあ食い止める、という話になり。でもだいたい相手の敵方の方が力が強いので、負けることの方が多いわけです。そうすると負けるとクシュンとなる、ということで、しんどいですよね。そういう、はね返すとか…、っていう運動は。で、そういうこともあって、「辛いよな。」っていう感じも一方ではあるんだけれども。ただですね、それは確かに一面はそういうことがあったんです。ただ、ここが難しくて、でも面白いところなんだけれども、何かポジティブなこと言ったわけではなくて、何か「否定するものをはね返すということだけを俺たちはやってくんだ。」って言ったところに、実はすごい肯定的なものがあったってとこが面白いんですよね。だから変なようですけど、わかります?
つまりね、「何かいいことがあるから褒めてもらおう。」っていうのって、何か「肯定的なものを自分たちで生み出して、そのことによって自分たちの価値をつくろう、認めてもらおう。」っていう、そういう話じゃないですか。そうじゃないんですよ。「別に、誰であろう、愛されなくても、肯定されなくても、でも自分たちは生きてていいし、生きてくんだ。」っていうことをちゃんと言えた。そうするとですね、「どういうことであっても自分たちは生きてていいんだぞ。」という話になるわけです。ですから、かえって何にも肯定しないことによって、自分たち…、あらゆる人間が肯定される。そういう思想っていうのを生み出したっていうか、提示した、というふうに言えるんですよね。
これは、その、こうやって考えてみると、彼らが言ったことっていうのは、究極的に楽なんですよ。楽しいんですよ。つまり、何であってもいいわけだから。何か褒められるようなことを…、何かができなくても…、「何か褒められるようなことができなくても、でもそれでも構わないんだ。」っていうのは、人間が生きてく上でいっちゃん大事なこと(?)なんですよね。そういう立場というか、ポジションっていうのを提示したという上で、実は、その運動というのは非常に、究極的に肯定的という運動だったということをちゃんと言ってくれたっていうことが、僕はあると思っていて。「何かあいつら文句ばっかり言ってる。」その通りなんだけれども、でもそれが楽しい。それが楽しくはないんだけれども、でもそうやって考えていくと実は一番楽なこと、っていうとこが面白いところなんですね。それはじゃあ何で、そういうことが言えたのか、そして、そういうスタイルの運動ってものが、何だかんだ言って50年、日本の中に引き継がれてきたのかってことを次にちょっと考えてみたいと思います。
[00:47:25]
青い芝の運動っていうのは脳性マヒ者の運動です。これは世界的には非常に変わった現象です。「脳性マヒ」っつっても結構、色々あって。僕はずっと尾上さん脳性マヒって知らなかったんですけれども、20年ぐらい。やがて知るようになったんですが。(笑) あの、「ちょっと見、わかんない。」みたいなね。「ちゃんとしゃべってるよ。」みたいな。あの、「口回ってるよ。」みたいな。「普通の人よりずっと回ってるよ。」みたいな、そういう人もいれば、「白石さん何言ってんのかわからねぇ!」っていう、そういう人もいるし。体の具合も全然、違ってて。そう言う人もいるじゃないですか。でも、まあ、思えちゃって(?)。パラリンピックとかやっててね、「足は確かに動かないかもしんないけど、あとはすごいよ。」みたいなね。そういう感じの障害者ではない。全身性の障害。で、言語障害も色々だけれども、結構きつい。そういう人達ですよね。
で、僕は大学ってとこに勤めていて、この間(かん)、色んな国の…、僕は日本語しかしゃべれないんだけれども、聞こえないんだけれども、でも通訳とかつけてもらって色んなところに行って、お話を聞いたりします。そうするとですね、ある意味、時期的にはちょっと似たとこあるんです。例えばアメリカとか、イギリスとかでもだいたい1970年…、実は日本の方がちょっと早い。日本は1970年でしょ、だいたいアメリカだと72年ぐらいかな、イギリスだと74から5年とかなんで。時期的には日本はちょっと早いんです。でもまぁ大体同じですよ。それはさっきも言った、例えばベトナム戦争というのをアメリカがやってて、「どうなんだ。」と、「だめでしょ。」という運動があってっていうことも、もちろん関係はしています。そういう、世の中の、今起こっているできごと…、公害であったり戦争であったり、そういうことには文句を言わなきゃいけないんだ、批判しなきゃいけないんだ、っていう世界的なその空気、みたいなものの中から運動が出てきたっていう意味では、ドイツでもイギリスでもアメリカでも同じぐらいに運動っていうのは起こっていると。
ただですね、例えばイギリス…、障害学っていうのが始まったのがイギリスだと言われてるんですが、僕はそんなことどうでもいいと思ってるんですけれども。やっぱり頸損、脊損の人たちっていうのが最初にそういうことを、前に出てくるわけです。で、その人たちは、「自分は車いすに乗って、足動かなくって、それで就職できなかったりするけれども、でも車いすで街に行けるようになったら職も得られるし、色んなことができるんだ。」って、そういうこと言いだした。で、それはまったくその通りで、まったく正しいんですよ。
[00:50:33] で、日本の障害者も当然、そういうことを言い。「あ、俺たちとおんなじだな。」ってことを言って、主張して、運動して、「バリアフリーの世の中を。」っていうふうにやってきて、その成果も上がってるわけです。ただし…、それはそれでまったく正しいんだけれども、でも「ちょっとやそっとじゃできるようになんないよな。」っていうところは、あの人たちはあんまり見ない。見ても見えてこない。って言うのは、実際に、ちょっとした工夫で社会復帰をよくする、っていうことによって、「自分は健常者とおんなじぐらいできちゃうんだぞ。」っていうことが実際そうだと。その人たちにとってみれば、それがリアルだったからですよ。
で、大学ぐらい出て、で、ちゃんと言葉もしゃべれて、あとはちょっとした社会環境がよくなれば。もう大学ぐらいまで出ちゃってて、って人たちが…、いや、そういうその学問、そういう運動っていうのと、「いや、何やったってできない奴はいるかも知んないけど、でもだからっつって、そいつらがだめだってことにはなんないんだよね。」っていうことを、そこから始まった運動ってものとは僕は違うと思います。
[00:51:52] そして今日は、どういうふうに、どっちがいいっていう、ややこしい話はしませんけれども、結論だけ言えば後者の、つまり日本の運動の方が立派だったと思います。いいこと言ったと思います。で、それはその、アメリカでもそうですよね。UCB、カリフォルニア大学バークレー校っていうあたりが発祥だって言われてますけれども、何で大学で起こったかっつったら、大学行ってたからですよ。ね? だけどそういう時に日本に大学まで行く、脳性マヒの人なんてのは、まぁいない。そういう違いがあるわけです。
例えば韓国にもDPIってのがあって、障害者運動、盛んです。あそこは結構面白いですね。韓国は今でもっていうか、結構運動派手で、だから僕、好きなんですけど。何かあるとですね、髪剃ったりするんだよね、女の人が。坊主になって、こう抗議したり、それからチェーンをですね、昔、日本にも川崎の駅の前とかでそういうことした人がここら辺にもいたりするんですが、まぁそれはちょっと置いといて。地下鉄の線路を降りて、チェーンで巻きつけてとめたりとか、いうことやってて。それはそれで何か勇ましくて僕は好きなんですけれども。まぁそれはちょっと今はおいといて。
[00:53:29] でもね、そういうことを始めた人たちっていうのはポリオの人たちなんですよ。ポリオってのは日本が1960年代の3、4年生まれぐらいの人からいなくなりますけど、韓国はちょっとだけ遅れるんですよね。64年生まれぐらいの人っていうのが、韓国の運動のリーダーです。その人たちも、やっぱり口は達者だし、手は動くし、足がちょっと、ぐらいな感じで、やっぱり大学ぐらい行くわけですよ。で、大学行って、っていう。そういう、まぁ言ってみれば、「あとちょっとで、足をちょっと動くようになれば、足が動かなくても車いすで動くような街になれば、じゅうぶん健常者と一緒にっていうか、それに伍してやっていけるんだよ。」っていうのが運動を作るってのが、世界的にはマジョリティなんですよ。そういうところからやってきて。で、言われてみればその通りじゃないですか。そういう人に働いてもらえれば、生産性も上がるかも知んないし。いいじゃないですか。そういうことで世界的な…、社会的な認知ってものも容易に得られる。そういうところから始まって続いてるっていうことの方が、理解はされやすいし、メジャーなわけですよ。
[00:54:51] だけれども、日本は、70年っていうのは、そこよりもずっと手前っていうか下っていうか、底っていうか、そういうところから動いていくっていうとこが。それが、ひとつに、障害の程度はさまざまだけれども、でも脳性マヒってものを引きずった人たち、っていうところから始まった、ってことがあります。
