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『病者障害者の戦後――生政治史点描』 連載・152

立岩 真也 2018/12/01 46-18(2018-12):216-229

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『現代思想』連載(2005〜)

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■以下の本の一部になります。&もう一冊の本

立岩 真也 2018/11/30 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社 文献表
立岩 真也 2018/12/15 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社 文献表

立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙 立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙 立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙 立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙


■■第152回・全文

■二冊の本
 十一月から十二月にかけて二冊の本を出してもらった。一冊が『不如意の身体――病障害とある社会』、一冊が『病者障害者の戦後――生政治史点描』。ここ数年の本連載を、なぜこんなにかかったのだろうと思うほど、思い迷って、構成をいろいろに変えてみたり、書き足したり、時間がかかった。さらに、いったんできてみると今度は種々に重複があることに気づいたり、結局その不格好さは整理できないまま、出版に至った。まず二冊めの本の「あとがき」。紙数の都合で文献表は略。本・HPでご覧ください。

■本2のあとがき
 「序」で当初考えていた題と副題が入れ代わることになったことを記した。「生政治」は副題の方に使われている。私は、生政治というものは、こういうふうに、つまり本書に記したように、凡庸に作動するものだと考えている。その凡庸な動きをひとつずつ、一度ずつは記述せねばならないと思って、結局ずいぶん長くなった本書を書いた。そのもとになった『現代思想』の連載はたいへん長くなってしまっている。この雑誌にはずっと以前、蓮實重彦の「マキシム・デュカンあるいは凡庸な芸術家の肖像」という連載があって(単行本化されて蓮實[1988→1995→2015])、いったいこの人はいつまでこういう話を延々と続けていくのだろうと思ったことがあるのだが、それよりも長くなってしまっていて、呆れていた自らが呆れられる側になってしまった。
 その二〇〇五年から始まった『現代思想』の連載(?)のうち、「生の現代のために 1〜2」が連載九七〜九八回(二〇一四年三月〜四月号)、「3〜24」が連載一一二〜一三六回(二〇一五年六月〜二〇一七年八月号)まで。その中には本書には使っていない部分がある。そして連載一四五〜一四八回(二〇一八年五月号〜八月号)の四回分が第4章2節、第5章3節になった。
 この間の別の回は、『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』([201511])、『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』(早川・立岩・西沢[2015])、そしてこの十月に出版された『不如意の身体――病障害とある社会』([201811])となった。また連載を休んで書いた「七・二六殺傷事件後に」([201609])、「七・二六殺傷事件後に 2」([201610])と連載一二八回「生の現代のために(番外篇)」([201512])は、改稿の上『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』(立岩・杉田[2017])の私の担当分となった。また連載第一二九回「『相模原障害者殺傷事件』補遺」([201701])の一部は第4章第1節に使った。構成・順序はかなり変更し、新たに書き足した部分がある。
 資料を集めているし、寄贈の申し出もあって、集まってきている。人に話をうかがっている。そうして集めることについては、本書では最後に短い文章を再録しただけだ(448頁)。また、本書では第1章に少しだけ書いた「学問上の位置づけ」といった部分、連載には書いた部分も、本書では略している。また本書を読んでいただくうえでは少し役立つかもと置いた第2章のような構図は、もう何枚かある。仕事は終わらない。
 本書で、というよりもう一冊の本で幾度か愚痴っぼく書いているのは、二〇年前とか、こういう仕事がおもしろいからやりませんかと記した様々が、その時間が経ってまだそのままになっている、それで再度呼びかけますといった話だ([201811:67])。他の人たちと仕事をするのは面倒なことでもあるが、しかし一人では無理なのははっきりしている。本書もまた、なにかをまとめた本というよりは、呼びかける本だ。ほぼ偶々のことだが、いま私(たち)は大学院で働いていて(立命館大学大学院先端総合学術研究科)、そして研究センター(生存学研究センター)もやっている。今はなんとか研究費も得ている(←)。そこにやってきて、人々がやってきたことを、ときには自分(たち)がやってきたことを調べたりまとめたりすること、文字にすることを歓迎している。さきにいくつか本のリストを置いた。こういう本を私がこれから読むことはまずないだろう。読んでくれる、さらに探してくれる人、論文や本にしてくれる人を探している。
 好事家になることは、人生の時間の使い方としてわるくない。きちんとした蒐集家は、なにか大きなことを言いたがる人物の多くよりよほどよい。ただ、『現代思想』にさせてもらった、そして今も続いている、数年にわたった連載は、生き死にの実際にもすこし関わっている。昨年あたりから、京都・大阪・兵庫で、旧国立療養所から出たいし出られる人が出られるようにしようとする動きがあって、私もその動きに少し関わってもいる。十二月二十四日には日本自立生活センター(JCIL)が主催して、私たちのセンターも関係するシンポジウムが開催される。そうしたことごとに間に合わせようと思ってこの本を作った。連載に書いた文章をただ並べればよいかと最初は思ったのだがそんなことはなかった。苦労した。それでもたいへん不格好なものなってしまったが、あと何年もかけて、何倍の倍の厚さの、誰が買ってくれるかわからない本にするよりよい思って、作業をいったん終わらせた。
 本書は科学研究費研究「病者障害者運動史研究――生の現在までを辿り未来を構想する」(基盤B、二〇一七〜二〇一九年度、本書183・282頁)の成果でもあります。

