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旅行に関わる追加費用について:増田英明、ボストンに行く・続

「身体の現代」計画補足・442

立岩 真也 2017/11/27
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/1975047002762277

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横塚晃一『母よ!殺すな』表紙   『弱くある自由へ』表紙   『差異と平等――障害とケア/有償と無償』表紙   立岩真也『ALS――不動の身体と息する機械』表紙

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 74歳、ALS、増田英明、「人工呼吸器を着けてもっと生きようよ」を伝えに、本人だから伝えられる言葉を国際学会で…。→
 http://www.arsvi.com/w/mh09.htm
 寄付集めを続けていて、お願いです、ですが、それはそれとして、「本来」どうであるべきか。という話はある。
まずツィッターで引用した横塚晃一の文章。

◆2017/11/20 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/932430555093778432
 「「我々に向って集めた金で旅行することが悪いというならば…生活保護や年金で結婚し子供をつくるなどということは大変いけないことであり、そういうならば我々働けない者は生きていること自体贅沢だと」横塚晃一『母よ!殺すな』→http://www.arsvi.com/b2000/0709yk.htm …/MSCは公務ですが→http://www.arsvi.com/w/mh09.htm

 ごく短い引用であり、もとの文章もごく短いが、いろいろと考えるところはある。それはまた。以下は、『差異と平等』
http://www.arsvi.com/ts/2012b1.htm
中の関連する記述。「誰が払うか」という話の手間のところ。

 「私自身がまとまった形でこのことについて述べたのは、まず[2000b](『弱くある自由へ』[2000c]に収録された)においてだった。加えて、前節までのことを書いた。妥当な生活水準が設定されるなら、その総額をどのように使うかは基本的に各人の自由であるとした後、その使用に際して付加的に必要な部分について、その費用が支給されるようにすればよいとした。ほぼそれでいけるはずである。すこし詳しく説明し、付随して存在する幾つかの論点を考えておく。
 さきに見た所謂所得保障(T)の場面に戻ろう。そこには制約がたしかにあった。その人の生活は分けるものを分けた(具体的には貨幣として手元に渡った)──現実は現実的に決まっているのだが、私(たち)はその水準を引き上げることを求めた──その水準によって制約される。その総額の範囲内で何に使うかを決定することになる。誰もがいくらでもしたいことを行なうことができるわけではない。その上で、あるものに多く使うこと、その総額をどのように使うかは各自に委ねられた。そしてそれは正当なことであるとされた。例えば、そう頻繁に金のかかる旅行に行くことはできない。ある程度の制約はあるのだった。
 基本的にはその延長上で考えればよい。(T)の総額をどのように使うかは一般に自由だった。その中で何について消費するかを各自は決める。そこで例にあげたのは海外旅行だった。総額の制約内でやりくりして、年に二度海外旅行に行く人もいるし、一度の人もいるし、行かない人もいる。それと同じことをここでも認める。すると、二度行く人にはそのことに関わる追加分の費用、一度の人には一度分の費用が払われるようにすればよいとした。
 このようにして、同じことをするのに、今ある社会のもとでは、費用が余計にかかることがあり、そこでその部分を補填するということである。するとその追加費用を得ていない人と同じ結果、結果というよりは結果のための手段が得られることになる。ここで他の人々に認められている以上のことはなされていない。とすれば、普通の、望ましい水準に設定された収入によって人々が行なう範囲について、そのために──多数派用にしつらえられたこの社会において──余計にかかる部分が支出されればよいということになる。こんなところでよいのではないか。
 もちろん現実には、人々はここで想定している水準のものを得ていない。しかし仮想することはできる。おおまかに考えて、得たとして、そのために追加する部分がいかほどになるのかを考える。下回っていることは確実に言える。だから要求を続け、獲得しようとする。その程度でかまわない。
 以上は、格別に贅沢な生活をしたいわけではない、機能・能力の差異によって生活に大きな差がつけられることはおかしい、自由な生活とそのための──各自の事情に応じた──手段が提供されてよいという平凡でもっともな──と私には思える──主張をいくらか具体的にしてみただけのことだ。他方で、(日本ではあまりなされていないが)学問の世界では「どれだけ」を巡って幾多の議論がなされてきており、前節で簡単に紹介したような具合で、堂々巡りのようにも思える議論はなされてきたのだが、以上のようなことを述べた人を具体的には知らない。(前節では齊藤の簡潔な要約を紹介したが、次の本では、堀田が障害が「政治哲学的に」あるいは「生命倫理学的に」どのように把握されてきたのかを含めより詳しく紹介・検討してくれるだろう。)今述べてきたのでよいなら、難問はそれほどの難問ではないということになる。だからまずは記しておいてよいと思った。
 そして使われてよい手段は、直接に人を使うこと、そしてその人あるいはその人に仕事を依頼する人への個別の費用の支払いに限られない。例えば車椅子や人工呼吸器等々を使う人でも飛行機に乗れるようにすることを航空会社に義務づけ、その費用を負担させるといった方法もある。全体に義務づけるのであれば(さらに企業の規模に大きな差がないといった条件があれば)企業の競争力に差は出ず、実効的なものとすることはできる。そしてそれは結局、利用者全体がその自らの利用に応じて費用を支払うことにもなる。あるいは直接に税を使ってその環境を整える場合もある。いずれがどの程度どんな理由で望ましいかといった論点はあるが、ここではそれは略してよいだろう。ともかく、個別の費用がかからないように交通その他の設備を整えることもありうるし、その方が合理的で、さらに費用がかからないこともあるだろうということだ。
 他方に個人に出すのが適切な場合もある。どちらの方がよいかは場合による。私自身はむしろ政府による供給・規制に否定的な見解を述べたことがある。基本的に政府は集金と個人に対する配布に徹することにし、その個々人が持ち寄って「公共的」なものを作ってもよいかのではないかと述べたのである。個人への支給は一つには生活、その生活における好き嫌いのあり様は相当に自由であってよいだろうという価値から支持される。また少なくともこのような視点で過去から現在に至る金の使われ方を見直してみることである。実際の税金の使われ方を見た時、この視点をとることに一定の意義はあるはずである。例えば何かが作られたとしてそれが誰によって使われることになるかである。それがもっぱら生活水準において中以上の人たちのために使われるといったことはよくある★13。ただ、すくなくとも以上は、現物を用意することを全面的に否定することではないということである。このことは先にも述べた。
 すると次に、実現可能かと問う人はいるだろう。それに対しては可能であると答えることになる。その説明はここではしない(上野他編[2008]収録の[2008a]、前掲した上野・中西編[2008]収録の[2008c]等で同じ話を幾度もしている)。それは実現可能性の問題についての──それ自体はもっともな──疑義だが、それ以外に今述べた限りのことについて疑義があるだろうか。私には思いつかない。」


 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20172442.htm
にもある。


UP:2017 REV:
増田 英明  ◇病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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