何でじゃあそういうことが起こったのか、っていうのは、これは色んなことが言えます。ただですね、ひとつに思うのは、福島では郡山養護学校…、だけじゃないでしょうけども、ありますし。いや昨日、みんなと話していて、意外とそういう養護学校が仲良いとかいうんじゃ全然ないですよ。だけれども、そういったところで、席を、というかな、同じくした人たちの仲介というのかな、繋がりっていうものが、30年経っても40年経ってもあるんだよね、っていうことを聞いて、改めて「ふーん。」と思いましたけれども。
東京にも、それとはだいぶ色彩が違うけれども、まあブランド校ですよね、光明養護学校ってのがあって。そこに脳性マヒの人たち…、そういう人たちは学校出ても職に就けなかったわけです。職に就けない中で、親元で暮らしてたり、生活保護とって暮らしてたりする。まあ、言ってみれば、何もすることがない。手もちゃんとは動かない。でも何か頭は無駄に動いてしまうみたいな。そういう中で、「何しようか。」って時に、うた詠んだりですね。俳句作ったりですね。こないだ花田春兆さんっていう、そういう人たちの大先輩の人が亡くなられましたけれども、そんなことをやってた。『しののめ』という雑誌を作ったりしてですね。
だから、「社会は自分たちに仕事を与えてくんないから、何もすることないから、何しようか。」って時に、「まあ、字を書こう。」っていう。字はたいがいそのまあ、文芸ってところにいくわけだけれども。そうやって字を書いてく、詩を書いてくっていうことの中で、何か自分で考えたことを、こう深めていくとか、文字にしていくってことが、まあ、習い性になっていくわけですよ。
[00:57:20] 横田弘っていうじいさんも、若い時に…、彼はもう学校も行かなかった。まったく不就学で、学校へ行かせてもらえなくて、でも独学で色々学び、そしてそういう脳性マヒの文芸誌の先輩ですね、そういう人たちに混ざって詩を書いたり、なんかしてた。
そういった、何を作り出すっつったって、その、世の中で言われてる生産的なものを作り出すわけじゃないけれども、集まって、文字を紡いで、何か作ってく。っていう、そういうサークル的なもの、っていうのが、実はのちに思想っていうものを生み出す、ことになった。そこの中では、そんなこう、ハッピーになれなくて、「ちょっとやればみんなとおんなじようにできるようになる。」とは、言い切れなくて。でも一方では、それも大切だから言うんだけれども、「それで終わるわけじゃないよね。」っていうところから、自分を見つめるっていう、ことを、文字ってものを介してやってく。そういう、社会が自分に仕事をくれない、ことによって残ってしまった時間の中で、そういうことを考えてく、ってことがあり。で、それは一人で考えるんじゃなくて、何をするってわけでもない、その集まりの中で、そういったことを話してるってことが、あった。日本の場合あった、ってことは結構大きい。
[00:59:03] そうやって関わってみると、今、障害者が、「何か知らんけど、集まってる場所」っていうのはあって、みんな、何か、周りの人は、「何してんだ、あそこ。」みたいな感じでいる。白石さん、何か陶芸とかやって、わけわからないの作ってんだけど、「あれわけわかんないよね。」みたいな感じのものが、まあ作られてきたわけなんです。白石さんたちは、相模原にいる時から陶芸とかやってたそうです。「何だ?」っていう話ですけども。そういう、何だかわからないものを、でも、何か一緒にやるっていう中で、世間と違うスタンスみたいなものを作ってく、っていうことができたっていうのが、ひとつ素地になって。そこの中で、自分ってものを簡単にポジティブに言わない。だけど、そのことによって逆にポジティブに生きていける、みたいなことが言えたっていうのがあったんです。
そしてそれは、「ちょっとやれる、環境が整えばすごくやれるようになる。」っていう、そういう肯定感じゃなくて、「それだけ積んでも、そんなによくなんない人もいるよね。」と。でも、「そういう人もいる、ってとこから、運動、思想っていうものを積んでいかないと、本当は隅々までは救われないんだよね。」っていう、そういうとこが。
この「一番だめな奴でも救われなきゃいけない。」っていう思想っていうのは、ある意味何か宗教的なところだとも言えるわけで、実際その、横塚さんっていうのは、60年代に「大(仏)空」って書いて、「おさらぎ(あきら)」って読ませるんですけれども、そういう変な坊主がいてですね。茨城県にあったんですが、そっちにしばらく山籠りしていて、何か今から言うとカルトみたいなね。怪しい感じの共同生活をして、それにも疲れ果てて戻ってくるわけですけれども。そこの中で般若心経とかってですね、やっぱり読まされた、らしいです。やっぱり「悪人正機」。「悪い奴でもだめな奴でも救われなきゃいけない」っていう。それはね、でも、ほんとに究極的に正しいというか。一番そのとこから組み立てて、それでだんだん、だんだん、具体的なところにしていくっていう。
そういうところも一番もとのところを考えてみれば、一番確固とした、もうこれ以上そこは何もない、底を作ってきたというふうに言えば、僕はその70年って時に、青い芝って…。これは一つの呼称でね、実際に青い芝に関係なかった人たちもいるし、色んな人たちがいたわけですよ。ですから、「そんなに青い芝、偉いか?」っつったら、「そんなでもないな。」って僕は思ってるんだけれども、でも、そういう名前に代表されるというか、仮託されるというか、そういうことが起こったんだろうなというふうに思います。
[01:02:06]
さて、それで、今も出てますね。「強烈な自己主張を行う。」とか「自覚する。」とか、何か…。その、横田さんに、「脳性マヒ者であることを自覚するって、どうなんだ?」とか言われて(笑)、「俺脳性マヒ者じゃないしな。」とか思ってですね(笑)、横田さんに割と厳しく言ったことを覚えていますが。
えーと、どれいきましょうか。最後のやつですね。「われらは問題解決の路を選ばない。」っていうのがあります。これ、「問題解決の路を選ばない」ってのは、これはどういうことかっていうと、どんな手段でもやるってそういう話をしてるわけじゃないんです。それはテロです。ね? 「目的達成のためには問題解決の手段を選ばない。」って、これはテロなんで。
そういうことを言ってるんじゃなくて、「問題を解決しましょう。」っていうふうに、少なくとも簡単には言わ…、言ってほしくないのね。そういうこと言ってるんですね。だから、「みなさん、お困りでしょう。お困りでしょう。じゃ何しましょうか?」っていう時に、「はい、在宅と施設があります。どっちの方がいいですか? …じゃこっちいきましょう。」っていうふうにして、何か簡単に答えを見つけて。あるいは簡単に、「これ。答えはこれしかないよね。」っていうことにして、「さぁどっちの道を選ぶんですか?」っていうことを言われたら、俺たちむかつくぜ、ってことを言ってるんですよね。
で、これは正しい、と言わざるを得ないと私は思います。ただ、そう言って、何か、わざとと言うか、前向きなことを言わずに、批判、批判でやってく。それは今から考えると…、さっき言いましたけど、かえってそうやってやせ我慢することによって、逆にすごいポジティブなものを打ち出したんだ、っていう意味で言えば、今から考えると「お、スゲーな。」と言えると思いますけど。ただですね、そうやって生きてる分には、やっぱりしんどいですよ。だって実際、じゅうぶんに生活はしんどいわけで…、困るわけですよ。そういったときに、批判ばっかりしてっつったって、批判して飯は食えないわけで。そこん中でどうしていくのか、ってところから、次の何十年ってのが始まるわけですよ。
[01:04:31] で、次の何十年っていう間に、人々が何を考え、何をしてきたのか、っていうことの方が、実際…、実を言うと私の方の本業で。「どういう道を進むのか? だから、解決の道を選ばないって、そりゃいいけどさ、でもやっぱりどの道行くの?」っていうことを。でも、その、「お仕着せの、お定まりの道じゃなくて、何かもっと別の道がほんと、あるはずだよね。」ってところから考える、っていうことを、僕はこの70年のこの綱領を引き継いだ人たちは…、だから既存の道を、定められた道を選ばされるんじゃなくて、色々考えて、「この道がベストだ。少なくともベターだ。」っていうことを考え、考えてきたのが日本の障害者運動の70年以降の数十年だったと思います。 で、その時期になると、運動は、青い芝をある種、下敷きにしつつ、また違うスタイルの運動にこう、引き継がれていくわけですね。そうすると青い芝はだんだん、何か老人クラブみたいになってって(笑)。「若い人いないよね。」とか言って。実際いないんですけど。少ないですけど、少なくとも。そういうことになってくんだけれども、じゃそれは、全体が衰弱していったのか?