■生政治は凡庸に作動する
 こんな具合に二冊目の本の題が決まった。『病いの戦後史――体験としての医療から』(向井承子、筑摩書房、一九九〇年)という本があって、ずっと以前しばらく私はこの本を委託販売させてもらったことがある。それと少し似た題になった。しかし私の場合、そんな大きなことを書いた/書けたわけではない。ただ、題はたいがい実際より大仰なものである方がよいという指摘は、それはそうなのだろうと思い、受け入れた。ただ、やはり「点描」なのではある。
 それより、このあとがきで、これは言いたいと思って最後に加えたのは「凡庸」だった。私の連載は、たいへん長くなり、そしてしりとりのように書いていることが移り変わっていく妙なものになったのだが、終わる。その間、こんなことをしてよいのだろうかと思いつつ、ときどき思い出していたのは、いま引用したあとがきに記した蓮實重彦の「マキシム・デュカンあるいは凡庸な芸術家の肖像」だった。連載時にたまに読んだことがあると思うが、とにかくいったいいつまで続くのだろうと思っていた。というその中身とはたいして関係はないのだが、私は、本当に、生政治は凡庸に作動してきたし作動していると考えている。そのように考えられるとすると、記述の仕方は今度の二冊めの本のようになる、そのような記述の仕方もあるということになると私は考える。あるいは、この本のように書いていくと、そこに描かれるのが凡庸な生政治の歴史と現実であるという事実がわかり、またその中身がわかることになる。今度の本はそんな本だ。

●本2第6章5「復唱+」
 いろいろと接ぎあわせ、継ぎ足したと記した。以下は、この本に最後に加えた部分。いろいろと思いまどったすえ、最後の第6章を「その傍にあったこと・予描2」とした。本で長く書いたのは、国立療養所における動きだった(第3章「国立療養所で」)。そんなに長々書く必要があるのかと思われるのももっとなことではある。ただ私はさきに述べたこと、生政治は凡庸に作動するのだということを示すために、長々と引用を連ねた。一度はそれをやっていった方がよいと考えた。その上で、この社会にあったのは、それ(「国立療養所で」的なもの)だけでないことを書こうとも思ったのだが、それには準備は足りていないし、書いていったら、本になるのはずっと先になり、なにより、量はさらに増えていっただろう。結局今度の本は五〇〇頁を超えてしまったのだが、これ以上多くなったら、普通に買える本ではなくなる。蓮實先生の本は八六八頁、一キロを超える本になったそうなのだが、私の本の市場は蓮實さんの本が売れる市場とは異なる。もっと普通の市場なのだ。それで、後で書く(というより、後で書けるといいな)ということにして、いくつかの断片を記した。1「六三年・花田春兆の不満」、2「横田弘の批判」、3「七〇年からの府中・八二年の島田」。ここまでは既に書いたものを順序を変えるなどして使った。そして、5「復唱+」を加えた。以下それを掲載、註01〜03は本では第6章註14〜16。

■復唱+・1 現実の形
 まず〔『病者障害者の戦後――生政治史点描』で〕述べてきたのは、無知や断絶があること、斑(まだら)になっていることだった。それも一つや二つではなかった。それには事情があり、そしてそれがもたらす効果があった。具体的な史実はこれからさらにいくらでも収集され整理されるべきだが、まずそのことを示した。良い人だと思われていた人(たち)が実は悪い人(たち)だったという筋の話をしたいわけではない。ただこの壁は崩してしまった方がよい。
 互いに肯定しあいながら、現実ができていった。もちろんそうしてようやく作っていったということではあるのだが、その均一な感じはすこし驚いてしまうほどのものだった。本書は、作り上げられ維持されるその様を追うことを専らしてきたが、その様は、別のものを見ないか気付かないか、気付かないようにふるまうことによって作られた。「障害者対策」が始まりかけの一九六三年、水上勉が教科書でも言及される「公開書簡」を書いたのと同じ時に、障害をもって生まれた子を死なせることを語ったこと、花田春兆がその水上に不平を言っていること、これらは知られていない。七〇年、府中療育センターで闘争が起こった。それは学生運動他で騒がしかった一時期、比較的大きなメディアが取り上げて知られたこともあるが、すぐに消えていった。七三年、椿、その後、井形らが水俣病について採った立場のことは、関わったある人たちの一部には知られるが、この医(学)者たちが本業とする「難病」の領域には伝わっていないか、あるいは、あの立派な先生たちが悪いことをしているはずはない、という始末のされ方であっただろうと思う。八二年、重心の施設の先駆であった島田療育園での脱走事件があったこと、本人が連れ戻され、支援した人たちがかなり長くその人と会うことができないといった状態が続いたことは、その間のごく一部がいっとき知られたとしても、消えた。そうして立派な歴史が残った。そのこと、これらと別に肯定的な空間が張られたこと自体を言うのが本書の目的だった。第3章でその動きをみた。そして、第5章では別の動きがあったことをみた。その人たちは、早く亡くなってしまい、そのことによってその動きもまた忘れることにもなった。また実は自分が育ったその外側にあった騒動のことは知らず、社会の理解を求めて動かねばならないと思い、かえって苦労したのでもある。しかしそれでも、閉じられた空間の外で動きは起こったし、今も起こっている。
 まず第一に、こうした布置・配置をわかることだ。ごく少ない人に記憶されている事件を覚えておこうといったことを言いたいのではない。小さなやっかいごとはいくらでも起こっている。しかしそれを受け取ってしまうと、ことは大きくなり、せっかく作ったよいものを、よいかどうも定かでないが今あるものを潰乱してしまうという恐れがあって、そのままにする。実際、さきにあげた幾つかの事件は、それが「おおごと」になってしまったできごとであり、多くはもっと手前で止まってしまう。

