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前回の[201408]は『自閉症連続体の時代』でした。記すの忘れたのでここに。
http://www.arsvi.com/ts/2014b1.htm
さて続き。
「□非−能力/障害
この全体のなかの一部、さしあり五つあげたその五つのうちの一つに、「できない」が位置づく。
「非能力者」の差別を差別としないのが近代社会であると言うことができる。教科書にも書いてあるようなことで、身分・門地その他「属性」による人の扱いが異なることを差別として否定し、能力・業績を原理として成立したのが近代社会であるとされる。
なぜそれは差別でないのか、正しいことなのか。それをかつて拙著で検討した。できる人に多くを与えるならできることが増え社会にとって望ましいという機能主義的な答の他には、自分が原因となったものについて、原因・主体であるがゆえに、自分は権利(と義務)を有するという答があった。「ゆえに」がどうして言えるのだと拙著(の第2章)では述べたが、ここでは言われたとおりに受け入れるとしよう。だとしても、「自分のせい」と言えないものについては、権利と義務は正当化されないことになる。障害はどうか。それは偶々もって生まれたものであったり、事故によって生じたことであったりする。となると、免責されて当然であるということにもなる。しかしそうして権利・義務を解除していったら、その部分はずいぶんな広さになるのではないか。どこまでも、とは言えないとして、自分でどうにかなる/ならない、の境界は定かでない。そうしていくと近代が正当とした領域は浸食されていかないか。
その境界はまったくはっきりしない。その境界に関わる障害はその境界を脅かすもの、すくなくとも潜在的に破壊的であり、なにかしら口ごもる対象なのである。例えばロールズがその理論から事実上障害を追い出しているとされることにもこのことは関わっているかもしない。ただ、だからこそその領域の学者たちに気にもされるようであり、近年ではヌスバウムが扱っている。(だが、その扱いにはずいぶんおかしいところがあることを後で述べる。)」
特集「いまなぜ地政学か――新しい世界地図の描き方」の『現代思想』9月号
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#09
に載っている「『障害/社会』準備の終わりから3――連載・137」。
http://www.arsvi.com/ts/20170137.htm
より。その目次は
■予定の変更・東アジア障害学セミナー
■運動・理論
■多田富雄・上田敏
■電子書籍×3
□近代、とその次?
■障害とは何か、とは問わない
◆非−能力/障害
□障害学
□批判者である障害学は願いをかなえもする
□しかしとどまることはしない
□ではどんな方向に行くのか?
今回は「非−能力/障害」より1回め。
この文章は生存学研究センターのフェイスブックとHPの両方にある。HPの方は
http://www.arsvi.com/ts/20172411.htm