そうではなくて、そういったものをひとつの、こう、下敷きにしつつ、「まあ、俺たちは、でも問題解決するよ。」みたいなね。そういうノリの、「じゃどういうアイデアがいいのかな。」っていうことを考えた人たちっていうのが、70年を越えて、80年、90年、そして2000年を越えて出てきてやってきたっていうのが、長い長い歴史の…、今日これまでしゃべったのはほんの始まりの数年の部分なので。
[01:06:34] そのあとの40年っていうのは、「問題解決の路を選ばない」って言われて、「うん、うん。」って一瞬思った、次に、「でも、じゃどうやって問題を設定し、問題を解決とまでは言わないけれども、マシにしていくのか。」ってことをですね、その、考えていくっていう、そういうこう、流れだったわけです。
それは80年代に入って、まぁというか、自立生活センター、CILっていうのものを作り。そして全国組織として、70年代から全障連っていう組織などもあったわけだけれども、そういったものも引き続きながら、「でもちょっとスタイル違うかな?」って形で、DPI日本会議であるとかですね。JDとかJDFとか色々ありますけれども、そういうアルファベットで、みたいな(?)、そういった組織ができてきて引き継がれていった。
それがじゃあ、どういうことをやろうとしているのか、何考えてるのかってことが午後、尾上さんであるとか、その他、若い人、っていう(?)人も含めて、お話ししてくれると思うから、ここでは…。
ただ、僕は、そうやって色んな、具体的な、現実的な、どうやって生活マシにしていくのか、っていう工夫。工夫が積み重なれる素地に、さっき言ったその70年代の定義っていうものがあったってことは良かったと思います。そういう下地がなくて、何か「どんどんやってけば、健常者に近づけて、イコールになれるんだ。」みたいなところだけでやってたら、そんなに、こう実は、何かハッピーそうだけれども、実はそんなにハッピーじゃない。だってそこには必ず残される人がいるわけだから。ね。
[01:08:28] で、それはほんとに具体的に、そうで。さっきちょっとだけ外国の障害者運動の話、しましたけれども。例えばスウェーデンとかさ、ノルウェーだとか、何か、「障害者福祉とかが進んでて立派な国だ。」ってことになってるわけですよ。で、それはある意味ほんとなんです。別にその差別…、否定、批判したいわけじゃない。だけれども、他方で…、他方でっていうか、だから「健全な障害者」って言ったらいいのかな、何かそういう人が、よく生きていけるっていうのは事実、その通りです。でも例えば、認知症の高齢者になったりとか、ほんとに体動けない高齢者になったりとか、あるいは難病にかかったりとか、っていう人たちが、ああいった…。
例えばそのイギリス…、こないだホーキング死にましたけど、こないだです。つい数日前ですね。私は、一昨日知りましたけど。ホーキング、ALSっていう神経性の難病にかかって、こないだ、つい数日死にましたけど。あの人は珍しいです。あの人は進行が遅かって、ALSにしたら進行が遅かったこともありますけれども、それだけじゃなくて、あそこまで有名人なるとですね、ちゃんと寄付を募って、その寄付であの人は介護者雇って暮らせたわけです。ですから何だかんだ言って、いくつで死んだか知りませんが、生きていられたんです。
ですけど、あそこまで有名人じゃない人、あたりまえですよね。イギリスの中で、ALSで、世の中に知られてる人ってあの人一人だけです。それ以外の人は、彼ほど有名人じゃない。その人たちはどうしてるか、っていうと有名じゃないから寄付も集められない。で、どうしてるかっていうと、呼吸器つける前に、自然死、尊厳死、安楽死っていうことになってく。その比率っていうのは、日本とイギリス、北欧の諸国と全然違いますよ。
それはですね、何だかんだ言って、その、始まりのところでっていうかベースのところで、「どんなになっても生きてくことはできるようにしなきゃだめだぜ。」っていうベースというか素地ってものを持ってた、っていう運動。をもとに、その運動やってきて、介護なら介護についての政策を勝ちとって作ってきたところと、そうでないところとの違いっていうのはそういうところに出ているんじゃないかと思います。
[01:11:04] で、そういうふうに、それを持ちながら現実を組み立てていくときに、今も言いましたけど、さぁ、ね、例えば70年代の運動という中では、何か「みんな仲良くなって、わかり合って、ボランティアでこう生きてくのは本当は一番いいんだよ。でもしょうがない人間は。だから、だめだから、で、もうお金で動かすしかないんだよね」的な、何かそういうものがあって、それから外れていくっていうのが、運動としては、何かだめになっていくってことなんじゃないか、みたいなことがあったと思うんですけど。例えば、そういう問いをどう答えるか、っていうのが、やっぱり70年代の運動を引き継いだ、80年代、90年代の運動の形の考えどころだったと思うんですよね。で、それは僕は答えを出したと思うんです。
それ、さっきホーキングの例を出しましたけれども、そうやって有名で、愛されて、慕われて、そういう人は寄付を集めて善意を集めて生きてくことはできるかもしれない。でも、「目立たなくて普通で平凡で、愛らしくもなくて、ただのおじさんで、みたいな人は生きてけないっておかしいんじゃないか?」って言ったときに、実は愛されなくても、どんな人であっても生きていける、ってことを考えるためには、好かれなくても、人々が「あの人嫌い」でも、嫌いな人も、その人が生きてくための義務を果たさなきゃいけない、っていうのが、実は正しい答えの引き継ぎ方、思想の引き継ぎ方なんじゃないか、っていうふうに考えるってことだと思うんですよね。
で、その、「嫌いな奴だって、その嫌いな奴を生きさせなきゃいけないっていうことを、じゃあ実現するためにはどうするのか?」っていうと、そいつは嫌いなんだからそういう人に介護を、そういう嫌いな奴が嫌いな相手の介護したらどうせろくなことにはなんないから、介護したりする人自身は、ちゃんとその仕事が好きで、できる人じゃなきゃいけない。だけど…、「嫌いなやつはもういい。やんなくていいってことにしてもいい。でもそいつらほっといたら結局、そいつらはその人を生きさせるっていう義務を果たさないで、ただサボってるだけだろう。それじゃだめだ。じゃどうするんだ?」ってときに、税金を払う、保険料を払う、金をちゃんと払って、誰でも生きていけるような条件っていうものを作るってことを、そういう義務を果たさなきゃいけないっていう道筋が僕は答えだと思います。
それが70年代、80年代を…、70年のベースっていうものを、社会の中でどう実現するか、っていうことを考えて考えて、出した答えっていうのが、別にそれだったら、しんどいからっていうだけじゃなくて、それが本筋でしょう、と。愛されなくても生きていけるために、愛さない人間にも義務を負わせる。それはどういうやり方かっていったら、金を持ってる奴が金を払うってのが、義務。確かに(?)。そのことによって初めて、その、現実に、言葉とか思想とかそういうんじゃなくて、人が現実に生きていけるっていう社会ができるんだっていう、そういう道筋をですね、作っていった。で、「そのための金を、社会から税金として集めたその金で俺たちは仕事してるんだ。自立生活センターっていうものを作って運営して、仕事してくんだ。」っていうふうになってきた。僕はこれはその、ちゃんとした受け継ぎ方、バトンの受け継ぎ方だったと思うんですよ。多少、強引かもしれませんけど、僕はそう思ってます。
[01:15:00] 確かに、そのCILってものを作った、中西正司ってのがいますけれども。彼は今になって、何か「青い芝」とかたまに言いますけど。僕は80年代から彼をよく知っているので、ちゃんと知ってますけど、彼は絶対80年代後半に青い芝知りませんでした。で、全然違うところから、 CIL、JILとか立ち上げた人ですけれども、でも、同輩である横山さんとかね、そういう、後輩とか同輩とかに色々、あとで教わって、まあ、今は「知ってる。」と言ってますけど。でも中西さんは知らなくっても、やっぱりそういう思想っていうものをどういう形で現実にこう作っていくのか、っていう意味で言えば、僕はちゃんとそこで、バトンっていうものは受け継がれたし、受け継がれているっていうふうに僕は考えていますね。 [01:15:56] さて、時間があと…、規定通りで40分で終わりたいと思いますけれども。じゃそういった中で、これからどういう未来とかがあり得るんだろうかってことを強引にしゃべってみたいと思います。
先ほど、「もし皆さんの生活っていうのが、その先輩方の色んなその運動によってマシになったとしたら、それは素直に喜ばなきゃいけない。『俺は楽できてんだ。やった!』って思わなきゃいけない、思っていいんだ。」って言いました。「『それで、楽ができているんだ。』と、じいさんに言われたら、『俺は楽できていいんだ。』って、返せばいいんだ。」と言いましたけども。ただね、やっぱりそうやって時間ができたら、余裕ができたら、自分たちの仲間のためのことをするっていうのは、いいことだし、素朴にいいことだし、そして楽しいことだと思うんですよ。ってことが、ひとつあるんです。