■復唱+・2 元にあるものについて
 とすると、そこにはたんなる惰性があるということか。ただそうした内閉や遮蔽は、たしかにいつのまにか起こっていることもあり、なにか騒ぎが起こって面倒なことがあるとその因縁や怨念がさらに混ざって、起こる部分もあったのではあるが、それでも、第二に、社会や人についての見立ては見立てとして、思想は思想として、構えは構えとして見ておく必要がある。その構えの違いといったものがやはりあると思えるから、そしてそれが現実を萎縮させてしまってきたし、今もそうだと考えるからだ。
 本書に出てきた人の多くは、人は生かされるべきであるという立場を維持している。それは、その立場をよしとするなら、このところで別のことを言う人たちよりよほどましである★01。ただ、公害が大きな問題として浮上したというその時期の社会状況もあり、また人によってはその「責任ある立場」から判断せざるをえないのだと思ってしまったということもあり、一つ、社会の将来を心配し、資源の有限性を念慮している。その場所から医療と福祉の必要を言う。それは予算をもってくるために人を説得するための方便だと捉えられているとは必ずしも言えず、本当にその危機を信じているようだった。人口が増えすぎるという話があり、その後、いつのまにか「少子高齢化」による(生産)人口減少の危機が語られるのだが、そのいつのまにか不可思議に変化していく時間の流れを通して、心配は続く。そして、それが背景にあることによって、有限な資源については良識的に使うべきだという話になる。有限性は、ごく大括りに言えば、まったくの間違いというわけではない。ただ、それで人々がこれから困窮に向かうという具体的な根拠は実はない。ただ信じてられてしまっている。そしてそうした懸念は、たんにぼんやりとした世間話として語られるのではなく、政策に関与している人に存在してしまっている。それが、微妙ではあるがはっきりとした流れの違いをもたらす。そこはやはり、大きな争いの場だ。とすると、ここにものを考えて言う場はあるということだ。この体制・大勢に抗しようとすれば、一つには、たとえ困難が生じるとしても、非生産的なもの・負担のかかる部分を捨ててはならないと言うことだ。それが一番基本的な答、答があるべき場所なのではあるだろう。しかし、そんなに悲愴になる必要が実はないのであれば、すなおに、実際には困難は存在しないと、言えるのであれば、言えばよい。私は言えると考えており、そのことを種々の水準で言う必要があるということだ。それは本書の仕事ではないが、必要なことだ(cf.[200809:chap.3][201301])。
 もう一つは人について。そこにも悲惨の感覚がある。「重心」の人は、脳性まひの人は、ホープレスな人だと言うのである。臨床にいてよく知っている人もいれば、組織の管理的な立場にいるなどして、おそらくはそうでもないという種類の人たちもいる。「現実」に即するから暗いのだろうとも思えるが、実際には、その場に長くいてきた人に、かえってそう暗くはない人がかなりの数いると思う。糸賀一雄の後を継いで「重症児」についてたくさんの本を書いた高谷清もそんな人だと思う。そうした場に働く看護師にも仕事をよい仕事として続けている人たちがいる(窪田[2017]、書籍化したものが[2019])。とするとたんに現場にいるから、というわけでもない。繰り返すが、反対に明るくなる必要もない。しかし、例えば「重症心身障害児(者)」についてどのように人は暗くなる必要があるのか。考えられる要素を分けて取り出して考えてみようと、もう一冊([201811]〔『不如意の身体』〕)の方で言った。そしてすくなくとも本人に即した時にはだが、暗くなることはないと述べた。いったん暗くなると、悲惨から発する善意を呼び出すことになる。それに花田〔春兆〕の不快も関係はしているのだろうと思う。暗い方角にも、その反転としての明るい方向にも簡単に決めるなということである。そして横田〔弘〕が感じているのも、そうした人々の暗さ、敵意だ。それは一つに、できないことに対する失望や苛立ちから来ているが、それだけでなく、自分の異形が人々からそう見られているという感覚に発するだろう。だが、考えてみよう、というのがその本で記したことだ。暗さや敵意が向けられているものを腑分けし分解していこうということだった。
 とするとまず、先に記したことを受け入れてもらえるのであれば、「できないこと」については、すくなくとも社会に困難をもたらすようなことではない。それに比して、異形に関わる嫌悪や反感のほうがまだ厄介かもしれない。ただ、それに対しては、「そう思ってしまうこと自体を非難はしないとしよう。しかしそれは自分たちのことでなく、あなた方の心性の問題であって、それを私たちに対して攻撃的に表出してよいなどといったことはないのだ」と言うしかない。そして、集められ、たいがいは閉鎖されたなかにいて、ときに人が見るときには横たわって並んでいるといった仕掛けは、その暗い感覚を増長するものではないか。
 この危機についての感覚、暗い存在だと思ってしまうところから発すると、そのなかで自分たちはがんばっているという話になる。すると、困難ななかでいっしょにがんばっているのだから文句を言うな、という筋の話になる。私には、例えば府中療育センターでの問題の無視のされ方にはそんなところがあるように思える。私は、実は悪い人たちが悪いことをしたのだ、とは言わないことにしようと思う。その人たちは真面目であり良心的であると私は捉える。しかし、別にがんばってもらう必要はない。
 「体制」を維持し成長させるために、と横田は言った。考えてみれば、白木〔博次〕も同じようなことを言っている。なおるようになると経済によい効果があるかもしれない。ただ、たぶん、なおすことが難しい人たちをなおそうとたくさん努力をしたところで、さほどの実質的な効果はないはずだ。それより、そのために失うものをよく見ることだ――「なおすことについて」([200107]、[201811]〔=『不如意の身体』〕に再録)。経済や生産は大切だが、どれほど大切であるかを、身を引いて考えてみればよいということだ。しかしそんな簡単なことができにくくなっている。その施設はそもそもなおすための施設だということになっており、そこにいる人、そして責任者となっている人はそんな職業の人であったりするからだ。それで、なおす希望があるとされ、やってみてうまくいかないと、あきらめる。その場に放置されるに近くなってしまう。
 このように考えを進めていけば、微妙なところ、微妙であるがはっきりしていることを言える。この言い方に矛盾はない。差異ははっきりあるのだが、微妙になっている。その微妙なところ、曖昧にされているところを、はっきりさせることが必要だ。わざわざそんなことをする必要があると私は考える。だから、やはり、もう一つの本でも再度呼びかけたように([201811:64ff.])、例えば障害をなおすことを巡る歴史が辿られる必要はある。辿っていくことを介して、種々の制限が致し方ないとされること、他方で急ぎでことを前に進めようとすることを、その切迫は真面目に信じられている場合、たんなる言い訳としか思われない場合もあるのだが、緩めることができる。

