- 立岩真也「島の1970年前後――「身体の現代」計画補足・392」
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島の1970年前後

「身体の現代」計画補足・392

立岩 真也 2017/07/24
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1927655784168066


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『私的所有論  第2版』表紙   On Private Property, English Version   立岩真也・杉田俊介『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』は前の号から単行本仕立てになった。この116号は浜田寿美男さんの『親になるまでの時間』。本の頁は別途作るが、まずは注文→[amazon][kinokuniya]
 私はその別冊『Chio通信』に短文を載せることになっている。この『Chio通信』は『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』を定期講読するとそのおまけ(特典)としてついてくるという趣向のもの。以下に広告があった。
http://karaimo.exblog.jp/26367357/
 『Chio通信』02に載ったのは「そんなこともあって、「能力主義」について考えはじめた――何がおもしろうて読むか書くか 第2回」という題になった。広告のために載せていこうと思う。以下は、その第2回
http://www.arsvi.com/ts/20170052.htm
の前半。昔話をしている。

 「私は田舎の出だ。佐渡(島)という島――島の人たちは「佐渡が島」とはいわない。「佐渡」という――があって、そこで生まれて、高校を卒業する一八歳まで住んでいた。いっとき離島ブームというのがあって観光客がけっこう来たこともあるが、それはすぐ終わった。農業や漁業はあるが、それできちんと稼ぐのはなかなかたいへんだ。大学などに行って島内あるいは県内に就職するとなると、公務員、教員がまあよい仕事ということになる。私の同級生にももう学校の校長とかになっているのがいて、「あいつが校長?!」と笑ってしまう。私の母親も小学校の教諭で、父親は高校の教諭だった。小さい島だから――といっても当時島に高校は六つあったというとたいがいの人は驚く――ということもあるのだが、私が通った小学校に二年間だったか母親が働いていたし、高校(私の家の隣にあったので、そこに行った)にはずっと父親がいた。彼は、家のすぐ隣ではないがちょっとした林を隔てたその高校に、二〇年ぐらい行き来していたことになる。夏休みも、スポーツ部の顧問などはしていたが、きちんと休んでいた。転勤は、その数十年のあとには定年前にひとつ。いまにくらべれば教員稼業もよい時代だったということだろう。それにしても、同じ学校に親がいるというのは最悪、というほどではないとしても、しかしたいへんよくない。その母も昨年亡くなり、父親は本格派の認知症で、いまはもういいやという感じだが、その個人的なことを別にしても、学校は、なんだか困ったものだった。前回、変わらなかったと書いたのも、ひとつには学校のことを思ってのことだった。
 私はとても記憶力の弱い人で、たいがいのことは忘れてしまったが、学校のことならいくらか書ける。小学校五・六年は担任と生徒たちの関係がどうにもならず、ほとんど授業もなにもかも成立していなかった。一九七一年とかのころだと思う、片田舎にすでに「学級崩壊」と呼べるものは存在していたのだ。ただそれはそれで楽しかった。楽しくなかったのはまず、中学校とか、つまらぬきまりがあり、それを守らせるこわい教師がいることだった。記憶に残っているのは中学校の音楽の教師で、なんだったのだろうあの人は。ビートルズが解散したのは一九七〇年で、田舎ならではのことだが、私がそれを聞き出したのは解散のあとだった。その音楽がどう考えてもその音楽田舎教師のいう音楽よりも立派であることによって、その教師がいかに不当でだめであるか納得してみずからを慰めていたところがある。
[…]」

 なお、生存学研究センターのフェイスブックに(も)載っているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20172392.htm
に(も)あって、リンクはその方が多いです。


UP:201707 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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