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星加良司『障害とは何か』の1の11

「身体の現代」計画補足・455

立岩 真也 2017/12/31
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/1990323987901245

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立岩真也編『社会モデル』表紙   星加良司『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』表紙   『現代思想』2017年12月号 特集:人新世――地質年代が示す人類と地球の未来・表紙   榊原賢二郎『社会的包摂と身体――障害者差別禁止法制後の障害定義と異別処遇を巡って』表紙

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 もう私の連載の第141回が掲載されている『現代思想』2018年1月号が発売されている。
http://www.arsvi.com/m/gs2018.htm#01
その前、『現代思想』2017年12月号の特集は「人新世――地質年代が示す人類と地球の未来」
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#12
連載は第140回。「星加良司『障害とは何か』の1」。分載の最終回。『現代思想』買ってください。ただ、立岩真也編『社会モデル』
http://www.arsvi.com/ts/2016m2.htm
の購入者には、この回の原稿を収録した増補版を無償で後日提供します。

 「「社会モデルは、社会が障害を補う責任を負うべきだと言い、社会が補うべき障害の側面や範囲をディスアビリティと呼び、補えない部分をインペアメントとした」(石川[2002:33])という記述を引いて、このように「呼ぶとすると、何について社会が解消責任を負うのかが予め特定されていなければ、ディスアビリティを特定することもできない。しかし、それを特定する基準は用意されていないばかりか、そもそもそれをディスアビリティという現象の特有性に言及することなく特定できるのかどうか疑わしい。[…]一般的な責任帰属の線引きを適用することによってはディスアビリティ現象を十分に焦点化することができず[…]、帰責されるべき問題の特定化という作業そのものがディスアビリティの認識論を含むことにならざるを得ない[…]。そうだとすれば、帰責性による解釈においては二次的ないし付随的な位置に置かれている。社会が解消責任を負うべき不利益とは何であるのかという問い自体が、むしろディスアビリティ認識についての一次的な回答を準備することになっており、その意味で冗長な理論構成を採っていることになる。」([57])
 まず私(たち)は――引用された石川の文章では、「障害」が二つに分けられるという仕組みになっているから、二つを合わせたものとして、どう訳すのかわからないが、「障害」があるとなっていたのだが――社会が義務を負うものがすなわち障害、ディスアビリティであるという言い方はしていない。社会が責任を負うべきことは種々いろいろとあるだろう。だから責任を負うべき対象がすなわち(普通の意味としての)障害であるとは、当然、なりえない。明らかに広すぎるし多すぎる。それはまったく明白だから、そのように規定していないことも明らかである。私(たち)は、「社会モデル」、むしろそんな言葉がなかった時代から言われてきたことの意味・意義を述べている。
 「排除」と呼ぼうと「不利益」であろうと、そこに含意されているのは不当な排除、不当な不利益である。その不当さは何に求められるのか。自分で勝手にその不利益を解消するのはかまわないとされるとしても、そうして解消されるわけではなく、だから困っている。さらに、それは個人的に解消・軽減されるべきものと言えない。とすると誰が行なうのかということになる。それをまずは大雑把に言うと、「社会」が、ということになる。では実際に何についてなぜどれだけ社会的責任があるのか。これはむろん「社会的には」なかなか定まらないし、人により立場により変わるだろう。そのうえで、私は私で、なにをよしとするかはっきりさせようとしてきた。しかし、それで皆が一致するといったことはまずない。規範的な議論をするとはそういうことだ。それは、ことの是非を問題にする限り、何にしてもそうだ。例えば、星加は規範的な意味合いを付した不利益(不当な不利益)を立てるのだが、これにしても何が不当な不利益であるか、把握・主張は分かれる。正当/不当を自らの論に取り込むならば、必ずそうなるのだし、それは仕方のないことであり、定まらないことを問題にしても仕方がない。
 さらに、これは原因論について論じられている部分で社会モデルの主張への批判として言われていることだが、個人と社会の二項対立云々といった批判はあたらない。その「社会」とはもちろん個人と無関係な社会ではない。社会が義務を負うと言う時、その人自身には義務がないということでもない。義務の分布が問題なのである。
 だから、ここまでのところでは、星加が検討し批判し棄却したものは捨てたものではないということになる。では、代わりに何を星加は示すか。次回それを検討する。」


 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20172455.htm
にもある。


UP:2017 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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