■復唱+・3 変更を進める
 第三に、こうして冷静になったうえで、起こってきた個々のこと、今存在している事態を見て、手を考えること、というか、今動いている流れを支持することができる。
 本章でほんのわずかずつ取り上げてきた人たちは、しばしば、「わがまま」を言っていると言われた。言われないにしても、そのように思われている。あるいは、無視される。他方で、わがままだと思わないし思いたくもないが、しかし、それでその人の文句が通ったとして、そこを出てきても、私の方では引き受けきれないという重い感じがある。だが、話がこじれていって厄介なことになっていったことがあったとしても、まず求められ訴えられたのは、単純でそして正当なことだった。そしてどうしようもないことでもなかった。
 「事件」が起こると、非現実的な極端な主張がなされるとされ、それゆえにそれは却下されたり無視されたりしてよいとされる。だが、それは、府中療育センター闘争についても、八二年に起こったことについても、違う。本書では第5章1節(307頁)に少し書いたが、多くの施設・病院でなされていることはまったく普通に間違っているということだ。求められているのは、とても具体的なことで、例えば排泄したい時に排泄したいとか、人に会いたい時に会いたいとか、外出したい時に外出したいとか、そんなことだ。さらにはここは私にとって気持ちのよいところではないから引っ越ししたいといったことだ。そのことについて、施設・病院の側の人の予算の「持ち出し」がない場合でも、それが妨げられることがある。それに対するときに、障害者権利条約であるとか、障害者差別解消法に違反しているからだめだというような話をする必要は本来はない。既にある規範に違反しており、法にてらして違法な行ないであるということだ。むしろ問題は、それがそのように受け取られていないということだ。それは原理としてはまずはまったく単純である。出たい人を出さないとすれば、不当な監禁であり、拘束である、おかしい、ということだ。それを言うことは簡単だ。
 しかしその簡単なことの実現が困難になっている。かつては子どものための施設であって、未成年であるから制約されてよいとされ、それがそのまま日常を作ったという面はあるだろう。しかしそんな経緯があったとしても、それはせいぜいが惰性でそうなっているというだけのことだ。ただ、役所と経営者(である医療者)とその施設にお世話になっている家族(組織)はそのような方向に働かない。悲惨から発し、自らを肯定し、支えあっている関係が続いている。制度・施設を始める時、必要でもあり有効であった連携が、そのまま、桎梏となっている。
 施設の側には本来権限がない、あるはずがないということがわからないようだ。考えればわかるのだが、考えなくてもすむように思ってしまっているらしい。それでも、それに理由があるのかとなれば、なにかは言われる。一つに規則だからと言う。それは一番多く言われるが、もちろんそれでは理由にはならない。なぜその規則が必要なのか。一つに、人手がいないので、だ。後述する。一つには、本人のためであり、そのなかには、安全、医療の必要があるとされる。これも理由にはならない。説明しよう。
 私はパターナリズムが肯定されるものであることを述べてきた([199908][200203][200801]、いずれも立岩編[2016b]に収録)。しかしそれは、今なされている制限がなされてよいということではない。私は医療者に救命の義務があることを認めるし、本人の意思の表明の前に、その表明がなくとも、救命の行為はなされてよいと述べてきた。さらに、つねにその本人の表明に即するべきでもないことも述べてきた([200809][200903][201708]、立岩・有馬[2012])。それでも、この安楽死・尊厳死の問題はたしかに難しい問題ではあり、だからわざわざ考えて本に書いてもきたのだ。それに比して、ここで本人のもとに存在している事情はずっと簡単なものだ。人は、生きたいのであり、長く生きたいし、気持ちよく生きたい。長さと「質」とがいつも相伴うとはならないとしても、それでも、生命を賭してとか、そんなにがんばらなくとも、長く、そして気持ちよく生きるというその両者を両立させることは、多くの場合に可能だ。
 結局、多くは本人の周囲の都合による。「本人のため」というのは多く、それを言わないようにするための言葉であり、ならば正直に人手が足りない、などと言った方がまだよい。そして次に、それは基本的には、変更可能であり、実現可能である。よくないのは、すべての人がここを出られるのだろうかと問うて、自問して、それは無理だろうと自らに答えて、何も言えなくなり、それで終わらせてしまうこと、まったく同じ現実が続くことだ★02。