で、じゃその、70年に始まった「脱家族」とかね、「親は、俺、殺すかも知んない。殺さない良い親でも、でも親から離れても生きてけるんだ。」と。それから今日お話しませんでしたけれども、同じ70年に始まったその脱施設の動きですね。これ府中療育センターっていうセンターの処遇があまりに悪かったんで、怒った人たちが70年に始めた運動です。これは実は青い芝あんまり関わってないですけれども。そこから脱家族、脱施設の運動ってのが始まるわけですが。その動きっていうものがですね、「そういう一番ベースの施設、家族ってのをどう捉えるんだ。」ってこと言っても、「いや、世の中よくなって、平和になって、それで動く必要もなくなって、何か、だからだめなんだよ。」っていうような世の中があるのか、っていうことです。
[01:17:53] もう相模原の話は、みなさんご存知ですからもう言いません。あとで午後の時間に誰か言うかも知んないけど、言いませんけれども。この間(かん)、僕は国立療養所っていう、元はと言えばですね、戦後、結核の人たちを何十万人て受け入れた病院があります。その病院はですね、国立療養所っていうものですけれども、1950年代になって、結核の人たちが激減していく中で減ってきます。減っていったときに、無事に消滅していったかというと、そうじゃなかったわけです。
これは精神病院も同じでね。精神病院ガーッとできて20何万人って人たちを収容できるようになって、減らすことができるようになっても減らなかった、っていうのは、それは色んな理由があるんだけれども、「いっぺんできちゃったものを減らしたくない。」っていうのは経営側の利害としてやっぱり当然あるんですよね。
そうした中で、1960年代、先ほど申し上げた、その、「福祉が進んだ。」って言われる時代です。その水上勉っていうような人たちが言い、総理大臣が「よっしゃわかった。」って、池田勇人であるとかですね、その後の田中角栄であるとか、そういった人たちが、「じゃあ、よし、かわいそうだよな。作ってやるよ。」って作ってくれた、そういう時代の中で、新たに収容されていった人たちがいる。それは一つには重度心身障害児。重心って言われる人たちですね。それからもうひとつは筋ジストロフィーです。それを今ちょっと調べていて、雑誌にものを書いたりしてるんですけれども。 [01:19:43] かつてその筋ジストロフィーの人たちっていうのは、二十歳くらいで亡くなってました。それがやがて30ぐらいまで生きられるようになって、80年代になると。ちょうどその頃、80年代半ばぐらいに20代で病院を出た人が、わずか、自分たちで地域での生活を始めるってことがあり。だけれども20代後半に倒れる、亡くなるってようなことが80年代ちょっと起こって。たぶんそれ、誰も覚えてないだろうなっていう…、それは悔しいよね。今も、書いてるんですけれども。
[01:20:17] それはでも、非常に例外的なことで、1960年代から収容が始まるんですが60年代から70年代にかけて、小学校上がる頃にその病院に入った人が、今40代とかになっています。そういう人たちが万の単位でいるわけですよ。それが日本という国です。精神病院に何十万って人たちがいるわけです。
っていう意味でいえば、僕はね、家族と一緒に暮らしたい奴は家族と一緒に暮らせばいいと思うし、「この施設がいい。」って本当に思うんだったら全然そこに居続けてもいい、っていうふうに思ってる人間です。ですけれども、「出られれば出たい。決してここはいいとこだと思っていない。」っていう人たちが、万の単位でまだいるよ、っていうのがこの国の状況なんですよね。だとすれば、それはできるでしょうと。若干自分の生活が楽になって、余裕ができるんであれば、今、そうやっている何十万、足す何万っていう人たちと一緒にやることもできるかもしれない。
[01:21:30] 実は今日、金沢で…、僕が今日ここでしゃべってますから、話せ…、行くつもり…、行かなかったんだけれども、金沢市で、古込さんっていう、輪島の出身、石川県ですね。それで金沢の医王病院って病院に6歳で入って、45までいた人が、去年初めて金沢で重度訪問の制度を勝ちとって、それとともに病院から出ることができたんです。それに関係するシンポジウムを私の知り合い含めて、今、ちょうど金沢のこの時間にやってるはずなんですが、そういうことがありました。それは、そういうことがあると朝日新聞に載ったり、テレビに出たりするぐらいレアなんです。というのが今の状況です。そういうことを考えたときに、まだやること、やっていいこと、やって楽しいことっていうのはあるぞ、っていうのが、まあひとつです。
[01:22:33] それから、もうひとつ、地域支援。既にですね、地域の中で活動してる…、例えばILの、ここの組織にしてもそうですけれども、それが今、じゃあどういうこと考えてるのか、っていう。介護保障に関して言えば、その重度訪問に繋がるような制度を30年、40年かけて何とかして埋めていって、でも去年まで金沢、石川県にはなかった。でも石川県が、ようやく最後の県が潰れたってことは、全国各地できるようになったってとこまできました。
じゃその一方で今みなさん、経験してるように、「そっちはそっちでそこそこできるようになったけど、そっちだけが忙しくて、言ってみればそっちだけに水揚げがあって、忙しくなって金は入るようになったけれども、俺たちの本業はこっちだけじゃないよな、少なくとも。」っていうのが、今の状況なんじゃないですか。じゃそこをじゃどうしていくのかって具体的な課題みたいなものがあるでしょう。
いわゆる相談支援ってのをどういう形で組んでいくのか、ってことですよ。これははっきり言って、ろくな制度になっていないわけですよ。今の状況っていうのは。それはなぜなのか、っていうふうに考えてくっていうのが、その介護保障ってことに、その地域間、地域差はあるし、バラバラではあるけれども一定の道筋はつけられた段階で。今、作っていくっていうことってのは、そこをどういうふうにやってくか。これはですね、役所もそんなに悪気があってというか、悪意があってというか、あんな変な制度作ったんじゃ、たぶんないと思うんです。あの人たちはあの人たちで、頭は机上の空論というか、頭で色々考えて、「まあこんなとこでしょう。」ってみたいな感じで作ったんだろうと思うんですよ。だけど、実際やってみたら、使えないっていう話ですよね。で、「それをどうするんだ。」っていう。 [01:24:23] ここを、今日は、青い芝の昔話をするのが僕の使命なので、その話は細々(こまごま)としませんけれども、僕はひとつは簡単だと思うんです。
今、1件、書類1通いくらみたいな、そういう勘定でやってるわけじゃないですか。それを役所側からすれば、何か「よくわからない活動っていうものに、どんぶり勘定で金は今どき出せません。ですから書類1個、1万5千円とかね、ひと月1件いくらとかって、そういうふうにせざるを得ないんです。それが透明性なんです。アカウンタビリティーなんです。えーと、コーポレート・ガバナンス、(?)何とかです。」ってそういう、こう世の中の、流れに押されて、そういうこう…、ふうになってきている。
じゃそれでどうやって対抗(?)するか、って言ったときに、やっぱりその1事業所、1千万円とかね、そういうどんぶり勘定は確かにまあ通用しないかもしれない。だけれども、考えてご覧なさいよ。介助っていうのは、どういうふうにやってきたか。基本、「時間あたりで金出せ。」っていうことを実はずっと言ってきて、それで通ってきたわけでしょう。で、今はそうじゃないわけですよ。相談支援っていうのも、一人15分で終わる人もいれば、1年かかる人もいるわけですよ。それが1件あたり同じ金額になってるんですよね。「そういうのっておかしいよ。」というふうに、ただ言えばいい。で、「手間がかかんないんだったらかかんないで結構なことだ。手間がかかんないだったら金もかかんないし、それはそれでいい。だけど手間かかる人もいる。手間かかるの、いいことじゃないかも知んないけど、悪いことじゃない。仕方がない。」
[01:25:56] 「仕方がない」っていうのが、今日の話の肝ですよ。「仕方がない」ってことをどう引き取るのか。「仕方がない」ってことは何にもしないってことじゃなくて、「しなきゃいけない、せざるを得ないことをする。」ってことなんですよね。だとすれば、簡単にできちゃう、簡単にできるようになっちゃう人は、早めにすごろく上がってもらってね、立派に暮らせるようになってもらって、そうじゃなくてずっと手間がかかる人はずっと手間かけて。でもずっと手間かかった、その1時間1時間に、時間あたりのお金をちゃんとかけてもらえばいい。介護派遣とおんなじように、それ以外の相談支援であるとか、そういった活動に関しても、「かかる人にはかかるように出せよ。」っていうことをちゃんとやってくっていうのが、今、色んな組織が抱えてる問題に対する一つの提示ではないかと私は思います。
[01:26:55]
ということで、今だいたい、2、3分、所定の時間…、つっても、一応15分ぐらい遅く始まったので、ちゃんと時間を守って、ちゃんとしゃべれるんですが、そういう時間になってきました。
