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五つ・3

「身体の現代」計画補足・421

立岩 真也 2017/10/23


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星加良司『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』表紙   立岩真也編『社会モデル』表紙   榊原賢二郎『社会的包摂と身体――障害者差別禁止法制後の障害定義と異別処遇を巡って』表紙

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 『現代思想』10月号特集は「ロシア革命100年」
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#10
 連載の拙稿は「どこから分け入るか――連載・138」
http://www.arsvi.com/ts/20170138.htm
 分載の4回目。星加[2007]は星加良司『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』
http://www.arsvi.com/b2000/0702hr.htm
 榊原[2016]は榊原賢二郎『社会的包摂と身体――障害者差別禁止法制後の障害定義と異別処遇を巡って』
http://www.arsvi.com/b2010/1611sk.htm
 断片的にしか分載しませんので、『現代思想』買ってください。また11月号はその続きです。


 「■五つ
 […]
 日常的な言葉の用法としてもこの言葉の使い方は、各言語間でも、さらに同一言語内でも、多様であり整合していないが、障害は、いま挙げた五つのうち、(1)機能・能力、その有無・差異、(2)姿形・生の様式、その差異に関わり、加えて(5)加害性が懸念されてきた。障害は英語ではdisabilityで、「できないこと」ということになり,(1)できる/できない(のうちのできない方)を指す。ただ、できないこと全体のその一部が「障害」として取り出される。その行ないをどのように見るのかが重要であり、その行ないを評定し、別の方向が妥当で可能であればそうした方がよい。そのようにして考えていこうと私は考えていて、前回もそのことを述べた★03。
 加えて、実際には、(2)姿や形の違いを人はずいぶん気にもしている。障害(者)と呼ばれているもののなかのかなりの部分は形・行動・生活の様式が異なることにも関わっている。disabilityとしての障害についてはそれは明示的に含意されないが、同じく日本語では障害と訳されることのあるdisorderが示すのは主にこうした側面だろう。それは不調を指す言葉だが、それに連続して、秩序から外れていることを意味する。『自閉症連続体の時代』([201408])で取り上げた自閉症にしても、その主要な部分は、生の様式の違いとでも言うべきものである。そして様式の違いのある部分は、(この社会においてできるとよいとされることが)できないことに結びつけられ、できないこととしての障害として現象することにもなる。
 そして、(3)痛み・苦しみが生じたり、そして/あるいは(4)死に至ることがある。苦痛や死を起こすものはふつう病と呼ばれる。
 さらになにかあるだろうか。人は暴力を振るい、人を害することがある。そして相当部分は誤解・偏見によって、しかしまったくの間違いというわけでなく、(5)加害性として障害・病が捉えられることがある。五つの各々について後でいくらか記述を足していくから、ここでは「取り出すこと」「取り出されること」の扱い方について確認しておく。ここで加害の範囲は明確にはされない。犯罪の類について、それは通常は能動的な「行為」とされるが、身体的・器質的な要因が関わっているとされるならその意図性は低いものとされることになる。そして、伝染の可能性があることによる加害が恐れられるときには、意図的であることは通常想定されてはいない。さらに、できないことを介して扶養や生命・生活維持のための負担が感じられることもあるが、そこにできない人の側の意図はない。しかし「社会防衛」という時には犯罪からの防衛だけでなく感染からの防衛は含まれる。そしてここで「社会」といって大きな範囲だけを考える必要はない。家族という小さな単位もまた防衛されたいのであり、犯罪と感染を防ぐために、また家族を防衛するために同じ施設が使われもしてきたのである。私たちは、まず、加害をもたらす病があるかないかと考えることはない。他人(たち)に災難をもたらす身体的な要因はないと決める必要もない。それはときに存在するだろうし、ときにその因果の妥当性を巡る議論に加わることも必要とされるだろう。ただまず、身体的なものに要因が回付されることがあるという事実を捉えることだ。それを捉えその事態について考えるためには、予め障害や病をこちらで規定するべきでない。」

 「★03 前回に検討を予告したが、今回は結局すこししかふれることのできない星加の本には次のようにある。
 「たとえば、「あらゆる人にどのような程度かできないこと=障害disabilitiesがある」(立岩[199709:323])というような言い方も可能ではある。しかし、本書ではこうした立場を採らず、ディスアビリティをある種の特有な現象として特徴付けることで、ディスアビリティについて特に問題化することの社会的・社会学的意義を主張することが企図されている」(星加[2007:99-100])。
 立場・方向の設定は学の世界ではまずは自由であるとされている。いま記された道を星加は行こうとする。その道行きを紹介し、そしてそれがあまりうまくいっていないと評価したうえで、別の同定の仕方を提示するというのが榊原[2016]で行なわれていることの一部である。その評価に私も同意するが、私はそれとは別に、「障害」を自分で(研究者の方で)取り出そうとするということの意義がどこにあるだろうかと思っている。後にさらに説明を追加する。
 こうして、私はとくに「障害」に関心があるわけではない。ただ同じことを次のようにも言える。
 「私は、狭い意味での「障害者」に格別の関心があるわけではない。「誰もが障害者になる可能性がある」といったことが言われるが、そんなことの手前で、誰でもできる/できないことがあって、そのことについて書いてきた。ただ、その普通の意味での障害者の人たちの言うことややっていることにいくらかの関心を払ってきたのは事実だ。それはつまり、できないことがより多い人は、より大きく損をする人で、そのままだと損をし続ける人で、文句を言うのだが、文句を言うだけでも損はし続けるから、社会が変わってもらわねばならず、社会とけんか別れをしてすむわけではない。具体的にどんな社会がよいかを面倒でも言わねばならない。となると――しばしば、考えてものをいうのが仕事のはずの学者たちより――考え続けること言い続けることをせざるをえない。(実害がそれほどでもない人たちは、文句を言ってみるとしても、結局、社会のことを考え、社会と付き合うことから逃れることができる。)
 それは当人たちにとってみれば疲れることだが、まともに人・社会に対しているから、聞くべきことがあると思う。」([201105])」


 フェイスブック上のこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20172421.htm
にもあります。

UP:201707 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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