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この本はまず実用的な本で、そして正統な社会科学の本だ

立岩 真也 2018/09/30 

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仲尾 謙二 20180930 『自動車 カーシェアリングと自動運転という未来――脱自動車保有・脱運転免許のシステムへ』,生活書院,300p. ISBN-10: 4865000860 ISBN-13: 978-4865000863 3000+ [amazon][kinokuniya]

カバー写真


 この本はまず実用的な本だと思う。実用書の多くよりは値段が高いけれども、自動車を買うか買わないか、買い換えるか買い換えないかにはずいぶん大きなお金が関係してくるだろう。どうしようか考えている人、考えてもよいという人は、この本を買ってゆっくり読んで、考えるとよいと思う。まず第2章、六〇頁あたりをから読んでください。自分の車を持つのとカーシェアリングにするのとお金のかかり具合はどうかは一三八頁あたり。
 そしてすでにカーシェアリングをしている人にせよ、これからのことを考えようという人にせよ、自分がしていることやこれからするかもしれないことの位置、また「いわれ」を知ることは、それ自体けっこう楽しいことだと思う。自分が今していること、これからすることが、どんな流れの中にあるとわかり、自分のために、自分の身のまわりのこととして使っているものが、どのようにこれからの世の中にも関わってくるのかを見晴らすことができるということにもなる。どこをクリックするとどうなるというマニュアル本もあってよいけれども、原理とか成り立ちとかがわかった方が結局はよく頭に入るということはある。本書はそのような本でもある。第1部第1章をどうぞ。
 さて。カーシェアリングというものがあることはたいがいの人が知っていると思う。私もあることは知っていた。けれども、それが駐車場など経営している会社が参入し、ネットを使って、商売として、そこそこにやれていること、成長産業であることを知ったのは、仲尾さんが大学院にやってきたからのことだった。自分では自動車(自家用車)を使わないという事情もあるからだが、私は素朴に知らなかった。それで、近所の有料駐車場を通りかかった時にちらっと見ると――私は、京都市街の北、北区、北山とか上賀茂とか呼ばれる、仲尾さん(以下著者)と似たような辺りに住んでいる――駐車場の一角にシェアリングの車を見つけて、こんなところにあるのだと思った(五九頁・図1の上の方)。タイムズ24の人が語っているが(七五頁)、以前はなにか「エコ」なものとして聞いていたものが、普通の、自動車の利用法を提供する商売として、これまでになかった商売として成立している。そういうことが現に起こっている。そして利用者にとって「まずまず」のものとして存在している(七六頁)。


