26日に報告するのは「考究と協力の方向を展望する」。
http://www.arsvi.com/ts/20170031.htm
ちょうど今終わった。その原稿にあり(実際には原稿の通りには話さなかった)、そこでも述べた(じっさいには時間の制約から、その一部だけを述べた)ことの一部。
「ひとまず五つはあると述べたものの交錯や重なりを見ることができる。例えばそのどれを身に纏(まと)っているかによって、なおる・なおすことに対する態度が異なることがある。一方になおりたい人たちがいる。他方にそれをよしとしない人がいる。両方を同時に思っている人たちもいる)。どうなっているのか、それを考えることが重要だと思う。
偶然始まって続いている「生存学」という企画は、その実質において、そんなものにもなっている。つまり、病と呼ばれそして/あるいは障害と呼ばれるものの両方を自らが経験していたり、そういう人たちに関係している人たちが、意図してわけでもなく予期もしていなかったが、私が勤務する先端総合学術研究科という名称の大学院にやってきて、そこに集まってきた人たちがそのように多様であったことによって、研究の方向が形成されていった。」
そして、上の引用ととても関係のある、「どこから分け入るか――連載・138」
http://www.arsvi.com/ts/20170138.htm
分載の6回目。掲載されているのは『現代思想』10月号。特集は「ロシア革命100年」
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#10
断片的にしか分載しませんので、『現代思想』買ってください。11月号はその続きで、あと2日ぐらいで発売開始になるでしょう。発売になったら10月号分の分載をやめて、11月号に移るつもり。
「■各々について、誰にとっての正負
次に、各々について、各々についてなされることについての正負、得失の両方が問題である。そしてそれが、本人、幾種類かの周囲の人々の各々にとってどうか、その各々の意味・得失が、本人といく種類かの周囲の人々の各々にとって異なる。すくなくとも異なりうる。その人々についても本人とそれ以外という以外にいく種類か分けようがある。言われれば、言うまでもないことだ。だが実際にはその言うまでもないことがしばしば看過されてきてしまっている。だから確認しておく。そして大切だと考えるのは、五つあげたものについて本人の得失と周囲の得失とが異なることである。
病者は、またそれを得る可能性のある人は、まず一つ、(3)苦痛から逃れることを求める。(このことはもちろん、痛みそれ自体は生体の当然の反応であり、危機に対応すべきことを知らせる信号であり、たんなる緩和が根本的な解決でないといったことを否定しない。)また一つ、(4)死に至ることが遅くなることを求めている。これらが実現するのであれば、つまり病気にならないなら、なったらなおればそれでよい。それはなかなかかなわないとしても、状態の悪化がとどめられるなら、あるいは悪化の進行がいくらか遅くなるなら、よいと思う。他方、とくに本人にあまり関わりのない人たちにとっては、他人=本人の病はあまり気にならない。素朴な意味でその人の死を別の人が死ぬことはないし、その人の苦痛を別の人が直接に感じることはできない。
他方、障害はまず一つ、(1)できないことだが、それはそれ自体として苦痛ではなく、多くの場合に他の手段を用い\ることで代替可能である自らの身体を動かしてできるのと、別の方法を取るのと、本人にとってどちらがよいかは予め決まっていない。他方、他人たちにとっては、(1)については、本人が苦労してでも機能を回復してくれるなら、自分たちとしてはその人のためのことをする負担がなくなるわけだから、そして/あるいは生産する側の人間になってくれて貢献してくれるのだから、それは歓迎されるだろう。
(2)差異についても、そのあるものが人々に嫌悪されたりすることがあるとして、そんな感情を抱いたりそれを表出したりさらに排除したりするのは、そんなふうに思い排除する側である。その人の姿形や行動の様式が、人々の美醜に関する感覚や価値観に合致するものになったら歓迎するのは他人たちである。自分はそれに左右され迷惑を被る。自分たちの側を変える必要はないと反駁することはできるが、それはなかなか難しい。
そしてもう一つ、障害(病にも)に関連づけられて(5)加害性が言われることがあるのだが、これも少なくなってもらう方がよいのはまずは加害される(可能性のある)他人たちである。
以上を合わせると、五つについて、本人とその他の人について各々の得失を見ておくべきだということになる。そしてその周囲の人が一様でない。負担のことだけを考えても、本人に近いとされる人たちそうでない人たちがおり、そのことにつなげられて、法的・政治的に多くの権利や義務を有する/有しないとされる人たちがいる。前者はまず家族ということになるのだが、その家族について、その思いの語られ方は型通りのことが多いが、人により場合により、思うことや利害は一様でない。後者には多くより軽い義務しか課せられないが、それでも税を負担する人たちであったりする。そして、それをときに収入源とする医療や福祉といった社会サービスの供給者たちがいる。
すると五つについて、各々に関わる人たちが少なくとも今みた場面でも四通り以上はいるのだから、それらを掛け合わせるなら、ずいぶんな数になってしまう。事態を整理しようとして、結局いくらかは複雑に煩雑になってしまう。ただそうして複雑であっても、そうやって分けて、あげつらっていく必要がありそうだということだ。」
フェイスブック上のこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20172424.htm
にもあります。