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不如意なのに/だから語ること・2

「身体の現代」計画補足・430

立岩 真也 2017/11/01
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1964607650472879

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『現代思想』2017年11月号 特集:「エスノグラフィ――質的調査の現在 [岸政彦責任編集]」・表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]
 「不如意なのに/だから語ること」分載の2回め。
 「エスノグラフィ――質的調査の現在」が『現代思想』11月号の特集。
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#11
https:/twitter.com/ShinyaTateiwa
などでも紹介している。  拙稿はそれとは別の連載(第139回)。
以前書いた部分に加え、9月号からの部分をつなげて来年まとめて本にしようというものだが、特集にもいくらか関係はある、と思っている。それを分載していくが、一部しか載せられない。『現代思想』買ってください。

 「人がみな同じにできるのであれば、分配といった主題も現われないだろう。しかし、学校の先生は努力次第だと言うが、そう言うのは学校の先生だからであって、差はあってしまう★04。だが、できること(/できないこと)は多く手段の水準にある。手段は多くの場合に複数ある。また同じことでも一人の人だけしかできないということはたいへん少ない。自分ができなくても誰か他の人たちができる、ならばそうすればよい。社会的な対応が一番簡単だということだ。その簡単にできるはずなのことなのに、この社会はできていない、それで暮しが困難になっているなら、腹も立とうというものだ。障害者運動・障害学がまずその方面を問題にし運動してきたというのももっともなことである。  ただ一つ、得られるものにその人自身の身体が関わる場合には困難が生ずることがある。私の足が動かなくとも、他の人が動かしてくれればどこかに着く。私の目が見えなくとも、文字はわかる。ただ目で見ること自体を他人から得ることはできないということだ。  もう一つ、他人から得るという時のその他人にも身体があり、身体と身体との接点に例えば羞恥が生ずることがある。とすると、ときに代替も容易でないことがある。ごく短くまとめるとこのような事態について書かれたものがあってきた★05。」
 「★04 その差や差の由来が、身体においてわりあいはっきりしている場合にそれは障害と呼ばれる。そうして一部が取り出されることこそがまさに社会的な構築であって、それについて調べたり考えたりするのは必要なことだが、わざわざ自分(たち)でそれを取り出すこと、「障害とは何か」を定義するといったことは必要ないのだと前回述べ、次回そのことをさらに説明する。ただ、私がこのように言うことは、そのできる/できないが、個々の人、人の身体に帰属することと両立する。さらに、そのできる/できないことに関わる生産物を必要とし欲する人々の選好のあり方の可塑性が、社会の変革の可能性とその方法とに関わっている。後でこのことについても再説することになるだろう。
★05 前回もあげた前田[2009]。草山[2005]前田[2005]等を含む倉本編[2005]。前田が大会長を務める今年の障害学会大会(十月二八・二九日、於神戸学院大学)初日のシンポジウム1は「障害、介助、セックスワーク」。」



 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20172430.htm
にもある。


UP:201707 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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