今日、何の話をしたのか。まず、「結構すごいことを言った人はいるんだよ。」っていうことを言いたかったんですね。僕はそういう人たちには成り代わることはできないので、そういう人たちが書いたもの、こういうもの、こういうもんが…、そういうことをお知らせしました。その中で、かろうじて僕が話ができた人からこういう話を聞いたとかっていう話をしました。
そしてじゃあ、その話の内実、どういうことをどこから話を組み立てていったのか、主張していったのかっていう話をしました。
そして、そうした「否定し、批判する運動ってものと、今、事業とか、そういう形でやってる運動ってのは、切れてる。」っていうふうに言われたりすることもあるんだけれども、私はそうは思わない。それをちゃんと考えて引き継いで、今までのところをやってきた、っていう中に、今現在の事業があるんだ、っていうお話をしました。
ただ、そこの中で、まだ残っている、つまり本来、一人一人の生活を介護(変えよう?)っていう形ではなくて、支えながら生きてくというところに対する制度、政策っていうものが全然、一人一人のめちゃくちゃ違う状態に即してやる、というふうになっていなんだ、というところが…、は、ひとつ残っている。
そこはこれから言っていったり、変えてったりすることはできるだろうし、もうひとつ、そういったところから、完全にというか、取り残されて、見えなくなってるところに何十万人っていう人がいる。そこの中から何十万人をいっぺんに救う、なんて頑張らなくたっていい。「何か、ちょっとここ嫌なんだけど。」って人がいたら、あるいは「そういう気分じゃないですか?」っていうところから、変えてくっていうこともできる。
そういう、こう、引き継ぎ方があるし、そしてそういうことに自分が全身全霊で、あるいは、ちょっとの手間をかけて関わっていくってことは、いいことでもあるし、そしてたぶん、普通に楽しい。そこの中で、色んな人と一緒にやってく、考えたり、しゃべったり、飲んだり食ったりしてやってくってことは、きっと楽しいことでもある。
そういう、こう、楽しくなっていくであろう、ものを、70年からの運動ってものが作ってきて今があるんだっていうふうに思う。
あるいは、ちょっと無駄に楽観的になっている部分があって、思おうとしてるっていう部分もあるんですけれども。でも、「こうも言えなくはない。」と僕は確かに思ってるので、まあ言うだけ言って、ここで、一旦話を終わらせていただきます。
ということで今、46分かなんかだと思いますけども、ご清聴だったと思います。どうもありがとうございました。
(拍手)
司会 立岩さまありがとうございました。みなさま改めまして、立岩さまへ拍手をお願いいたします。
(拍手)
司会 それでは、午前の部は終了となりますので、ここで諸連絡をさせていただきます。午後の部は13時からとなりますので、会場を出られる方は13時までにお戻りいただきますようお願いいたします。
――以下、当日配布資料――
※以下、いただいた題を忘れていたこともあり、福島に関係する記述をいくつか。(福島)青い芝の会も少し出てはきます。HPではいろいろと紹介しています。私の頁(http://www.arsvi.com/ts/0.htm)の2018/03/17あるいは「青い芝の会の思想と出会って」で検索すると、この文書と同じ頁が出てきます。表紙写真等からいろいろな情報頁にリンクされているのでご覧ください。以下、まず冒頭でそれまでに書いたものを並べて紹介している2015年の文章。その後、2011年のもの2つ、2012年のもの1つから、一部。… というのもなんなので、
白石清春さんについてのこちらの頁
をさらにつけていただくことにしました。
◆2015/11/01 「田舎はなくなるまで田舎は生き延びる」
天田城介・渡辺克典編
『大震災の生存学』
,青弓社,224p. pp.188-211
□これまで
震災について様々がなされ書かれてきたし、これからも書かれるべきだし、書かれるだろう。他方私自身はなにごともできたわけではないが、いくつかの短文を書いてはきた。そこに記したことをまず簡単に紹介しておく。すべてウェブ上で読めるので、興味があったら読んでいただければと思う。次にそれがこの文章の本体ということになるのだが、金の使い方について、とくに「田舎」のことを念頭に置いてすこし考えてみようと思う。災害がなくてもまたあっても、何にどのように金を使うのか、そうしたまったく基本的なことが問われていると私は考えている。
ごく短いものを別に書いたものは四つある。「考えなくてもいくらでもすることはあるしたまには考えた方がよいこともある」([2011a]、以下拙文について筆者名略)、「まともな逃亡生活を支援することを支持する」([2011b])、「後ろに付いて拾っていくこと+すこし――震災と障害者病者関連・中間報告」([2012a])、「災厄に向う――本人たち・後方から」([2013])である。ウェブにあるから繰り返す必要はないが、簡単に紹介しておく。
私たちがあの地震の後に始めたのは(とくに病気や障害のある人に関わる)情報を集めてHPに掲載し、それをまた紹介するといったことだった。震災において、また震災に対して、情報を集めるぐらいのことはしたいと考えていることは書いてきた。いくらかのことはした(してもらった)が、なかなか続かない。その紹介の紹介は以上のいずれでもしている。また他(「生存学研究センター」のメールマガジン等)でもしている。(その他こちらで行なったことについては別章で紹介されている。)
そしてそれらとも関わって、現地で障害者・病者がどのようであった/あるのか、またどのように行動を起こし、続けているのかについても少し書いた。東北で/東北に向けて、活動をしている人たち、それを支援している人たちには、それぞれの過去があり、過去からのつながりがある。それは、この約五〇年近くの、さらに阪神淡路震災後の障害者運動の継承・展開によって支えられているところがある。関西からも人が行き、阪神淡路震災を契機に立ち上がった金を集め配るところ(「ゆめ風基金」)が一定の役割を果たしている。これらについて[2011a][2011a]で少し、[2012a]では紙数が与えられたのである程度細かに書いて、[2013]でも短く繰り返した。そしてそこでは、これは本章の「本体」にも関わることだが、こんな時であってもあるいはそんな時であるからこそ、必要な助けを得て住みたいところに住めることが主張されていること、そのためにその人たちが動いていることを紹介した。
加えて[2011a]では、「近さ」「悲惨」からものを言っていく考えていくことについて、それはまことにもっともなことではあるが、その難点・限界についても思ってみることが必要だと述べた。それは私がずっと言っていることの繰り返しでもある。私が最初の(そして最後の)まともな調査をしたとき(それが安積他[1990][2012]になった)に感じたことでもあった。誰かと「友達」にならなければ、何かを、たとえば悲惨さやあるいは魅力を、与え示さないことには生きられないのはおかしいと、家を出て施設にも入らずに暮らす障害者たち言われて、それはもっともだと思った。このことも本章の本体に関わっている。
また[2011b]――精神医療関連の雑誌や本を出している出版社の刊行物に掲載された――では心理面での支援をまったく肯定しつつ、しかしその支援をしている人たち自身がよくわかっているように、その上で実際に実現されねばならないことがある、でなければいつものようにその支援は「アリバイ」としてしか機能しないという当たり前のことを述べた。
そして[2011a][2013]では――後者は日本学術会議の雑誌に掲載された――では、たしかにこの国でもなくはなかった科学論・科学批判についての検証がなされるべきだと述べた。例えばある国立大学の大学院で関連の企画に呼ばれて話をしたおり、高木仁三郎といった人の名を知らない人の割合が大変高くていくらか驚いたといったこともあった。
こうしたものを書いたが、私自身がそれから何かできているわけでもない。被災の前後に人々が何を経験してきたのか。人々にどのような対応がなされたのか、具体的には、在宅や施設で生活してきた人たちのなかに住む場を変えざるをえなかった人たち、変えさせられた人たちがいる。仮設住宅に住む人の境遇はどうか。その手前で、どのような経緯で、どこに行ったのか。すくなくともかなり長い間、その消息がつかめなかった人たちがおり、状況があった。役所の個人情報についてのきまりがその理由にされもした。そうしたことごとについて土屋葉たちが調査している。その報告がその都度なされていくだろう。
ここでは現場を知らない者が大まかなことを書く。そしてとくに「田舎」の「平時」を念頭に置く。まず私は二〇一一年に起こったことがなにか時を画するようなできごとだとは考えていない。もちろん特別の事態への特別の対応は必要だが、それを一部を含みながら、普通の社会のあり方を考える必要があると思う。そして田舎について。もちろん本書が主題とする問題の全体が田舎の問題であるとまったく考えてはいない。ただそれでも、田舎にかなり長く、生まれてから十八年はいた者としても、考えてみてよいように思った。
