『社会が現れるとき』拾遺
立岩 真也 2018/07/05
『UP』549(2018-7):26-31

◆2018/04/20 若林 幹夫・立岩 真也・佐藤 俊樹 編『社会が現れるとき』,東京大学出版会,384p.
※リンクはこれから
二〇一六年三月に山本泰先生が駒場キャンパスでの仕事を終えて、最終講義というものがあり、そういう種類のものに初めて出た――そこで先生が正統な社会学者であってきたことを、ほとんと初めて知って、感心した。私は一九八三年に東京大学大学院社会学研究科に入ったのだが、学部の時は指導教員が吉田民人先生だったのを、代えてみて、山本先生にお願いした。当時は駒場の教員を指導教員にすることができたのだった。
最終講義に際して記念文集が作られた。私の文章はごく短いもので、「先生の演習において河合塾の模試の採点をしていた等々の奇行――それが合理的な行動であったと思っていて、実は今でも思っている私は、たぶんそこが変なのだろう――は、だいぶ誇張されて、その後の人々によって語られていると聞くので、それは誇張です、と言うだけにとどめよう。/先生との会話で私が覚えている…一つは」と始まるもので、これで五分の一ほど。全文は当方が関係するサイトでご覧になれる。「山本泰先生とのこと」で検索すると最初に出てくる。その不肖わたくしは、山本先生が受け入れた最初の院生で、それが理由で、昔であれば『なんとか教授退官記念論文集』といったものになっただろう本を作ろうということになった時、編者の一人になった。あと二人の編者は佐藤俊樹と若林幹夫で、書名の決定もなにもかも、実際のところはこの二人と、編集者の宗司光治さんがやってくださった。私はほぼまったく何もしなかった。もうしわけない。
そして若林は第1章「「都市」をあることにする」、佐藤は最後の第12章の「自己産出系のセマンティクス――あるいは沈黙論の新たな試み」を担当。さらに若林は冒頭の「はじめに――「社会が現れるとき」と「社会学(のようなもの)」が現れるとき」を、佐藤は終わりの「社会は現れる――一つの解題として」を書いていて、これらは販売促進のためにも、ということで、HPに掲載させてもらってもいる(『社会が現れる時』で検索)。なので、この原稿は私がということになったのだろう。
おもしろい本なのだが、なにか一つのテーマについてのものではない。こんな場合にどうしたものか。これは考えてもわからない。ただざっと眺めると、あまり今どき普通でないものを書いているのは、中では古い人たちのようだった。大学院に入った順序では私、太田省一(八四年)、佐藤俊樹(八五年)、若林幹夫(八六年)、中村牧子(八六年)、中村秀之(八七年)、遠藤知巳(八七年)。
遠藤知巳は「境界としての「思想」――歴史社会学的試論」を書いている。近頃はこんな感じなのか、けっこうまっとうな道を行こうとしている、と思う。中村秀之の「映画に社会が現れるとき――『ステラ・ダラス』(一九三七)の言語ゲーム」を読む。まず、私は『ステラ・ダラス』という映画を知らなかったし、その映画を巡って種々の議論が重ねられてきたことをまったく知らなかった。その手前で、私は一九八五年頃、それまで年に三百本ほど映画館で観ていたのだが、行くのをやめたのだった。大学院は、何をあきらめるかを確かめていく過程であると思う。まずごく即物的に、自分の仕事(研究)をしながら金を稼ぐ、となると、あきらめねばならないことがある――それでもいくらか両立しようとなると、さきに書いたように演習中に模試の採点、となる。その間、中村はずっと映画を見続けて、そして映画に関わってものを書いてきた。そのことは知っていたが、彼が知って例えばここに書いていることについては何も知らなかった。たぶん、この本に収録されなかったら、最期まで知らずに過ごしただろう。皆さん読んだ方がよい。