 地元の話の続き。京都市の市街地は十分にこじんまりとしているし、おおむね平らなので、私は自動車を使わない。というより純粋なペーパードライバーなので使えない。自転車に乗っている。だが、ホームセンターで苗を買ったり肥料を買ったりするときには、その荷をどうしようということはある。このごろは重いものかさばるものはネット通販をよく使うが、車が運転できるなら、カーシェアリングを使うかもしれないとか思う。他方私にとってレジャーとは酒を飲む(飲みに行く)ことだ。私的な空間にいてしかも好きなように移動して、移ろっていく外界の光景を楽しむというのはわからないではないが、飲めない外出は無意味なので、カーシェアリングであれなんであれ自分が運転してというのはないな、と思う。
 そんなことを思いながら読んでいき、私のまわりのことを思ってみると、このごろ景気がある部分の人々についてよいということなのか、ベンツやらポルシェやらをずいぶん近所でみかける。金が余っているなら使えばよろしいとは思う。顕示的消費というものはこの世から消えてなくなりはしないのだろう。ただ自動車について言えば、大きな波は引いたのだろうか。
 かつて、自動車で走るような道もそんなにない、そして買ったらとても高い買い物になるのに、とにかく車を持つのだという、その願いをかなえようという、そういう時期があった。そういう時代が形成されてしばらく続いたこと、その後のことも本書で辿られる。そして「おわりに」で著者は、自身の親が松田キャロルを買ったときのことを書いている(二六七頁)。そういえばそんな話も著者が論文を書く過程でしたことがあった。私の父親の場合は日産のサニーだった。父親は歩いて五分という職場に務めていたから通勤にはいらなかったが、買った。ただその後、母親の転勤はあったから、母親も車をもつようになり、二台とか三台とかが車庫にある典型的な田舎の車の持ち方になっていった。その父親はやがて、とても長い時間が経ってからだが、認知症になって、運転の方はまったく身についてしまっていて、できるし、したいのだが、どこにいるか行くかわからなくなるので、困った。後述もするように私の出身地は佐渡島で、自動車を運転する限りは島のなかにはいるはずではあるが、それでも困った。ごくまれに帰省した時のことだったが、私も鍵を隠してみたり、車を押しとどめてみたり、なんやか【や】あった。
 そんな時間のあいだに、社会全体としては、自動車を所有する利益は減っていったのかもしれない。消費・所有には、もっていない人がいるから、もとうとする面がある。みながもつようになると、一部の人たちのように立派なものをもって差異化しようというのでもなければ、さほどの魅力はなくなるということはある。欲望が飽和する。歴史がいったんひとまとまりし、車はそんなに強い欲望の対象ではなくなったのかもしれない。さらに、経済的な困難といったものもあるかもしれないし、他にいろいろと楽しいことが出てきたということもあるかもしれない。
 ただ、終わったことは終わったこととして、それを描いておくということはある。第2部「自家用車というしくみの発生」はそんな部分になる。ここは、博士論文を単行本にするにあたって、カーシェアリングの部分だけにして、コンパクトな本にという狙いでということか、外すことも考えたようだが、私はここは読みたかった。博士論文の時も、もっと濃く書いてもらった方がもっと楽しいといったことを言った記憶がある。筆者は、わりと自動車がすきな人で、けっこう書ける人だが、個々のできごとを書き連ねていくというより、ここは大きなデータから移ろいを調べていく。マニアな人が一つひとつにこだわって書く本もそれはそれであってよいだろうけれど、統計からでもこのぐらいのことが言えるという書き方で、辿っていく。こういう押さえ方の本があってよいし、この部分があってよかった。そのひとかたまりの歴史の後、ではこれからという話にもなっていく。


