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表わすこと3(分載8)

「身体の現代」計画補足・436

立岩 真也 2017/11/12
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1970225143244463

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立岩真也『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』表紙   立命館大学生存学研究センター編『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』・表紙   立岩真也・有馬斉『生死の語り行い・1』表紙   『現代思想』2017年11月号 特集:「エスノグラフィ――質的調査の現在 [岸政彦責任編集]」・表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』(立命館大学生存学研究センター編[2016])は
http://www.arsvi.com/b2010/1603rcav.htm
そして「この度の[201708]」は『生死の語り行い・2』
http://www.arsvi.com/ts/2017b2.htm
 以下、「不如意なのに/だから語ること」分載の8回め。
 「エスノグラフィ――質的調査の現在」が『現代思想』11月号の特集。
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#11
https:/twitter.com/ShinyaTateiwa
などでも紹介している。  拙稿はそれとは別の連載(第139回)。
http://www.arsvi.com/ts/20170139.htm
以前書いた部分に加え、9月号からの部分をつなげて来年まとめて本にしようというものだが、特集にもいくらか関係はある、と思っている。それを分載していくが、一部しか載せられない。『現代思想』買ってください。

 「■表わすこと
 […]
 以上は、自らにおいてよくないことを語ること、語らざるをえないことについてだった。連続しつつ、しかしいくらか異なるところのある行ないとして、例えば私の死について、私の病について、その意味・意義を語る、問うという行ないがある。やはりここでも、その全体を否定するのでなく、しかしときにそんなことをしなくてよいのに、と言うことはできるし、言った方がよいことがある★11。
 私自身もまた、これまで、死について語ることないと思いながら、安楽死尊厳死と呼ばれるものについて書いてきた([200809][200903]、立岩・有馬[201210])。語られ主張されることの中味・論理を取り出し反駁することをしてきた。既に語られてしまうことがあって、それが違うと思うならそれについてさらに何かを言うことをせざるをえない。ただ、それとともに、それ以前に、語ってしまうことがどんなことであるのか。
 今年電子書籍としてだけ出した四つめの本([201708])で、死が隠されているというこの時代にあって、どれだけ多くの同じことが語られてきたのか、書籍(名)を並べることをした――各々の本の紹介はリンク先のページにある。「良い死」「美しい死」といった題の本が、私のものを含めて一五冊。「死を見つめる」「死に向き合う」といった題の本が一七冊。「私の死」「自分らしい死」といった題をもつ本を二五冊。「私が決める」といった類を――安楽死尊厳死とはそういう死だが、それら全般は省いて――一四冊。
 なぜ並べたのか。それは説明を要しないと思ってしまっているところがある。言われている多くはもっともなことの一つひとつについて書くことの徒労を思うところもある。ただ書かれることについて書くことから逃れることができないのなら、結局、明示的に語るべきなのだろう。ただここでは簡単に。
 多く、「これまで死について語ることがタブーになってきた」が枕詞にされる。忌避されてきたという判断がある。そうかもしれない。ただ、そのように語られる根拠といえばずいぶん曖昧だ。これまで語られてこなかったというのは書き出しとして定型的だが、ここでは、語られてこなかったという既にある語りが、自らの語りにおいて反復されている。書き出しが紋切り型であることにこだわらない、むしろそうでなければならないとさえ思ってしまっている人がいるということでもあるのだろう。
 そして、たしかに私が死ぬのではあるし、その私は苦・不快が少ないなかで死にたいのももっとなことだ。そのうえで私の死を語ることについて。「主体化」という言葉があった。『性の歴史』(Foucault[1976=1986])の中に出てくる性という言葉を死に置き換えても意味の通る箇所があることを[200505]という短文で述べ、この度の[201708]に収録した。「私の」とされることによって、その私が私にとって大切な私であるなら、私はその対象をなにかよいものとしたい、しておきたいと思い、その対象に対して責任を負うことになり、そのことによって、私はその対象に規定されてしまい従属してしまうことになる。こうして派生していくその全体を受け入れるのがよいのかということである。
 さらに、さすがにこの時代であるから、答えは予め用意されていないとされる。「良い」とは言われるものの、何が良いかは決まっておらず、それは「探求」される(べき)ものとされる。決まっているなら話はそこで終わるのだが、探求されている間ずっとそれは私に纒わりつくことになる。それは必要なことでもよいことでもない。そのことをもっと言葉をつくして説明する必要があるということなのだろう★12。」

 「★11 苦痛を表わすことについて書いた人としてスーザン・ソンタグがいる(Sontag[2003=2003])。その人は、知られているように、結核やエイズといった病がなにかを象徴してきた事実を記しながら、病があくまで即物的に捉えられるべきことを書いた人だ(Sontag[1978=1982][1989=1990])。そしてその人は癌で厳しい闘病の生活を送った後亡くなったが、そのことをその子である人が書いた本(Rieff[2008=2009])がある。
★12 私たちが関わる人たちの研究の一部ずつを収録し活動を紹介した『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』(立命館大学生存学研究センター編[2016])私はその「補章」([201603])を担当し、その中の「語らなくてすむこと・埋没すること」で山口真紀の仕事(山口[2008][2009][2012])に触れている。そして、アーサー・フランク(Frank[1995=2002]等)を呼んだ企画(その報告書は有馬・天田編[2009])で話が噛み合わなかったことも書いてある。その企画のためにその『傷ついた物語の語り手――身体・病い・倫理』を読みながら書いた註が『良い死』にあった。
 「第6章「探求の語り」が私にはよくわからなかった。わからなかったというか、必ずしも受け入れる必要のない前提を共有して初めて理解できる章であるように思った。[…]
 語りたくないのであれば、そして/あるいは語ってよいことがないのであれば、語らずにすませるためにも、私たちは、たとえば歓迎できない出来事が起こってしまった時に何を語ってしまうのか、それを分類し、並べ、それぞれの得失を計算したりする必要がある。山口真紀[2008]がその仕事を始めている」([200809:232-233])。」


 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20172436.htm
にもある。


UP:201707 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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