HOME > Tateiwa >

所謂ケア付住宅があった文脈

「身体の現代」計画補足・400

立岩 真也 2017/08/21
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1935740246692953

399 < / > 401

Tweet


『現代思想』2017年8月号 特集:「コミュ障」の時代・表紙   『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙   立岩真也編『青い芝・横塚晃一・横田弘:1970年へ/から』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]
 『現代思想』8月の特集は「「コミュ障」の時代」。
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#08
そこに掲載されている私の連載は第136回。「福嶋あき江/虹の会・2――生の現代のために・24 連載・136」
http://www.arsvi.com/ts/2017ts/20170136.htm
以下はそのなかの「ケア付住宅」に続く「『自立生活への道』(一九八四)」という部分の冒頭。
 そしてこの度、しばらく品切れで入手できなかった、『生の技法 第3版』の増刷ができた。
以下に立岩[1990a][1990b]と記してあるのは1990年の初版の第7章と第8章。第7章は基本そのままで今に引き継がれているのだが、第8章は増補改訂版(1995年)以降別のものにさしかえてある。今回気づいたのは、初版の第7章で詳しくは第8章に書きましたと書いてあるその旧第8章の部分がなくなっているということ。あの章は、かなりいろいろと大切なことが註に書いてあるのだが、たぶんほとんど読んでもらってない、と思う部分がたくさんある。そして書いた当人も気づいてなかったということだ。その旧第8章はHPでご覧になれる。
 この本はおおざっぱにも、拾い読みでも斜め読みでもなんでも読んでほしいと思うとともに、すくなくともある人たちには細かに読んでもらいたいものだと思う。そしてそれはたいがいかなえられないという不全感を、仕方がないのだろうなと思いつつ、抱きながら、そういう部分をうしろに置きながら、「研究」してくれる人が出てこないかなと思いながら、書き手は、しかたがないからさきに進むことになる。

 といった愚痴はさておき、とにかく手にとってくださいませ。
 https:/twitter.com/ShinyaTateiwaしたのは以下。
 「『生の技法 第3版』増刷出来→http://www.arsvi.com/ts/2012b3.htm  普通(増版でない)増刷ではそういうことしませんが、今回は安積さん尾中さんが担当部分増補しています。配布教材として使っていただける場合重度訪問の研修や大学(院)での講義やらに出張いたします。どうぞよろしく」

 さて以下引用。なおこの文章は、生存学研究センターのフェイスブックと
http://www.arsvi.com/ts.20172400.htm
にあります。

 「『自立生活への道』(一九八四)
 ケア付住宅、その他が要求される文脈、流れがあった。福嶋たちはその流れの中にいたが、その流れのことを知らなかったはずだ。別の流れがあり、全体のなかにあることを知らなかったはずだ。福嶋は、高野の協力者であった加藤裕二から障害者運動のことを聞いていたし、「国際障害者年」でもあった八一年に米国に行ってもいる。その前後に知識を得たはずだ。ただ、それより前から始まり、対立の契機も含まれていた日本の状況、その中にケア付住宅も位置づいていることがわかっていたとは思われない。だが、若く、米国に行って帰ってきたりなどして目立つところにはいたし、活動を始めようともしていたから、当時の、ケア付住宅、その他が要求される文脈、集まりのなかに、たぶんその文脈はよくわからないまま、入れてもらうことに、入っていくことになった。
 虹の会がケア付住宅を目標とするとしたその前年、八四年の十二月、『自立生活への道』(仲村・板山 編[1984])が出ている★05。市販された本で「自立生活」の表題をもつものはこれが最初のはずだ。編者は当事日本社会事業大学の仲村優一と板山賢治。板山は刊行時の職場は日本社会事業大学だが、厚生省社会局更生課長等を勤めた(自伝的な著書に板山[1997])。板山がその課長の時、「七五年に予定されていた実態調査が、優生思想による障害者の抹殺に結びつき、施設収容政策を推進するものだとして批判され、阻止されて以来、日本の障害者に関するデータがなく、そのため、この年を迎えるにあたって何としても調査を実施したいという強い意向が厚生省にあった」(立岩[1990a:208])。具体的には板山にあった。厚生省・板山は障害者団体との対話路線に転じた。
 本のあとがきで、板山はその八〇年調査について「「賛成とはいえないが、反対はしない」という結論をえて」調査は実施されたとまとめる(板山[1984:316])。実際にはそう単純ではない。「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」は反対、「障害者の生活保障を要求する連絡会議(障害連)」も結局反対した。ただ確かに、当時の、七八年の横塚晃一の死去後の混乱もあり「過激」な部分が一時後退した時期の青い芝の会はそのような方針になった。そしてその中心部分は東京青い芝の会の人たちだった。最初は東京から始まった青い芝の会は、七〇年代初頭、神奈川の青い芝が突出した行動を始めるのを受け、それに対抗するかたちで「東京青い芝の会」を名乗る。そしてその人たちは、はっきりとした主張をしつつ、八〇年の調査をきっかけに板山らとの関係を作り続けていく。この調査をめぐる話し合いの中で板山は「脳性マヒ者等の生まれた時からの障害者の生活問題に関する研究」を行なうことを約束、課長直属の研究会として「脳性マヒ者等全身性障害者問題研究会」が八〇年三月に始まり八二年四月まで続く(委員長は仲村)。八五年の本はその研究会の成果とされる。福嶋や高野はその研究会のメンバーではないが、本の執筆者には加わっている。そのようにしてこの時期のこの動きに連なることになる。
 東京青い芝の会の主要なメンバー(その幾人かは八王子自立ホームに住む人たちでもある)の積極的な主張は、一つに(生活保護ではなく)年金による所得保障、一つにケア付住宅の建設だった。そして三つ目は介助の極小化だ。当時の文献は『生の技法』(立岩[1990a][1990b])にかなり網羅的に挙げたから略す。
 ケア付住宅の主張・要求は七三年に始まっている。[…]」


UP:201707 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)