 そうして現状を記述し、過去を辿って現在を明らかにするのだが、著者には、さてこれからどうするのがよいかという関心がある。自動車を最初から愛している人と、交通政策を考える人、著者は、その真ん中にいることにした。最初からそういう位置どりだったのかもしれないが、さらに自覚的にそういう場にい続けることにしたのだと思う。おもに第3部から第4部がそういう話になる。
 すると話はしょうしょう面倒なことになる。最初から、二つの一つを切り捨てるということはしないということが、話を面倒にするということがまずある。そしてなにより、二つしかなく、そのうちの一つをとるしかないというふうにはなっていない。自家用車を所有・保有する、公共交通機関を使う、そしてカーシェアリングの自動車を使う。使い方にしても、自動車を使わない、使わなくてもすむという人がいる。他方、毎日通勤に使い、職場の駐車場においておく人とか、一日中仕事で使うとか、車が空いている時に使うという使い方ができない人もいる。カーシェアリングに適合的な使い方をする人、できる人もいるしそうでない人もいる。そして、大きな都市があり、中規模小規模の都市があり、そして田舎がある。そうしたなかで有意味なことを言うのはかなりたいへんだ。それがうまくいっているかどうか。もとになった博士論文を筆者が書いたとき、私はどのようなことを言ったのだっただろう。忘れてしまった。もうすこしうまく言える道筋があったのかどうか。あらためて検討しようかと思ったが、そして半日ぐらい考えてみたが、途中で終わった。またの機会にしよう。なお著者の文章はそっけなく思えるかもしれないのだが、それは著者が長年、公務員をしてきて、こういう文章が書けるようになってしまったことによる。そしてこういう文章は、話がうまくいっているかどうかを点検していくのにはよい文章でもある。
 ただ、まず一つ、カーシェアリングが、ある人々、ある使い方をする(しうる)人にとって合理的であることは十分に本書で言えている。その実用化に寄与したのが一つにIT技術だ。簡単に借りられないと、使いたい時間に空いているか、空いている時間はいつか、簡単に確認できないと、いやだ。ドアをあけるのも、しめるのも、金を払うのも、簡単でないと、気軽に使う気にならない。それが簡単になった。そして、自動車の所有・保有の価値が減った。するとカーシェアリングはありになる。
 そしてそれは、(公共交通機関以外の)自動車の使用を増やす場合もあるし減らす場合もあるとする。これもそのとおりだと思う。使うだけ支払いが多くなっていけば使用は抑制される。他方、金をかけて買い取ったものは使おうとする傾向が、とくにけちな私のような人には、ある。カーシェアリングは抑制の方向に働く。ただなにぶん便利だから、ちょくちょく使おうということになるかもしれない。もし――もし、だが――今までカーシェアリングが肯定される際、使用が減ることだけを言っているのだとすれば、そんなことはないという筆者の指摘はもっともだろう。そして、本人がよければよいと考えるなら、減っても増えてもどららでもよいということになる。ここまでもその通りだ。
 ただ他方でもう一つ、著者は交通政策のことを知っていて、そこにもっともな部分があることをわかっている。自動車は、混雑をもたらしたり、公害、事故を起こすことがある。すると、自家用車、というか市中に走っている車は少ない方がよいということになる。とすると、利用者にとっては使用が増えるか減るかはどちらでもよいとして、それを受けつつ、かつ利用量を減らすのにカーシェアリングはどう関わるか、あるいは減少に寄与するためにカーシェアリング、そして公共交通機関をどう配置していくか。その辺りの論の進め方がうまくいっているかである。述べたように、そこには多数の変数が関わっている。人が何を望んでいるか(当の本人だって)読めないところがある。だから現実からみていこうとするが、統計データからわかることには限界があるし、その推論の精度の問題もある。そこをどうやってやりくりして、言えるところまでどう言うか。言えたか。ここが腕の見せ所ということになる。そしてうまくいっているかを読んで考える。自分ならどう言うかと考える。社会科学の本を読む楽しみの一つはそこにあるし、その楽しみを本書は与えてくれるのでもある。
 それは著者の態度・姿勢から来ているのでもある。著者は都合のよい話はしない。カーシェアリングは自動車の利用量を増やす可能性もある、少なくなる可能性もある。何がどうなったら、また何をどうするかで、どちらに転ぶか。それを開いておいて、そして考えるという姿勢が著者にあって、それはよい。すると読者も、あとをついで考えようということにもなる。
 著者、仲尾さんは、なんと勤め先を辞めてしまった。まったくもって無謀なことであると思う。おそろしいので事情は聞かない。事情は知らないし、知りたくない。ただ、本書が「学的達成」であるとして、勤めというものは方向が決まっているものであるのに対して、学がなにか「中立的」なものであって、その方がよい、ということではない、とは言えると思う。私は学問が中立的である必要があるとは思わない。何が望ましいか、それを明示したうえで、その方向に現実を向けていく営為に意義はあるし、そういうものもまた学問であってよいと思っている。ただ、いい加減に丸めこむことはしない、それが研究であることの条件であるなら、それは支持されてよい。他方に、つまりは「ご都合主義」の世界がある。私の勤め先にしたって、まあそうだ。それは、基本的には、よくない。そんなことが著者の今回と今後に関係があるのかないのか。私は、生活の資を得るということは無条件に大切だと思うから、よいかよくないかでその大切なことが左右される必要はないと思うが、それはそれとして、事実と論理に対する誠実さというものはあってよいと思っている。本書はそういう方角を向いた本だ。