で、その演習がどうなるか。遠藤や中村が今回の原稿(の草稿)をもってきて話したとする。佐藤が、「うーん」とか言って、「えーと」とか言って、何か言い出すと思う。若林は「えーっ!」とか言う。私は、私だけ長くすると、「気分はまあわかる、けど、やっぱりわからない、たぶん、これ違うと思う」とか言うかもしれない。そしてしばらく、ああだとかこうだとか話をすることになったと思う。そんなことを山本ゼミではしていた。そこは、普通に偉いことになっている人たちに遠慮する必要はなく、いわゆる闊達な空間だった。それは「言語研究会」という、今でもあるのか、研究会でもそうだった。というか、山本先生もその研究会の出身者だった、から私も、指導教員にというところはあったように思う。『ソシオロゴス』という、それよりいくらか広い範囲の人たちの、しかし、共通したところのある雑誌もあった(これは今もある)。そこには、どうしてかよくわからないところと「時代背景」がわかるところと両方あるのだが、大澤真幸であるとか宮台信司であるとか大きなことを早口で言う人たちが周りにたくさんいて、橋爪大三郎たちが始めたその研究会と演習の参加者は(さきに名前をあげた人たちの時期に)いくらか重なってもいた。
それはいくらかおもしろい場所ではあった。ただ、結局、それが先に述べたことだが、見切りをつける過程であったと思う。いつも論理的な最終の「詰め」まで行けるというわけではない。ただ、おおまかに、「この(種の)話はこの辺りで止まるな」とか「繰り返しになるな」と、だいたい、思える。その他各種の話、流行りの話のだいたいの範囲(限界)がわかる。周りで話をしている人たちが頭がまわる人たちであることはまず確かで、そこでなされる話がこのぐらいだとか、私の論にも一定の耐性(批判・論難に応じられる可能性)があるようだとわかる。もちろん自分一人である程度の量のものを読んだりする必要はあるのだが、私は修士課程まででそれはやめた。やめても大過なかろうと思った。金を稼ぎながら、自分がしようと思う仕事をするには手間と時間がかかるわけだから、ある範囲(外)の話にはあまり付き合わなくなる。それでもおおまかには外れていない。そのことがわかるための場所として大学院は役に立った。
たぶんそれは、いつのどこの大学院にいても経験できることではなかったと思う。今の私の勤め先は大学院だから、今でも「これ違うと思う」とか大学院生に言ってはいる。ただ、それは、客筋(大学院生というお客さんの「手持ち」)を読んだうえでの、たぶんに教育的なものだ。この時、私は「知っている人」として振る舞い、語っているのだが、それはなにか近頃のいろいろを知っているからではない。だいたいこの世のこの種の話とはこの辺で止まるとか、回るとか、という見立てのもとで言っている。そしてその偉そうな態度は、多くは、普通に、論理を何段か重ねていけばこうしかならないという作業をすこししてみればそうなるはずだということでしかない。ただいくらかは、かつて、いろいろとたいへん物知りの人たちから耳学問したことがあり、空中戦的な議論から得たところがある。その「世界観」を語ることは、私の勤め先では、ない。その「見立て」に基づいて、こんな具合に仕事(研究)をしたらよい、こうするとうまくいかない(と私は思う)と話すのが私の仕事だ。
そして私自身も、普通のことを普通にやっていくことにした。そうして仕事をやってきた。切り捨てて省力化して、さぼるところはさぼってきた。だから効率的に、かつだいぶ長くやってきたはずだが、その狭い範囲内での仕事でさえすこしも終わらない。
だから、古い人たちのなかで例外的に「たいらな」話をしているのはまず私なのだが、もう一つ、第6章「「素人」の笑いとはなにか――戦後日本社会とテレビが交わるところ」も普通におもしろい。それを書いているのは太田省一で、私より1年遅く大学院に入ったと思う。その太田はいっとき、市野川容孝、加藤秀一、そして私といったあたりと「BS(バイオ・ソシオロジー)研究会」というものをやっていて、十九世紀イギリスの優生学についての論文などを読んだりしていたのだ。そして太田はそういう主題でいくつか論文も書いた。だが、どうもしっくりこない感じが本人にあったように思う。その太田が、その間なにがどうなっていたのか知らないが、『社会は笑う――ボケとツッコミの人間関係』(青弓社)で再デビューするのは二〇〇二年で、それ以来順調にそのラインでやっている。今回のものは、おおむねテレビ東京の話で、テレビ東京について種々がわかるというか、なるほどと確認される――映画をまったく観なかった数十年の後、ここ数年、しかし仕事をしないわけにもいかないので、仕事しながら、画像を見ないでアマゾンプライムのテレビドラマシリーズ他(今ついているのは『孤独のグルメ』)をずっとつけているというのをやっている――というか、おもしろい。
