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不如意なのに/だから語ること・5

「身体の現代」計画補足・433

立岩 真也 2017/11/06
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1969919646608346

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『私的所有論  第2版』表紙   有吉玲子『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』表紙   『現代思想』2017年11月号 特集:「エスノグラフィ――質的調査の現在 [岸政彦責任編集]」・表紙

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 「不如意なのに/だから語ること」分載の5回め。
 「エスノグラフィ――質的調査の現在」が『現代思想』11月号の特集。
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#11
https:/twitter.com/ShinyaTateiwa
などでも紹介している。  拙稿はそれとは別の連載(第139回)。
http://www.arsvi.com/ts/20170139.htm
以前書いた部分に加え、9月号からの部分をつなげて来年まとめて本にしようというものだが、特集にもいくらか関係はある、と思っている。それを分載していくが、一部しか載せられない。『現代思想』買ってください。

 「■苦と死
 […]
 そして、病という契機と障害という契機が無造作に一つに括られてしまうことも多い。分かれ目はそう単純ではないが、両者、正しくは両方の契機は別のものである★08。前回にも見たように、障害者の言論・運動は病気をなおすことを否定することはなかった。障害と病気とは異なると述べてきたのである。障害と病気とは、実際には同じ人において、多くの場合に重なっている。病者の多くは障害者でもある。しかしその違いの強調もまた当然のことだった。苦痛は取り除いてほしい、少なくとも軽減したい。他方、できないこととしての障害はそれ自体として苦痛ではなく、多くの場合に代替可能である。ならば、同じようになおしてほしいということにはならない。それを一緒にされたら困るということだ。
 その人の苦痛自体は、移動できないし、代替されない。なくなること軽減されることは、別の人からも願われることがあるだろうが、できないことのように、他の人が直接に引き受けたりはできない。ここには一つ、非対称がある。苦痛はまずその人にしか感じられない。むろんその苦しんでいることを別の人が感じて、その別の人が苦しいことはある。後者の人の方がかえって苦しそうだということもあるだろう。「共苦」は語られてきたしその辛さは代わってあげられないことにもよることがあるだろう。
 しかし、辛いから、あるいは辛いだろうから、遠ざかることはできる。その場から去って見ないことができたり、忘れることができる。予め近づかないこともできる。
 また、頻繁に接しているとかえって、あるいは避け方に慣れることよって、慣れることもある。それは必ずしもわるいことではない。むしろ、慣れることは必要なことである。近くにいても遠ざけ、やりすごすことができる。苦や死に接した職を行なっていくに際しても必要なこと、ないと困る才覚ではある。このことは見落とさない方がよい。ただ、そうした場において苦しむ人は、自分だけが苦しみのもとに、例えば自分では動かせない背中や腰や尻の痛みのもとに、残されることはある★09。
 そして一つ、苦痛は軽視されることがある。それはまず単純に、今述べたこと、つまり他の人はその人の苦痛を直接に感じないからでもある。さらに、この社会は即物的な快の追求によって支配されているなどと言われることもあるが、たぶんそれほどでもない。苦は襲ってくるものであり、受動するしかないものだ。苦しむことは文明的なことでないかもしれない。苦しむことや苦しみに耐えることは低くされることがある。不快は、それを克服することに比して軽く見られる。「たんなる緩和」は、治療することではなく対症療法にすぎないとされてしまうことがある。たんなる緩和でいっこうにかまわず、それこそが求められているのだが、それはたいしたことでないという倒錯がときに起こってしまう。」

「★08 例えば腎臓病にしても、人工透析がうまく行っている限り他のことに支障がないのであれば、それは人工透析によって補うことのできる「障害」だというになるだろう。苦痛もまたその受け止め方によって変わってくるだろう。もちろん苦痛によってできていたことができなくなるといったことは多々ある。だがこのことは両者を分けることができること、分けた方がよいことを否定するものではない。動かすことはできないのだが、身体にとくに苦痛のない状態はある。苦痛――補われないことに伴う苦痛を除外すれば――のない障害はある。他方で、苦痛とできないこととは同時に存在する場合もあり、苦痛ができないことをもたらすこともある(→註10)。
 いったん分けてみることは、その間の関係を知り、各々の重みを考えることでもある。例えばハンセン「病」と呼ばれてきたものは、多く異なることと、そして――感染が誤って危惧されてきたことによる――加害性をもつものとして社会によって扱われ、そして「防衛」の対象になってきた。精神「病」もまた加害性を貼り付けられてきた。なにか身体的なものにかかわるよからぬもの全般が「病」という札を貼られ、その中で「機能」に関わる部分が「障害」と括られてきたのかもしれない。そして同じ施設にハンセン病療養者が入り、結核療養者が入り、結核が流行らなくなると、重症心身障害児と呼ばれる人が入り、筋ジストロフィーの子どもたちが入り、そして大人になっていった。ここで加害性(からの防衛)と負担(の軽減)は明らかにつながっている。そして「狭義の」加害性〜社会防衛は現実にはどれほどの重みをもっているか。一般に反体制的な気分の社会運動においては治安が問題にされるのだが、いったい実際にはそれはどれほどのものであるのかは考えておいてよい。
★09 病院における死への慣れについてSudnow[1967=1992]がある。やはり病院における看護師たちの慣れについてChambliss[1996=2002]。これらを紹介した短文[200407]は[201708]に収録されている。」


 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20172433.htm
にもある。


UP:201707 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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