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表わすこと(分載6)

「身体の現代」計画補足・434

立岩 真也 2017/11/06
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1969962629937381

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『自閉症連続体の時代』表紙   『現代思想』2017年11月号 特集:「エスノグラフィ――質的調査の現在 [岸政彦責任編集]」・表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 大野真由子は
http://www.arsvi.com/w/om24.htm
[201408]は拙著『自閉症連続体の時代』
http://www.arsvi.com/ts/2014b1.htm
 「不如意なのに/だから語ること」分載の6回め。
 「エスノグラフィ――質的調査の現在」が『現代思想』11月号の特集。
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#11
https:/twitter.com/ShinyaTateiwa
などでも紹介している。  拙稿はそれとは別の連載(第139回)。
http://www.arsvi.com/ts/20170139.htm
以前書いた部分に加え、9月号からの部分をつなげて来年まとめて本にしようというものだが、特集にもいくらか関係はある、と思っている。それを分載していくが、一部しか載せられない。『現代思想』買ってください。

 「■表わすこと
 こうして、隠されたり無視されたりするのだが、他方で、まただからこそ、語ること、語られざるをえないことがある。本人が語ることもある。他人(たち)が画像を示したり、語ることを促したりということもある。
 隠されてならないこと、明らかにされ示されるべきであることがたしかにある。例えば相手の不正を糾するために、その証拠を示そうとすることがある。そうしたことはとても大切であることがあって、その意志や行ないが妨げられてはならないことがあるだろう。ただ、同じ目的のためにであっても、自らの窮状を訴えたり、そして賠償や給付を得るために、苦しみを表出せねばならないとなれば、それは辛いことがある。
 一つには、よく言われるようになったように、自分(たち)にとって悲しいこと苦しいことが再び呼び出されてしまって、辛くなってしまうからだ。
 そして、自分(たち)において負であることが知らされること、知られることが辛いからだ。そしてここでは多く、一切が一緒になったものが提示されるのであり、実際に示されるのは、受け取られるのは、苦痛だけではない。例えばその人の顔や身体は歪んでいるのだがそれは苦痛に歪んでいると必ずしも言えない。たいがいのものが混ざり、全体として悲哀や悲惨を伝えるものになっている。示されるのは悲惨だとして、その悲惨の成分は何であるのかということである。本当は悲しくも苦しくもないこともまたその中に含みこまれ、悲惨なこととして伝わることがある。
 そしてまた、ときにはその悲しいこと苦しいことの真偽や程度が疑われることになるからである。示し知らせることによって不正を訴えたり取るべきものを取ろうとするのだが、すると、そのために辛いことが強く言われている、さらに作られていると疑われることがあり、当人は、そうでないことをさらに示さねばならず、語らねばならないといったことにもなる。それは障害を証明しなければならないというのと似ているが、ときにはもっと辛いことであり、ときには難しいことである。足がないのは見ればわかるが、痛いのはどれだけ痛いのかわからない、痛いと言うが本当かどうかわからないと言われる★10。」

 「★10 大野真由子は強い痛みが常時身体にある複合性局所疼痛症候群(CRPS)の人たちの生について論文を書いた(大野[2008][2011a][2011b][2011c][2012][2013])。論文には書いていないが――それは彼女が書かないことを選んだからだった――彼女自身がCRPSの人だった。痛み、というよりは痛みのもたらす生活上の障害が政治的給付の対象にならないことを問題にした。痛みを測りを示すことができない、あるいは困難であるから対象とできないとされるのだが、米国や韓国では障害として認定されていることを示した。彼女はくも膜下出血で亡くなった。その博士論文を出版できればと思っている。
 性同一性障害に関わる医療とその失敗とその責任、医療過誤訴訟、所謂薬害エイズ訴訟、等に関わって催された企画があり、その記録他を集めた報告集があって(山本・北村編[2008])、私はその後ろに「争いと争いの研究について」という短文[200810]を書いた。そして改稿して、主に所謂自閉症スペクトラムの人たちのことを書いた[201408]の終わりに収録した。きっとそんな部分があると思われていないその部分をなぜその本に置いたかは、本に書いた。
 「救済されるために、自分たちがいかに大きな被害を受けてきたのかを語らねばならない。[…]そして周囲のけちな人々から、あの人(たち)は悲惨と苦痛を大袈裟に言っているとか、さらにはあの人(たち)は偽っているなどと言われる。そんなことではないのだ、と言っても、聞いてもらえない。[…]そんな悲しい世界から抜けるためにも、医療や福祉のサービスを受け取られること、暮らせるだけの所得が得られることは、そうしたサービスの必要や稼ぎのないことが被害に関わっているとしても、それと別に、得られるようにした方がよい」([200810]、いくらか改稿して[201408:282-283])。
 「すると被害者の訴えは、たんに悲しみ・恨みに発するものになる。[…]訴えは、ただ本当のことを知り、謝罪を求めようとするものになる。そのような人たちだけが訴えることになるから、別の利害があるなどと邪推されることがなくなる。」([201408:283])
 このことは以前から思っていて幾度も書いている。『自由の平等』より。
 「平等の定義にさほどの意味はない[…]こうした議論は、たしかにときに必要なのだが、必要な理由を忘れてのめり込んでしまうと、人々がある状態のときにいかに不幸であるかを言わねばならないかのようになってしまい、そしてその真剣な主張が誇張であると受け取られてしまい、さらにそれに反論しなければならないといった嘆かわしい事態が生じてしまうのである」([200401:106])。
『良い死』より。
 「死や苦痛や不便をもたらした者たちを[…]追及するのはよい。ただ、第一に、そのことを言うために、その〔被害者たちの〕不幸をつりあげる必要が出てくることがあるとしたら、それはなにかその人たちに対して失礼なことであるように思えるということだ。だから、それはしない方がよい」([2008:177])。」

 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20172434.htm
にもある。


UP:201707 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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