言いたいことは単純なことだ。いくらかの人たちはとどまろうと願ったり今さら動くことも考えられない。そうしてとどまっている。移動することができるとともに、その場で生活できるようにすること、普通にその地にとどまれるための工夫はいろいろとあると思う。それをどのようにして行なうのか。人を手伝う仕事をもっとまじめにやったらよい。そしてそうした仕事に就いて暮らせるようにしたらよい。それを基幹産業としたらよい。このことを述べる。単純な話だがそれをきちんと言うには、多くの人があまり理屈としては考えたことのないことがいろいろとある。その幾つかも示せればと思う。
□基本的な見立て
田舎の人たちは(都会もそうだが、比べればより早く)減っていく。私はそれをどうしても止めねばならないとは思わない。いくらかの産業がそこで営まれること、また新たに営まれる可能性はある。そしてそれはけっこうなことだと思う。しかしそれはどこででも起こることではない。[…]
□受け取りについて
その上で、考えるべき全体のなかで各人の受け取りだけを見ることにしよう。それは三つに分けられることを述べてきた。(1)基本的な所得と、(2)個別の事情に応じた加算と、(3)労働という労苦に応じた支給である。このうち(1)と(2)との区別がまったく便宜的なものであり、そのことを間違えてならないことを繰り返してきたのだが(立岩他[2012:37ff.]他)、ここでもそれを繰り返したうえで分けることにする。そしてこれら、所得保障・所謂社会サービスと労働(による収入)との兼ね合いについて、ごく基本的なことは別に記した(立岩他[2009:24-28]立岩他[2010:16-22])。
(1)について。[…]
□土地に関わる権利と追加費用のこと
(1)所得保障は個別給付で現金給付というかたちが基本的にとられる。次に(2)人の身体とそれが置かれている状況に関わる経費がある。これまで私は身体に関わる差異に関わって必要になる部分を論じてきた。その人が住まう土地に関わる部分についてはわずかしか述べてこなかった。そして一般にもあまり論じられることがなかったと思う。[…]
□人を世話する仕事のこと
そして次に右記したこととまったく別のことと考える必要もないのだが、人の世話をする人が必要であり、その人たちが日々の暮らしを手伝うことをすればよいということになる。
するとまず一つ、人手不足であるというお話があるが、それはまちがっている。[…]
□ボランティアについて
併せてボランティアについて確認しておく。ボランティアはけっこうなことだが、すこし距離感をもって考えると、それは緊急時に適したかたちである。[…]
□産業であること
(2)身体とその身体がある限り具体的なものであるしかない土地に関わって必要になるものについて、それがそのまま(3)仕事になるようにすればよいと述べた。それは「公費」
を使ってなされる。
それは他にも比して有効な公共事業であると、言いたい人は言える。[…]
□誰がどうして抵抗するのか
にもかかわらずそれが支持されないとすればなぜか。[…]
□文献
安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店
安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 2012 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版
河出書房新社編集部 編 2011 『思想としての3.11』,河出書房新社
―――― 2011a 「考えなくてもいくらでもすることはあるしたまには考えた方がよいこともある」,河出書房新社編集部編[2011:106-120]
―――― 2011b 「まともな逃亡生活を支援することを支持する」,『別冊Niche』3:61-70
―――― 2012a 「後ろに付いて拾っていくこと+すこし――震災と障害者病者関連・中間報告」,『福祉社会学研究』09:81-96(福祉社会学会)
―――― 2013 「災厄に向う――本人たち・後方から」、『学術の動向』18-11:19-26(日本学術会議)
―――― 2014 『自閉症連続体の時代』、みすず書房
立岩真也・堀田義太郎 2012 『差異と平等――障害とケア/有償と無償』、青土社
立岩真也・村上潔 2011 『家族性分業論前哨』
立岩真也・村上慎司・橋口昌治 2009 『税を直す』,青土社
立岩真也・齊藤拓 2010 『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』、青土社
◆2011/06/30
「考えなくてもいくらでもすることはあるしたまには考えた方がよいこともある」
河出書房新社編集部編
『思想としての3.11』
,河出書房新社,pp.106-120
□広告
[…]
たしかに私はものを考えるのが研究者の仕事だと思っている。だが同時に、あるいは、べつに考えたりしなくてもよいから、現場で日々体力と知力を消耗し、自分たちがやっていることも含めて、集めたり知らせたりする仕事などできない、そんなことをするより別のことをする、せざるをえない、するべきである人たちがいる時、そのうしろ・裏で、その人たちのやっていること等々を拾って集めて知らせる仕事をするのも仕事だと思う。べつにそんな仕事をする人のことを「研究者」とか呼ぶ必要もないのではあるが。実際、報道の収集、それから(仮の)住処に関する情報提供の仕事は、こっちではそこまで手が回らないからと、以前からつきあいのある人・組織から依頼されて始めた。
そしてその人たち、今、震災の翌日からその現場に入っている人たち、金をかき集めている人たちの相当部分は、一九九五年一月、阪神淡路大震災を体験し、以来、自分たちが助かるため周りの人たちを助けるために活動してきた人たちだ。その十六年があって、今のことがなされているところがある。このことも知らせたいと思う。ご存じの方もいると思うが、神戸大学附属図書館が当時の資料をたくさん集めて、ウェブでも公開している(「神戸大学附属図書館・震災文庫」)。そこまでのことは――まずは予算的に――できない。ただいくらかでもやっていこうと思う。さしあたり必要とされる情報を蓄積していくと、その時に何が起こったのか、何がなされたのか(なされなかったのか)のいくらかがわかる。何が起こったのか(がどのように知らされたのか)を集めていくと、それがなんであったか、知らされ方がどんなであったのかがわかる、それはではこれからどうしたものかを考える材料になる、かもしれない。まず私たちが考えているのは、やっているのはそういう単純なことだ。原発関連の情報も掲載している。ときどき見てもらえたらと思う。そして役に立てられる人は役に立ててほしいし、役に立つものを知っている人もっている人は、知らせてほしいし、ほしい。
□[補]科学技術論
まずはそれだけなのだが、一つ、前から気になっていることを加えておく。[…]
□近さと深さについて
[…]
◆2011/07/10
「まともな逃亡生活を支援することを支持する」
『別冊Niche』3
:61-70
□他所でのものとほんんどまったく同じ宣伝
[…]
□逃げること・住むこと
そんなこんなで始めるには始めた。すると、「もの」の問題も多々ありながら「住」の問題がさらにやっかいであることは明らかだった。動けと言われても動くに動けない人がいる。誰かの手助けで動くとして、「普通」の避難所では対応できないということになり、ぜんぜん知らない場所の施設にということになったりする。普通に避難所やら仮設住宅にいる人はやがて戻れるかもしれない。しかしその人たちは、比べて、さしあたり「とりあえず」ということであったとしても、もとのところに戻れるなり、あるいは住みたいところに住めることになるだろうか。知られないまま、そのままになってしまうことがありうる。
そんな現実的な危機感がある。というより既に起こっている。それで、やがて戻るにせよ戻らず新たな場所に住むにせよ、もっとまともな住む場所がほしいと、またそれを提供しようと思う人たちがいる。それは阪神淡路の時と比べても難しい。あの時には同じ場所(の近く)でどうやってやっていくかということだった。しかし今回は原発の問題が絡んでいる。
行く(行かされる)場所がどんなところであるかによって、その人のそこでの生活、そしてその後の生活が決まってくる。どこに行くことを勧めるのか。そういうことに、残念ながら、今いるそういう方面を担当している(はずの)人たちがあまり役に立つとは思えない。そんなことをする人たちが、その「本義」としては、「ソーシャルワーカー」ということになるのかもしれないけれども、実際にはそう期待はできない。
時にはその本人の話を聞いたり、相談に乗ったりするだけでなく、行政だとか各種機関と(場合によってはかなり強い調子で)やりとりをする、主張すべきを主張することが必要にもなってくる。そういう確かな立ち位置・姿勢と、ある種の手練手管をもってないとならないことがある。どういう暮らしが本来ならあってよいのか、どこでどんなふうに暮らしていくのか、自らもそれを求め、またそのための支援や交渉の活動を行なってきた人たちがいる。
つまり、もう四〇年ほど前から、とにかくだまって言われることを聞いているとろくなことにならないと言って、与えられた場所・施設に住ませられるのは嫌だと言って、住みたい場所に、介助が必要なら介助者を得て、その制度を要求し獲得して、暮らそうという運動が、おもには身体障害者の方から始まった。「自立生活運動」などと呼ばれる。(同時期に、精神障害の人たち自身による運動も始まり、また、いくらか間を置いて、知的障害者の――親の会の運動は早くからあるが――本人の発言がなされるようになる。身体障害の方の人たちの一九九五年までの動きにいては安積純子他
