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手を挙げことに何が作用していた(いる)のか:樋澤本に・4

「身体の現代」計画補足・438

立岩 真也 2017/11/17
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1971602936440017

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樋澤吉彦『保安処分構想と医療観察法体制――日本精神保健福祉士協会の関わりをめぐって』表紙   『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』表紙   『造反有理――精神医療現代史へ』表紙

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 樋澤吉彦2017/10/12『保安処分構想と医療観察法体制――日本精神保健福祉士協会の関わりをめぐって』
http://www.arsvi.com/b2010/1710hy.htm
に「不可解さを示すという仕事」
http://www.arsvi.com/ts/20170028.htm
という短文を書かせていただいた。
◇2017/11/26 「義務、だと思う:樋澤ts/20170028.htm本に・1――「身体の現代」計画補足・426」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1962581570675487
◇2017/10/28 「審査報告書再掲:樋澤本に・2――「身体の現代」計画補足・427」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1962581570675487
に続く、その分載の第3回。

■手を挙げことに何が作用していた(いる)のか
 この「論文審査の結果の要旨」には、ときどき、この論文はこう読む(こう読△296 んだらおもしろい、こう読むしかない…)という文章を書けることもある――そういうものの幾つかをそのうちホームページに掲載することにしよう。樋澤さんのはそうはうまくいかなかった。「結局何が起こったんでしょうかね? 何か見つかりますか?」といったやりとりを、論文提出の前、何度かしたように覚えている。はっきりした「証拠」はでてこなかった。むしろ、はっきりとした方針の転換、転換にあたっての根拠の提示といったものが「なかった」ことがこの論文で明らかにされたと言うべきか。
 それはとくに珍しいことではない。むしろよくあることだ。だからこそ、こういう論文は書かれねばならない。はっきりした派手なことなら、わざわざ調べるまでもないことがあるが、そんな変化でない変化があり、そしてその変化は、人の生活を変えることもある大きな変化だ。論文→本書はそれを捉えている。
 その上で、なぜこういうことなったのだろうと、やはり思う。そしてそれを示すようなものは?、と私はずっと樋澤さんと話していたのだが、いうのがさきの話だ。ただ、例えばこの変化に関わった組織(協会)の関係者に仮に話を聞けて何かがそこで言われたとして、ではそれが「答」かといったらそういうものでもない。そこが難しいところでもあり、大切なところでもある。人の「語り」だけを取り出すのが仕事であると割り切って、そしてその自分がしていることがどんなことであるかわかっているなら、そんな人もいてもよい。ただ、「なぜ?」という問いはそれと別に立つ。その答は確定することはないだろうが、では、これまでとそして/あるいはいまと別様に現実をもっていくためにはどうしたらよいのだろうと考えるためには、必要である。むしろ、極端なことを言えば、変化のための条件を考えるために、ものごとの生起・変容の要因・条件を考えるという作業が要請され、その要請に応えられるならその作業に意義があるということになる。△297
 何があるだろう。まずわかっているのは、この組織(の人たち)がこの医療観察法関係の仕事をしたがった、したがっているということだ。なぜだろう。医療社会学的な言い方では、専門職は常に自分たちの仕事の範囲の拡大を求めているのだということになるか。ただこれも常に、ではない。例えば金にならない仕事、ならなくなりつつある仕事からは引こうとすることがある。だが、たいした収入にはならないとしても、そして時には自分たちでとうていやれきれることでないと思える(思えるはずの)仕事であっても手放そうとしないこともある。面子?、使命感?、自分たらの技能他を(過度に)高く評価すること? そんなものも含みつつかもしれない、仕事の範囲の、量の、収入の(そしてこの三つは必ずしも相伴わない)確保し拡大しようとする力・動きを見ていくことが私は大切だと思っている。そしてその際、その同業の組織の「上のほうの」人たちと、普通に働いている人たちと、ときに前者を兼ねることもあるその職に関わる教育に携わる人、そうした学校を経営する立場にいる人たち、とそれぞれのおもわく、利害も同じであったり違ったりすることも考えにいれておく必要がある。現場で働いている人たちは、面倒で実入りの少ない仕事などやりたくないと思っているのだが、業界や学界を背負っている(と思っている)人たちはそうではないといった具合にである。面倒な仕事であっても、例えば政府からの依頼を引き受けることによって、政府からなにかを得られる(かもしれない)といった計算が働く場合もある。
 「終末期医療」「医療的ケア」等々で私もそんなことを、つまり様々な利害や思惑の錯綜を見聞きしたり、いちいち紹介しないが、何冊かの本に書いたりすることがあった。ここでもなにごとかが起こっているのかもしれない。そうすると、この医療観察法関係の仕事、そして以前に「P」――精神のほうの医療ソーシャルワーカー(PSW)のことを、ときにいくらかの自嘲(と自負?)とともに「P」を呼ぶことを私△298 は樋澤さん「たち」とつきあようになって知ったのだと思う――の仕事がどんな位置づけになっているのか、なってきたのかを知る必要がある。例えば、行政や医療・福祉の組織にその資格者を置くことが規定されていない職種の人たちは、たしょうわりに合わなくても自分の「場」を欲することがあるかもしれないのだが、Pの場合はどうか、とか。」


 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20172438.htm
にもある。

UP:201707 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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