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どこから分け入るか

「身体の現代」計画補足・415

立岩 真也 2017/10/02
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1953901251543519

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『現代思想』2017年10月号 特集:「ロシア革命100年」・表紙   立岩真也編『社会モデル』表紙   『造反有理――精神医療現代史へ』表紙   『自閉症連続体の時代』表紙

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 『現代思想』10月号特集は「ロシア革命100年」
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#10
 連載の拙稿は「どこから分け入るか――連載・138」
http://www.arsvi.com/ts/20170138.htm
目次&冒頭部↓

「■五つ
 個々の人の身体に存在する/しない、そのように言われたり思われたりするものが、どれほどか、どのようにかは多くの場合にわからないのだが、人のあり様、社会の中でのあり様に関わっている。障害という捉え方のもとでは、身体に存在する契機は「インペアメント(impairment)」ということになるのだろうが、それより広く、個々の身体において存在する事態があり、その差異があり、それがもたらすものがある。さしあたり五つあげることができることを述べてきた★01。そのことをもう少し説明しながら進める。前回はあと二回でひとまとめして本にすると書いたが、無理なことがわかった。これからまだ、長いものになってしまう。
 […]

■五つについての必然的でない事情、関係・併存
 なぜこのような範囲から見ていくのがよいと考えるか。全体を割っていくと五つになるということではない。五つにし、五つから始めるべき論理的な必然はない。ただ、全体を網羅しようということがあってもよいが、それは膨大な作業になり、そこに現われるのはとりとめのないものになりがちだ。境界や複合や、境界に関わる混乱が生じている部分を、ある程度の範囲でまず大括りに括って、それから見ていくのがよい。社会的事実の形状に合わせるのである。
 […]

■各々について、誰にとっての正負
 次に、各々について、各々についてなされることについての正負、得失の両方が問題である。そしてそれが、本人、幾種類かの周囲の人々の各々にとってどうか、その各々の意味・得失が、本人といく種類かの周囲の人々の各々にとって異なる。すくなくとも異なりうる。その人々についても本人とそれ以外という以外にいく種類か分けようがある。言われれば、言うまでもないことだ。だが実際にはその言うまでもないことがしばしば看過されてきてしまっている。だから確認しておく。そして大切だと考えるのは、五つあげたものについて本人の得失と周囲の得失とが異なることである。
 […]

■インペアメントを言う人たち
 起こってきたこと起こっていることを記述し、分析し、これからの道筋を考える。そのために、広すぎはしないが、狭くはない範囲をとって、複数のものの輻輳や、それらの間の境界線について考えるのがよい。まずこのことを述べた。ただその道を行けばよいと思うから、これまでなされてきた議論の混乱を整理することにはさほどの関心はない。ただ述べたことは、障害の社会モデル、「インペアメント」(impairment、「損傷」と訳されることがある)とディスアビリティを巡ってあってきたという議論に関係はするから、いくつかを述べておく。
 […]

■なおすことの位置
 なおすことについて。障害者運動・障害学は医療(モデル)を批判した、なおす(なおされる)ことに抵抗したと言われる。それはすくなくとも一部に実際にあったこと、あってきたことだ。ではそれは何を言ったのか。何を言ったと捉える時に反批判に耐えられる主張であることができるのか。
 […]」

 この文章は生存学研究センターのフェイスブックとHPの両方にある。HPの方は
http://www.arsvi.com/ts/20172415.htm


UP:201707 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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