 今は、ここの施設の、この陣容、この人数ではできないことは認めるとしよう。しかしその事実を認めたとしても、まずは、その外から人が入ってくることを認めればよい。つまり病院にヘルパーが来るといったことだ。すると、医療と福祉と、制度が重複して使われることになってしまうといったことを言う人がいるが、その重複がよくないのは、同一の行ないについて二重に払われるといった場合であって、そうでなければもちろん問題はない。するとあとは、よそから(不衛生な)人がやってくるという「衛生上の理由」だけだが、それはどうとでもなる。そして実際、徐々にではあるが制度も、いくらかその方向に動いてもいる。それをさらに進めればよい。すくなくとも妨げてはならない。じゃまをしなければよいだけのことだ。拒絶する権利は誰にもない。車椅子への移乗は「当院」の職員だけの仕事であるとした上で、人手がそろわずできないから病室から出られないという(0頁)。それがおかしなことであることもわかられていないなら、それはとてもよくない。
 私たちは「出ること」について書いてきた。ただ記述してきたのではなく、それを勧めてきた。その立場は変わらない。ただ、それは、私たちが書いてきたものを知っているのであれば誤解はないはずだが、「在宅」を支持してきたということではない。家族といたくないのであれは、家族といなくてもよい。家族といっしょにいたいが、あるいは家族といっしょにいたいからこそ、家族の世話を得たくないのであれば、その家族と一緒の場所で、家族から世話されずにすむようにすればよい。場所を変えることがどうしても必要だとも思わない。屋根が付いていて雨露をしのげるのは、やはりそうでないよりよほどよい。今いる場を宿のように、屋根のように使えればよい。その屋根の下に慣れてしまって、そこから移るのがおっくうになった人もいる。当然のことだ。とすると、その屋根の下のままで、もっとよい暮しができればよいということになる。
 そしてその移動、「地域移行」を支援することになっている「相談支援」が以前より機能しなくなっているとさえ言えることも『精神病院体制の終わり』([201510]、第3章「地域移行・相談支援」)で述べた★16。ここにも事情はあるが、その事情をわかった上で、それをもっと機能するものにすることはできる。
 今、病院はむしろ人を早く出したがっているし実際出してしまうというのはある部分の事実である。ただそうでもなく、比べれば、採算のとれている部分があって、その仕組みが持続している――どこまで事実か知らないが、筋ジストロフィー病棟の「あがり」を他の部門にまわしているところがあると聞いたことがある。政府の金を自らの制度・施設のなかに取り込み、そこに多くの資源が流れる状態、他に行かない状態を維持することによって、他の場や他の様式で暮らすことが困難にされてきた。精神病院の業界団体が政治と良好な関係を維持していることは『精神病院体制の終わり』で述べた。本書で記されたのは、また別種の人・組織と政治・行政との――その関係者たちにとっては良好な――関係でもある。代わりに、同じだけの仕事をするなら、どんな場であろうと、どんな職種の人に対してであろうと、同じだけを払うことである。また技術を習得し安全に行なえるのであれば、職種・資格による制限をしないことである。これはまず、同じ嵩の財源の使い方を変えるということだから、財政に影響しない。もちろんそれだけでは必要に足りない。増やすことになる。それでも、間違って人が心配するように、社会の土台が揺らぐといったことにはなならない。
 流動とその一部である滞留を止めることは誰にもできない。現実には止められているのだが、止められるべきではない。引っ越したり、またもう一度引っ越ししたりして、戻ってきたければだが、戻ったりする。それが可能なように人を補助する人がどこでもその仕事ができるようにする。箱はどこの箱でも、屋根はどこの屋根でもかまわない。どちらでも可能にする。看護や医療が例えばアパートという箱で必要なら、そこで得られればよい――それは意外なほど可能だ。今の病室にヘルパーが必要なら、入れるようにすればよい。結果、四人部屋、六人部屋の居住性能はよいとは言えないから、やがてそこは繁盛しなくなるかもしれないが、それはそれでよい。それを進めるその流れは、『生の技法』ではいくらか書いたが、第5章3節8(376頁)・4節2(386頁)節でわずかにそして中途半端にふれた以外、本書で描くことはなかった。ただ、実際主張され、いくらかは実現されていることだ。別途報告する。というより、ここでも私は、そんな仕事を、してもらいたいと願っている。