そして私の普通の話は、第7章「でも、社会学をしている」になっている。ほとんどものを新たに考えるということをせず、たいがいひどく字を書くのに手間のかかる私としては、ささっと書いてしまった。八〇年代から九〇年代、そしてそれ以降、どういう経路で、どんなことを考えることにしたか、書いたか、同時に、どんなものは読まずにスルーしてきたかといったことを、時間のうえに連ねながら書いた。
仕事の「本体」のほうはどうせ別のところで続けるから、この本では、さらに舞台裏というか楽屋落ちというか、そんなことを書こうかなと、他の編者には言ってみて、それで許されそうだったので、そんなふうにとも思ったのだが、ほぼ何も覚えてないに近いことがわかって、書こうにも書けなかった。佐藤と若林は山本先生と山本ゼミを愛しているわけで、いろいろと書くことはあるに違いないのだが、私の記憶に残っている部分は、という以前に経験した時間も、少なかった。
それでいくらかそこでの「勉強」のことも含めつつも、結局は私(の仕事)のことを書いた。目次は以下のようになっている。1「それでも社会学をしていると思う1」、2「そう思う2――社会の分かれ目について」、3「社会的、はパスした」、4「もっとよくできた話も結局パスした」、5「代わりに」、6「ポスト、もパスした」、7「戻って、素朴唯物論は使えるかもしれない」。
当時駒場の教員であった人としては見田宗介(真木悠介)、廣松渉もすこし出てくる。当時、やはり指導教員にすることができた見田を選ばなかったのは…、といった辺りのことも書いている。実はもう三度めのことだが、廣松渉についてはその――その人に限らず前衛主義全般にある――革命論の困難について。私は、その革命論の、というより革命の困難という感じ、からものを考え始めたところがある。それとはあまり強い関連はないが、虚しいなあと思いながら、「反東大百年」といった運動にいくらか加担していた人でもある。だから、ものを考え始める場所が他の多くの人たちとは異なっていた。学生運動というのは既に当時十分マイナーで、その後はもっとそうだった。だからそのゼミで浮いていたということはない、と私としては思う。ただ、問い(が詰まっているところ)ははっきりしていたから、あとは自分でやるしかないと思って、学校の方はさぼり気味だった。それでも、あとはさぼってもかまわないという「信」を、山本ゼミその他は私に与えてくれた。そんなふうに思う。そして、山本さん自身もまた、聊か屈折したかたちではあるが、私たちのすこし前の七〇年代を生きてきて継いできて、それが皮肉なようで皮肉でない山本さんを作っていたように思う。それで私は、明確に重要な学的貢献である『儀礼としての経済――サモア社会の贈与・権力・セクシュアリティ』(弘文堂)とまた別に、山本さんの「規範の核心としての言語――沈黙論の試み」(『ソシオロゴス』三、一九七九)といった論文が好きだったように思う。学部の時には吉田民人先生にゼミで、それでもよかっただろうに、あの――無理なさっていたのではないかとも思うのだが――元気さにずっと接しているより、山本さんの静かで斜に構えた(ように見える)感じに付いたのだろうと思う。
最後に、再掲も含め、この本に収録されている論文を順番に紹介しておく。第1章・若林幹夫「「都市」をあることにする」、第2章・西野淑美「空間の自由/空間の桎梏――都市空間への複数のリアリティ」、第3章・中村牧子「近代日本における地位達成と地域の関係――戦前期生まれ著名人の中等教育歴が語るもの」、第4章・五十嵐泰正「「商売の街」の形成と継承」、第5章・砂原庸介「誰が自治体再編を決めるのか――「平成の大合併」における住民投票の再検討」、第6章・太田省一「「素人」の笑いとはなにか――戦後日本社会とテレビが交わるところ」、第7章・立岩真也「でも、社会学をしている」、第8章・相馬直子「社会が溶ける?――日韓における少子高齢化の日常化とジレンマ」、第9章・遠藤知巳「境界としての「思想」――歴史社会学的試論」、第10章・鶴見太郎「想像のネットワーク――シベリア・極東ユダヤ人におけるアイデンティティのアウトソーシング」、第11章・中村秀之「映画に社会が現れるとき――『ステラ・ダラス』(一九三七)の言語ゲーム」、第12章・佐藤俊樹「自己産出系のセマンティクス――あるいは沈黙論の新たな試み」。