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インペアメントについて

「身体の現代」計画補足・410

立岩 真也 2017/09/14
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1946758512257793

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立岩真也編『社会モデル』表紙   『現代思想』2017年9月号 特集:「いまなぜ地政学か――新しい世界地図の描き方」・表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 特集「いまなぜ地政学か――新しい世界地図の描き方」の『現代思想』9月号
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#09
に載っている「『障害/社会』準備の終わりから3――連載・137」。
http://www.arsvi.com/ts/20170137.htm
より。その目次は
■予定の変更・東アジア障害学セミナー
■運動・理論
■多田富雄・上田敏
■電子書籍×3
□近代、とその次?
■障害とは何か、とは問わない
□非−能力/障害
□障害学
□批判者である障害学は願いをかなえもする
□しかしとどまることはしない
□ではどんな方向に行くのか?
 「障害とは何か、とは問わない」より3回め。。

 「そして「インペアメント」について。例えば英国の障害学の発祥の頃に多かった脊髄損傷などの中途障害などでは、そのインペアメント=損傷は可視的でわかりやすい。その人たちは自分たちのインペアメントを身体の水準においてなおそうとするより――そもそもなおらない――社会を変えた方がよいと主張したのだが、この時そのインペアメントの存在自体は明らかなものだった。それは身体的・物理的なものとして、あるいはその不在としてあった。しかしそんな場合ばかりでもない。所謂「内部障害」の場合には、外からは見えない。身体的なものといっても、多く多層的であり、身体の表面に現われているものもあるし、その形状や機能に因果的に作用するとされる遺伝子の水準での異なりもある。そして、(今のところ)とくだんのものは発見されていないが、きっと脳のなかになにかあるとされる「発達障害」といったものもある(cf.[201408])。そうしたものが存在するか否か、ときにはその問いに答える必要があることがあるとしても、まずはその問いがなぜ発せられるのかを考え、そしてその問いに答えようとすることがどんなことであるのか、必要であるかどうかを考えることではないか。
 そしてインペアメントの「軽視」が言われるときに何が言われているのか。苦痛は、普通あるとかないとか問うても仕方なく、存在するだろう。そしてその痛み自体は、普通、「社会的」な仕組み・所作によって解消されることはないだろう。しかしそのことは、できないことのかなりの部分が解消・軽減可能であることとまったく両立するだろう。そしてまた、身体の作動や様子の異なりについて。これらもまた、それ自体は、なくしたりするこのはできないか容易でないだろう。ただそれ自体は、他人(たち)や自分によって感じられるものである。こうしてあげていけば、それらをインペアメントといった言葉で括ることはできないし、その必要もない。人・身体の水準において捉えられるできごとがあり、その帰属先がときにその身体の内部や表面に見いだされることがある。まずはそのように理解することで足りるはずである。そして、その帰属やさらに帰責が、いかなる事情のもとで、どのようになされるのかを観察する、それでよいはずである。」


 この文章は生存学研究センターのフェイスブックとHPの両方にある。HPの方は
http://www.arsvi.com/ts/20172410.htm


UP:201707 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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