●本U・序について
 最後に、その『病者障害者の戦後――生政治史点描』の、前後するが、序。どんな構成の本になったのかがわかるようになっている。さきに第6章の終わり、つまりはその本の最後のあたりを引いたが、もう一つ、第4章も「予描」となっていて、分量の多い第3章・第5章の「裏」になるようなものなのだが、本連載では今年の七月号・八月号に書いた「七〇年体制へ・上〜下」がここに使われている。少数の人たちにおいて立派な人だということになっている人たちについて書いた。やがてきれいさっぱり忘れられてそれでよいようにも思ったのだが、やはりこうした凡庸なできごとを留めておくことは必要だと思い、私は書くことがないだろうが、「予描」とした。そう、この国では、そしてどこででも、生政治はこのように作動している。善いとされている人が実は悪人だ、といったことを言いたいのではない。善い人たちによって善からぬことも、善いとされて、起こって続く。と書くと、みなが同意はする。しかしこうした把握もその実際を書かないことには、ただの一般論に終わる。社会空間に言説が堆積し閉域が作られ、壁ができる。こういう把握もそうだ。実際にどんな具合にそんなことが起こったかである。

■序
 本書で描くのは、日本の戦後、ひとつには国立療養所と呼ばれる場に関わって起こったできごとだ。当初おもには結核の人たちがいたその病院・施設・療養所に、一九六〇年代になると筋ジストロフィーの子どもたち、また重症心身障害児(重心)と呼ばれる子どもたちが入り、暮らしていく。それが始まってもう五〇年を超えた。もう六〇歳を超えてそこに暮らしている人もいる。その経緯を辿り、その傍にあったこと、その後に起こったことを記す。
 これから仕事(研究)がなされることを期待しながら、この時代はこのように推移してきたのではないかという道筋を示してみる。これがわかったと述べるより、私自身は行なうことができていない作業を呼びかける。もとは『現代思想』での連載で(その経過についてはあとがきに記した)、ずいぶん長く書いたのだが、それでも点描というほどのものでしかない。
 わかるのは、一つに、言論の反復、と言葉がぐるぐるまわって出ていかない空間の形成、そして閉鎖であり、遮断である。生成され、その言説がほとんどそのまま反復される。それとは異なる種類の言葉は遮断される。別の場所で起こっていたできごとはまったく別のこととされるか、そもそも知られない。そのことと、現実の閉鎖が起こり継続することとはつながっている。そんなことがあること自体はよくもわるくもない。ただ、本書で描く範囲については、それはよくなかったと思う。そんなこともあって本書を書く。
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 第1章では、今のうち調べておくことがあること、既に手遅れになりつつあるとともに、熱が冷めてしまっているために取り扱いができるということもあることを言う。ことのよしあしであるとか、あるいはこれからどうしているかを考える時にも、事実を振り返る作業には意味があることを述べる。
 第2章では、見取りの一つを述べる。もっと大きく見ることもできると思う。また別の面をみれば別の描き方があるはずであり、そうしたものもいくつか書いてはいるのだが、本書に即して、長々した話の前に、こんな部分があってもわるくはないと思った。
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 第3章では、国立療養所が結核、ハンセン病他の人たちの収容施設として戦後作られ、後者の人たちについては長くそこに残されながら、前者、結核療養者の減少に伴って、代わりに、筋ジストロフィーと重症心身障害(重心)の子どもを収容していった経緯を記した――「重心」という言葉はどうにもすわりがわるいが、仕方なく使う、そのため「 」があったりなかったり、一冊の中でも統一されていない。この部分が本書で最も長い。わりあい細かな話の部分もおもしろく思う人もいるだろうと思ったこともあり、長くなった。例えば、療養者の側の運動があって、それはそれで、これまで――書かれているし、私は調べなかったから、本書にはほとんど出てこないが――その勇敢な闘いが記されることがあった。ただ本書では、例えば、施設の経営者たちがそうした動き(のある部分)を迷惑がっているその様子が記される。ただその職員たちやその組合も、療養所の存続の危機となると、経営者に同調するといったこともあった。主に使うのは『国立療養所史』という四巻本(のほぼ二冊分)で、一九七六年ごろに出たものだ。一般に出回るようなものでない、仲間内の文集のような性格ももったもので、筆者たちは素直に回顧し、苦労話など語っている。「ガバナンス」などが言われる今どきであれば、もっと周囲に配慮するかもしれない――いや、今でもそうでもないと思うこともあり、その一つは『兵庫県立こども病院移転記念誌』というものに載った名誉院長の文章(池田恭一[2016])を読んだ時だった(本書36頁)。ただ、そうして語られる挿話は、本書の粗筋にも関わっている。つまり、誰と誰がどんな時に手を結んだり、また反目してたりして、ものごとが変わっていったり、また何も変わらなかったりするか、そんなことがわかる。