 自動運転になると使いすぎる可能性がある、ではどうするかという議論(二四四頁から)もおもしろかった。たしかに増えるかもしれず、それでは困ることがあるかもしれない。そうかもしれず、こういうことも考えておく必要があるということだ。
 それでどうするか。自家用車にしないこと(二四六頁)、使用について優先順位をつけること(二四七頁)という案が出される。車はたくさんいない方がよいという条件をよしとすると、いまの状況では移動が困難である人を優先するというのは、正当性を得られるはずだ。それはたんに必要度のより大きな人を優先するということではないと私は思う。移動のために、原理的・現実的に可能な手立てがあり、他の人たちがそれを実現できているのに、できない人がいるなら、その移動は実現されることが望ましい、ではなく、実現されるべき、なのだと言えるということだ。
 しかしそれにしても田舎はどうなるのだろうとは思う。その人たちは白い軽トラックをサンダルのように使っていて、方向指示器を出さずに曲がり、たいがい低速なので、そう危険はないのだが、突然止まる。そういうふうに生きている。駐車場のための場所には困らないし、自動車に金をかけているわけではない。あるいは他にかけるものがない。家と家の間が離れていることもある。カーシェアリングはよいが、そして大きな都市というのでなくても実現可能性があることは本書で示されている通りだが、本格的な田舎ではやはりあまり現実的でないように思える。
 ただ、本書が教えているのは、いろいろと考えてみたらよいということだ。私が十八までいた佐渡島の路線バスといったものは、いた時からさらに少なくなって、一日二往復とかだ。過疎の地域はどこでもそんな感じだろうが、それでも、そういう寂しいものが要らないかと言えば、要る。自家用車が使えない人は常に一定いるし、その割合は増えていく。足腰立たない人は田舎であろうが都会があろうが増えている。運転のためには足腰立たなくてもよいのだが、その車に乗り降りするのが難しいという人がいる。私の父親のような、そしてやがて母親もそうなったが、なかなかに難しい人もいる。自動運転はよいし、それに伴って生じる問題は本書でのように考えておく必要があるとして、実用化はしばらく先のことにはなる。そして自動運転でも、乗り降りやらは難しいということがある。すくなくともしばらく、人手は要る。
 人手を少なくしながら、人手を使い、交通のための仕事と、もっと身体に近い、今は介護などと呼ばれている仕事とを混ぜてしまうというのがあるかもしれない。
 もう三年前、『大震災の生存学』という本が出た(天田城介・渡辺克典編、二〇一五年、青弓社)。もっと早ければなおよかったのだが諸般あったそうで出版が遅くなってしまった本だが、私はそこに「田舎はなくなるまで田舎は生き延びる」という章を書かせてもらっている――じつはそこにも少しだけだが、交通の話は出てくる。どんなところでもすっかりいなくなるまでは人はいて、そして人手は結局余っているのだから、世話される人の世話することに人を使えばよいといったことを、そこで(も)言っている。
 例えば自動運転というものは、人から仕事を奪うからよくないということになるのか。基本的には、そんなことはない。仕事が減るということは基本的にはよいことで、人が余るということも基本的にはよいことだ。そして、余った分をうまく使っていけばよい。著者は見田宗介の著書から引用している(一〇〜11頁)。もう長く私は見田のよい読者ではないが、彼が言っているのはそういうことだと思う。工夫して苦労して人手がいらなくなったら、結局人手が削減され、結局人々は困ることになるだろうか。ならない。というか、ならないようにすることができる、というのが私の考えである。それを納得してもらえないなら、わかってもらえるまで書こうと思っている。
 具体的には、人が要る部分に人を使う。まず人をつける。その人は自動車を運転することもある。もう一人必要なら、もう一人つける。自動で動くようになるなら、そこは自動車にまかせることもあるだろう。
 そうしたなんだか境界のはっきりしない仕事には公金を使いにくい、そこは自分の金であるいはボランティアでどうぞ、というのがこれまでだった。しかしそれはまったく、まず田舎のためによくない。せっかくの(金になる)仕事を減らしているからだ。金は公金を使うべきだし、さらに金のある地域からない地域への移転としてその金は流すべきだが、その金を通って仕事をするのは、そのことも本書に書かれているが、誰だってよい。免許――ここでは運転免許(二三九頁)というより営業免許――に関わる厄介ごとはあるが、それも解決可能だ。
 そうしていくと、そのうち情報処理や自動運転の技術によって、省力化できる部分はあるかもしれず、それに応じて費用が減る場合があるかもしれない。しかし、かなり長い間、「公定価格」を維持する。維持するぶん、かかる費用を減らそうとする「インセンティブ」が働くかもしれない。と同時にその際一つ大切なことは、経営者よりは直接に働く人がその「あがり」をきちんと得られるようにすることだ。
 なかなかたくさん考えることはある。しかしそこが考えどころで、難しいがおもしろいところだ。本書は、そんないろいなことを考えさせてくれる。いろいろなことを考えさせてくれる本はよい本だ。


UP:20180926 REV:
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