『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』
(藤原書店、増補改訂版一九九五)、その後のことも含め渡邉琢
『介助者たちは、どう生きていくのか――障害者の地域自立生活と介助という営み』
(生活書院、二〇一一)、これから紹介する人たちのことも(一部にだが)出てくる定藤邦子
『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝の会を中心に』
(生活書院、二〇一一、もとになったのは私たちの大学院に提出された博士論文)等を読んでもらえるとよい。
大阪・兵庫は、東京辺りとはまたすこし違った「乗り」で、そうした活動が盛んな地域だった。その人たち・組織が、一九九五年一月に阪神淡路大震災が起こるとすぐに救援・支援の活動を始め、続けてきた。すぐに
「障害者救援本部」
・「被災地障害者センター」といった組織ができた。私にも当時の遅い電話回線のパソコン通信で通信が届いた。そのうち郵便で各種通信が送られてくるようになった。
そしてその人たちは、
「ゆめ・風基金」
を作った。そのホームページを見ると、「五か月後に、ふだんから非常事態に備えておこうと「ゆめ風基金」運動が発足しました」とある。「そんなに早かったんだ」、と思う。そして、実際に基金を立ち上げ、国内だけでなく、トルコ、台湾、エルサルバドル、 アフガニスタン、イラン、パキスタン、ミャンマー、中国、フィリピン、ハイチでの災害の時、援助を行なってきた。そして今度の震災で、これらの団体が素早く動き始め動いている。
その「自立生活運動」は一九八〇年代に入ると「自立生活センター(CIL)」を作って活動するようになる――現在そうした多くのセンターは介助者派遣事業の収入でなんとか組織をまわしている――のだが、東京都八王子市に(実際にサービスを提供する組織としては)日本で初めてのCILを設立し、その
全国組織
の代表を務めてきたりした
中西正司
さんが「東北関東大震災障害者救援本部」の代表を務めている。そうした組織の一つで兵庫にある「メインストリーム協会」の人たちは地震のあった翌日に東北に向かったと聞く。
福島にもそう動きが一九七〇年代の半ばに現れる。その中心人物の一人がいま「被災地障がい者支援センターふくしま」の代表をしている
白石清春
さんだ。彼は脳性まひの人で、福島で橋本広芳さんたちと活躍し、秋田にも活動を広げるために一時いたこともあり、また全国組織にも関わり、かなり長く神奈川の相模原にいた後、福島に戻った。私たちと一緒にさきに記した『生の技法』を書いた安積純子(今は
安積遊歩
で通している)さんはその(養護学校および「福島青い芝の会」の後輩・仲間ということで、(調べてみたらもう二六年も前に)インタビューさせてもらったことがある。また(やはり調べたら一九九九年に)船引町に講演に呼んでいただいた鈴木絹恵さん――安積さんが「その道」に入った直接のきっかけを作った人でもある――が、その町で支援の活動を続けている。そうしたところに、さきに記した「本部」や「基金」がお金を送ったりして支援している。
ここでも人は大切だ。ただ福島なら福島で、そういう(ちょっと押しの強い、経験のある)人手が足りないということがある。それで――なのかどうか、事情はまた今度聞いてみようと思うが――兵庫から、かつてのその
「青い芝の会」
の全国組織でいっしょだった――そこには様々な対立・分岐もあったのだが――
古井(旧姓は鎌谷)正代
さん、そしてやはり脳性まひで長く兵庫で活動してきた
福永年久
さんが、まず福島を訪れた。そして古井さんはいったん戻った後、もう一度福島に行って、三週間の支援にあたることになった。古井さん自身も介助が必要だから、その募集の要請もあり、その介助に私がいる大学院の院生など、関係者が同行した。
その最後の一週間、介助しながら様子を見てきた最後の人で帰ってきたのはつい二日前で(今日は五月三一日)、具体的にどんなだったかはまだ聞いていない。ただ、たしかに人手も足りず、混乱もしている状況であっても、というかであるからこそ、残念ながら、今まであってきたし今もある行政や医療や福祉の専門職者の対応にまかせておけない、むしろそこにものを言っていく、変えていく必要があるということだ。そんなことをしなくてもことがうまく運べばよいと思う。しかし、残念ながら、こういう部分で押し問答をしたり、ねじ込んだりといったことは必要であらざるをえないということだ。
その人たち自身の心労もまたずいぶんのものなのだろうと思う。その人たちは「上役」だから、そう弱音もはけない。私は、かつて調査などでお世話になったことはあるが、あくまで部外者だから、すこし苦労話も話してもらってそれでいくらか気が紛れることでもあるなら、ひさかたぶりにその方々のところに御挨拶にうかがったりさせていただくことはあるかもしれない。ただ、その活動自体に私たち自身が本格的に関わることは難しいか、できない。仮にからだが空いたとして、手練手管というか、迫力というか、そういうものを持ち合わせていない。ただ、そんな人たちからの要請を受けて、「受け入れ」に関する関連情報を提供することを始めた(さきに記したHPの
「東日本大震災:住む暮らす」
)。それでどこまでうまくいくかわからない。実際に受け入れる場が存在しなければ、その情報を提供すると言っても、実際の「逃避」「避難」につながらない。実際のところは厳しいと思う。ただそれでも、さしあたりやれることはやっていこうと思っている。逃げたい人には逃げたいところに逃げてもらいたいと思う。
□心と社会と両方言われるが、何も埋まらない、に抗する
[…]
◆2012/05/30
「後ろに付いて拾っていくこと+すこし――震災と障害者病者関連・中間報告」
『福祉社会学研究』09:81-97(
福祉社会学会
)
□1 はじめに
[…]
□2 伝達と集積、そして電源他
[…]
□3 人・組織およびその来歴
このたび、即時の、そして後の上記の課題にも関わる「本人」たちの動きは早かった。
まず全国的な組織としては
「東北関東大震災障害者救援本部」
が設立された。また被災した各地に県別の組織、福島県であれば
「JDF被災地障がい者支援センターふくしま」
(開所式は4月6日)他が設立された。そして阪神淡路大震災<0085<の後に設立された
「ゆめ風基金」
がこれまで集めた金を各所に渡すとともに、さらなる募金と活動を展開している。
それらがどこまでのことをできていて、どんな困難を抱えているのか。それを追っておく必要がある。そしていちおう注目しておきたいのは、ここではその要因までは述べないけれど、かつて少数派であった部分が先頭に立って、そしてかつてはあまり(時にはとても)仲のよくなかった部分も含めて、やっていっているということだ。
これは非常時だからということもあるだろう。またいつまで続くかわからない今の政権に代わったという要因もないではないだろう。かつての政権党を支持してきた側にしても、得られるものがあるから支持してきたということであって、その要求先が変われば態度も変わる。そして、共産党に近く、とくに障害児教育のあり方を巡って鋭い対立を見せていた部分も、今はかつてほどの攻撃性はなくなっているといったことがあり、そちらに近い(と、今は関係者たち自身の大多数が思っていないのだろうと思う)
「共同作業所全国連絡会(共作連)」
に属する組織やそこにいる人たちも例えは福島のセンターで仲良くやっていると聞く。このセンターの名称の先頭についている「JDF」は
「日本障害フォーラム」
。この組織は旧来の大手の組織「日本身体障害者団体連合会」(日身連)といった組織を含む大同団結的な組織である。
ただ、例えば福島であれば、そのセンターの代表をしているのは
「福島県青い芝の会」
を橋本広芳らと共に始めた
白石清春
(1950生)である。その白石らの主張に反感を感じて事務所に乗り込んでいって徹夜で議論して「寝返り」、その活動に参画するようになったのが鈴木絹江で、さらにそれに感化されたのが
安積遊歩
(1956生)ということになる。鈴木も今、田村市で支援の活動をしている(現在「ケアステーションゆうとぴあ」理事長)
★04
。いまは原発を逃れ、東京からシドニーに移っている安積は白石らについて次のように語っている。
「当時、全国青い芝の代表は横塚晃一さんだった。福島で最初に始めたのは白石清春さんと橋本広芳さん。そのころ、橋本さんも白石さんもすごく過激でね。施設へ行って、ベッドの周りに棚があって鉄格子みたいになってると、「おまえら、こんなところに入りたいと思うのか」ってすごい剣<0086<幕でどなったりしがみついたりして。二度とこないように立入り禁止になったりして。怒り狂って。悲しみのあまりにね。私たちの目の前で、ご飯に味噌汁とおかずと薬と水をかけて、ごちゃごちゃに混ぜたのを口につつこまれたりしているんだよ、私達の同窓生がさ。あまりにも悲しみが高まるよね。「おまえら、こんなのめしだと思うのか」ってつかみかかってどなるのよね。