 第4章は「七〇年体制へ」。この章と第6章は、とくに中身があるわけでなく、これからものを調べ書く時の注意書きのような章だ。第1節では三つ確認する。一つ、糸賀一雄・小林提樹といった偉人についても検証はなされてよいし、また当たり前のことだが、その偉人と、偉人が作った施設は同じでないし、その施設とそれ以外の施設も同じでない。一つ、施設での自らの生活を維持し向上させようという運動と、子が暮らす場所を求めようとする親たちの運動には共通点とともに差異もある。一つ、政治・政策が引き受けるということは、同時に(例えばスモンについての政治・政府の)責任を曖昧に回収・回避する策であることがあることに留意すべきである。
 第2節では、記憶しているそう多くはない人々の多くにおいては肯定的に回顧される人たち、白木博次(一九一七〜二〇〇四)、椿忠雄(一九二一〜一九八七)、井形昭弘(一九二八〜二〇一六)、近藤喜代太郎(一九三三〜二〇〇八)について。この人たちは、位置取りは各々異なりつつ、相互に関係もある人たちでもあり、一人ずつとりあげる。みな亡くなった方々だ。生きている間に本書を読んでくださったら、はじめは少し喜んでくださるかもしれないが、読み終わったら、あるいは途中で、気をわるくなさったかもしれない(私は以前より年上の人に嫌われているという思いがあって、そのままここまで来たのだが、その年上の方々がいなくなりつつあるというのが、このごろのことだ)。私自身も、そのまま静かに去って行ってくださってかまわないという気持ちがないではない。ただ、やはりよくはないと思い、書いた。どのようによくないのかは、その部分を読んでくださればわかると思う。
 第5章では、一九六〇年代から七〇年代を国立療養所で過ごし、八〇年代に千葉県の国立療養所下志津病院を出て、千葉で暮らした高野岳志(一九五七〜八四)と、埼玉で暮らした福嶋あき江(一九五七〜八七)のことを書く。立派な方々は苦労が少ないのか多く長生きされると、統計的な根拠はなく、私は思っているのだが、その人たちは筋ジストロフィーの人で、立派であっても、早くに亡くなった。私は一九八〇年代の後半に、この二人が亡くなった数年後、福嶋については亡くなったその年かもしれない、その人たちのことを書いたもので知った。お会いしたことはない。そしてそれきりになっていた。このたび新たに読んだものも、多くはないが、ある。高野は一九八一年に、福嶋は八三年に病院を出ている。その前の生活、出る前後のこと、その後のしばらくについて、本人他が書いたものから辿った。この話も、「病院がいやになって病院を出たが、病気のために早くに亡くなった」、と短く縮めれば短くはできる。ただ、やはり第4章までの人々によって讃えられたその体制のもとでの生活が、実際に暮らす人にとってどんなであったか、そして、今でもそう多くはない、一度入院して(「死亡退院」という言葉があるのだが)生きてそこを出ることが、その時そこでどのように可能になったのか、またそうして出ることやその後の生活を何が困難にしたのかを見ようと思う。そして、それからずっと時間を経て、富山県に生まれ石川県の国立療養所で長く暮らして、二〇一七年になってそこを出た一人の人のことを少し紹介する。まずはただそんなことがあったとだけ言いたいのだ。
 あったとして、それはどんないわれで起こったのた。それか、一九七〇年代、そして八〇年代以降の社会をどう見立てるのかにも関わっている。ただそれを考えて書くことは本書ではなされない。第2章で肯定された各々に、その時、またその後、文句を言った人たちがおり、高野や福嶋とはまた別様に施設との間で問題を起こした人たちがいた。まずたんにそれらを列挙する。六三年、水上勉が社会福祉の教科書にも記される「公開書簡」を書いたのと同じ時、障害をもって生まれた子を死なせることを述べた。それに花田春兆が言いがかる。同じその六三年、そして六五年、同じ花田が、水上や、コロニー計画を進めようという政府や民間の有名人に不平を言っている。七〇年、先出の白木博次が所長を務めた府中療育センターで、当初はその処遇に関わって闘争が起こった。それは学生運動他で騒しかった一時期、比較的大きなメディアにも取り上げられ知られたこともあるが、すぐに消えていった。八二年、重心の施設の草分けである島田療育園で脱走事件が起こった。それも、ごくいっとき知られたかもしれないが、例えばそうした施設の「正史」に現れることはない。
 そうして、作られ維持されている世界において、せっかく苦労して仲良く作り上げてきたものなのに、と迷惑がる気持ちはわからないではない。ただ、それではやはり困る。どう考えればよいか。当たり前のことではあるが、終わらせるにあたって、いくつかを確認する。
 V
 言葉を、例えば本を、字を書かない人で生きているなら声を、集めることをしている。そのこととそれについて何を思っているかを記す。そして本書に関係する本をただ並べる。それだけではたいした意味はない。ただHPからはその一つひとつの本の情報に行ける。こういう話を私は大切だと思っているが、資料やそれを集めることについては別の本に記す。
             ◇
 長く続いた連載を本にしようと、もとの連載の原稿を整理していたら――結局それは、収拾のつかないおそろしい作業になってしまったのだが――何箇所かで古込和宏が出てくる。以下が初出のようだ。「国立療養所――生の現代のために・11 連載一二二」、『現代思想』二〇一六年四月号に書いたもの。