白石さんはその後、青い芝の活動のために秋田に移り住んで、青い芝の事務所のある神奈川と往復してた、福島にもしょっちゅう来てたけど。七九年には白石さんが全国の代表になったんだ。橋本さんは白石さんの女房役でね。」(安積[1990:30→1995:30])
記録を見ると、白石の秋田への「オルグ」のための移住は1976年。1977年の(全国)青い芝の会の大会で選出された会長が
横塚晃一
(1935〜1978、
75年の著書の新版が横塚[2007])、副会長が白石、事務局長が鎌谷正代(後述の古井正代)。白石は、同年、ごくいちぶでは有名な「川崎バスジャック闘争」にも「中心的な立場で」参加してもいる。その翌1978年、横塚が亡くなり、路線を巡る対立等々が起こる。白石は、1979年、「全国青い芝の会再建委員会」(正式名称がこれでよいかは不詳)の代表に就任。そして1980年には秋田から相模原市に移る。そして、1970年からは長く、もっはら糾弾・反対の運動をしてきたこの団体において、所得保障要求を中心においた対話路線の「東京青い芝の会」の人たちが前面に出た(その方向を進めた官僚がいたということもあった)一時期――だから、というわけでは(まったく)ない(と私は思う)が、障害基礎年金が1985年に始まる――その人たちと活動もした人である(そして、そういう時期はいっときのことであり、その後、この組織は様々に対して反対する組織に戻り、実際の活動を担う人は長い間にすこしずつ減っていくという組織になっていく。この辺については立岩[1990→1995]に少し記している。)
私は、1980年代の後半、安積の紹介・仲介で相模原で白石らが運営していた「くえびこ」という場所(1981年開所、制度的には作業所ということだったのだと思う)でインタビューさせてもらったことがある。そして彼らはその頃すでに「シャローム」というグループホームの運営の始めていたはずだ。その白石は、<0087<1989年に再び福島に戻り、1990年設立の「グループらせん」、1994年開設の「オフィスIL」、2001年設立の「あいえるの会」に関わってきた。そんな人だ。私はそれきりになってしまったが、
土屋葉
らが聞き取り調査を重ねてきて、いくつかそれに基づく論文もある(土屋[2007a][2007b]――がさらに記録(が公表)され書かれるべきことが多くあると思う。)
そして、その福島に、早々に、応援しようと乗り込んだのが、古井(旧姓・鎌谷)正代と福永年久だった。
古井
(1952生)はかつて「関西青い芝の会」の中心人物で、後に「健全者(健常者)」(の集団)との関係等を巡って「大阪青い芝の会」他と対立しつつ、その「健全者組織」を(作ってそして)解散させるあたりの時期にいた人で、またそうした「内紛」の後、活動から(いったん)離れることになった人である。だから基本現在は無所属ということになるのだろうが、とても元気な人で、ここ十年ほどの間に幾度か集会やら研究会でお会いしたことがあった。
また福永(1952生)は、「兵庫青い芝の会」に関わり、
「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」
の幹事を務め、そして震災前から、そして震災後、「阪神障害者解放センター」、「拓人こうべ」の代表など務めてきた。『こんちくしょう』という映画の「制作総指揮」をした人でもあり、その映画作りに関わった人とともにCOEの企画
「障害者運動・自立生活・メディア――映画『こんちくしょう』のスタッフと共に考える」
で大学に来てもらって話してもらったことがあった。(関西における障害者運動について、山下[2008]、渡邉[2011]、定藤[2011]等。)
その人たちが、4月に福島に、白石たちのところに行った。両人とも重度の脳性まひの人で、介助者がいるわけで、それでとんな連絡がいつ来て何がどうなったのか記憶にないのだが、
青木千帆子
(2011年度のCOEのポストドクトラル・フェロー、現在は立命館グローバルイノベーション研究機構研究員で電子書籍のアクセシビリティについての研究グループの一員、本業は「障害者と労働」ということであるはずで、後出の
「差別とたたかう共同体全国連合(共同連)」
、現在は(NPO)「共同連」が正式名称)等に調査に行っている)、そしてやはり大学院生で(2011年度に3年次入学、本業としてはベトナムの精神障害者のことを研究している)権藤眞由美が、介助者として同行するといったことがあった。古井は、そしてその二人他も、その後も福島を訪問している
★05
。古井たちは、関西、というか大阪・兵庫の人た<0088<ちの中でも、前向きの、言うことははっきりと強く言うという人たちであったから、当地では、いささかのあるいはそれ以上の当惑を、ものを言っていく相手だけでなく、当の組織のスタッフ他にももたらしたようだ。白石は、闘士であったとともに温厚な人格者でもあり、福島という――とも一括りにできないのだろうが、おおまかには控え目な人たちが多い――土地で、方向が(ときにかなり)異なる人たちも含めてやってきた。ただ、こういう状況であっても(あるいはあるからこそ)押す時には押す、言う時には言うということに積極的な意味もあったのだろうと思う――古井に同行した青木の報告として青木[2011]。(このことを最後に記す。)
そして、
「東北関東大震災障害者救援本部」
の代表は、そのHPからそのままとってくれば、
中西正司
(DPI日本会議常任委員、全国自立生活センター協議会常任委員)、副代表:
牧口一二
(ゆめ風基金)。呼びかけ人には、
DPI日本会議
から三澤了、山田昭義、尾上浩二、奥山幸博、八柳卓史、
全国自立生活センター協議会(JIL)
から、長位鈴子、平下耕三、佐藤聡、東京都自立生活協議会(TIL)から横山晃久、野口俊彦、今村登、ゆめ風基金から
楠敏雄
、福永年久、
共同連
から松場作治、地域団体から江戸徹(AJU自立の家)、廉田俊二(メインストリーム協会)、障害者権利条約批准・インクルーシブ教育推進ネットワーク:
北村小夜
、青海恵子、徳田茂。この人たちについてもいくらでも書くべきことがあるが、きりがない。(「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」の代表幹事であったこともある楠については現在、やはり私の勤め先の大学院生の岸田典子が聞き取りを継続的に行なっている。その成果がそのうち出されるだろう。)
そして、
「ゆめ風基金」
は、阪神淡路の地震の5月後に設立された基金で、今名前が出た関西・大阪の障害者運動にはじめから(人によっては途中から)縁が深い人たち、
『そよ風のように街に出よう』
という雑誌を出してきた
河野秀忠
といった人たちが関わってきた。(その地の震災以降の関連の活動については、大学院生他とともに長期間に渡る調査を行なってきた似田貝らの著作(似田貝編[2006]、佐藤[2010])にいくらかは出てくるが、それ以外にはないのではないか。)
それらは新興の――とは言えないだろう、ずいぶんな時間が経っているのだから――その時々の福祉の政策(やときに学問)を批判してきた(が言うことを聞いてもらえなかった)勢力である。ただ、この時間の間に、「青い芝の会」に<0089<せよ「全障連」にせよ、もっぱら批判・抗議の運動を展開してきた部分の活動力は、言い放ってしまえば、低下しており、後景に退いてきている。ただ、その流れを汲んではいる人たちが幾人もいるし、そうした「傾向」の組織が多く加入している「DPI日本会議」が現在の運動・政策の一つの核になっている。そして同時に、そして福島県もそうだったが、「事業所としての自立生活センター」というかたちができていったことによって、そうした組織の存在・存続が、かつかつながらではあるにせよ、可能になった。ただ同時に現在でも、東北でも(日本の他の地域でも)こうした組織がない県・地域はある。福島の場合、1970年代以降の運動・活動があり、それを始めた人の里帰りもあったりして、つまり、より以前からの運動と1990年代以降の事業体としての活動と、両方の要素をもつ動き・組織があって、とにかくすぐに動けた部分があった。阪神淡路の時もそうで、そしてそれが今度の東北への支援にもつながっている。
□4 住むこと・移ること
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UP:20180306 REV:
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青い芝の会
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病者障害者運動史研究
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生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築
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立岩 真也
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