 ▼存じあげない、たぶん四〇台のデュシェンヌ型の筋ジストロフィーの方からメールで原稿を送っていただき、HPに掲載し連載で紹介した。匿名を希望されているので、(匿名)[2016]と表示する。一般に、(今どき)病院は「地域移行」に反対ではないが――そして経営が絡んで、強く求め、それを受け入れざるをえないことも一方ではあるのだが、筋ジストロフィーに関しては――身体の状態がよくない危険だということ、家族の同意が得られない(だから難しい)といったことが言われることがある。前者について。危機的な状態になることはありうる。(デュシェンヌ型の)筋ジストロフィーについて、自発呼吸の困難への対応はなされているが、心臓の機能については難しい。ただ、救急車と、病室での対応と、どちらがどの程度違うかといったことはわかった上での決断であれば、それを受け入れない理由はない。後者については、むろん「筋」としては不当である。ただ、その不当なことが言われることは多いようだ。
 とにかく普通人はわざわざものを書いたりしない。そんな余裕はない。四巻本を出せる人(たち)とそうでない人(たち)と違うのだ。そんななかでは、横田弘はわりあいものを書いた方の人だった。その人との対談(横田・立岩[2002a][2008])を含む本が横田・立岩・臼井[2016]。▲

 そんなふうに書いてあるが、まったく何も知らなかったわけではない。話はいくらか聞いていた。その後、「高野岳志/以前――生の現代のために・21 連載一三三」(二〇一七年五月号)、本書では第5章282頁に出てくる。なぜ連載(→本書)を書いているかの理由の一つとして古込のことを挙げている。それは誇張ではあって、そんなことがなくても国立療養所を巡って延々と書いていたはずではあるが。そして翌月、「高野岳志――生の現代のために・22 連載一三四」(同年六月号)、本書では第5章308頁。大人がただそこから退院するというだけのことに病院の許可がいるのは普通にまったくおかしいと思うが、という問いに対する返答を引用している。そして、「埼玉と金沢で――連載一四六」(二〇一八年六月号)でその人のことを書いた(第5章4節・382頁)。
 私はその人に直接会ったのは二度きりで、話したのもその時だけだ。その一度めは、多人数がいる会議室に本人を移動させることができない(その手前の、ベッドからの車椅子への移乗の際の看護者の人手が確保できない??)とのことで、短い挨拶の後は、同じ病棟内の会議室にいる私も含め七人ほどだったかと、六人部屋から出られない古込は、スカイプで交信する(させられる)ことになった記憶がある。二度目はその病院を出た後で、インタビューさせてもらった(古込[201801])。それ以外にとくに覚えていることはなく、まるきり貢献もせず、つきあいもなく、格別の思い入れ他はない。ただ、その連載をしている間はすくなくとも生きていてもらわないと格好がつかない、という、まったくもって身勝手なことは思った。病院を出た後、一時体調を崩して入院となったが、今はまたなんとかなっていると聞く。本書では唐突に思えるだろう、第5章4節3・4「懸念については」「別の懸念について」は、何もしていない私と違い彼にまじめに関わった二人にインタビューをして(平井[2018]、田中[2018])、思ったことから書いた。

■註
★01 ではこの国に住んできた人たちは、他と比べて、不幸であるのか。不幸ではあったかもしれないが、生きられてきたのはよかった。もっと簡単に手放されてきた地域はあり、それを支える思想があってきた。すると簡単に死ぬことになりやすい。生命倫理学・政治哲学における障害(者)の取り扱いのよくなさについてはこのたびのもう一冊の本([201811])にも書いた。
★02 施設についてはっきりと言いにくい中で、自らの否定的な経験がある人たちまた現実的な可能性がある人たちがはっきりしたことを語った。事件を特集した『現代思想』二〇一六年一〇月号では尾上[2016]と熊谷[2016]。脳性まひで、「リハビリテーション」を施設やあるいはキャンプでさせられて、よいことのなかった経験が描かれた。事件を受けた集会では知的障害の本人たちの組織「ピープルファースト」の人たちなどに施設についてはっきりしたことを語る人たちがいた。大切なことは、そうした発言を、「本人だから言える、が私は」と聞いて、黙してしまわないようにすることだ。
★03 白杉眞[2012][2013][2018]で介護派遣事業の「あがり」でかろうじてなんとか相談支援を成り立たせていること他、自立生活センターでの相談支援の現況(とすこし歴史)が描かれている。
 『精神病院体制の終わり』([201511])でも文献にあげた萩原浩史[2012][2014][2015][2016]は博士論文となり、それがもとになった書籍が刊行される予定(萩原[2019])。精神障害の領域での相談支援がうまくいかない様子とその歴史的経緯を含む事情が示されている。
 註のために空いている場所があったので、以下、連載時に紙数の都合で掲載しなかった部分を加える。
 岡原正幸[1990]以来、介助する/されるという関係の記述・分析があり、それらを含めた暮らし、支援・援助に関わる文献は多数ある。幾度か紹介することがあったが、比較的新しいものでは例えば、前田拓也[2009]、伊藤智樹[2010][2013]、渡邉琢[2011]、石島健太郎[2013]、等々。『不如意の身体』([201811])で紹介した天畠大輔の仕事もそれに含めることができる。ここには既に一定の厚みがある。とすると、この領域で研究して新しく成果を出すのはなかなか難しいということでもある。まだ言われていないことがどれほどあるかと考えると、まずはそうないということになる。
 他方、組織や運動や、その歴史についての研究は、多くはない。これから多くなってほしいと思う。自助組織についての研究は多くあるが、別の視角もあってよい。ときどき引き合いに出す本にドリージャーの本(Driedger[1988=2000]、もとは修士論文)がある。国・地域によって異なる事情が国際組織にどう現れるかが、そこで働いた著者によって記録されている。博士論文では的場智子[2001]。血友病者の(薬害エイズに関わるできごとによってその全国組織が壊滅することになる)組織のその事件の手前までについて『日本の血友病者の歴史』(北村健太郎[2014])。薬害エイズに関わる本は大量に出たが、ここではあげない。ALSの関連について『ALS』([2004111])の一部で触れており、そしてそこであげた組織の人たち、組織に関わった人たちの著作がかなりの数ある。その国際的な組織、国際的な活動については川口有美子の博士論文(川口[2013])。国によって組織が行なうことはかなり異なるが、研究のための募金活動、資金集めが中心になっている米国他の組織に比べた時、少なくともこれまでこの国の組織が行なってきたことの方がまだよいと私は考えている。なお川口の対談・インタビュー集である川口[2014]に収録されている川村[2008→2014]からは様々なことを知ることができるとともに、そこで語られないことをどう調べて書いていくかという課題があることが知らされる。
 社会運動の歴史に関わる博士論文、博士論文が書籍化されたもの十年分を、再掲を含め、並べる。山下幸子[2008]、定藤邦子[2011]、鄭喜慶[2012]、利光惠子[2012]、川口[2013]、深田耕一郎[2013]、北村健太郎[2014]、堀智久[2014]、篠原眞紀子[2018]。


UP:2018 REV:2018
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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