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写真集『車椅子の眼』(1971)3

「身体の現代」計画補足・371

立岩 真也 2017/05/23
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1894222487511396

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立岩真也編『与えられる生死:1960年代』表紙   立岩真也・杉田俊介『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』表紙   『現代思想』2017年5月号 特集:障害者・表紙
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 今回で2017年5月号掲載分の連載は終わり。続きは6月号で。「ある少女雑誌の中でのマンガ」がなんであるかは引き続き調査中(といっても何もしておらず、情報をお待ちしているだけ)。その『現代思想』2017年5月号の特集は「障害者――思想と実践」。目次、そして一部の執筆者についての頁へのリンクは
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#05
にあり。そこからすぐに注文もできる。
 私が書いているのは特集とは別の連載第133回「高野岳志/以前――生の現代のために・21」。
http://www.arsvi.com/ts/20170133.htm
には文献表があり、そこから文献の全体などへのリンクがある。
 それを分載している。今回は
http://www.arsvi.com/ts/20172369.htm
の続き。通して読むとけっこうおもしろいのではないかと思う。買ってください。そして私は高野岳志(1957〜1984)の他、山田富也(1952〜2010)、渡辺正直(1954〜2012)、石川正一(1955〜1978)、福嶋あき江(1958〜1989)といった人たちについて書こうとしている。ただ手許にある情報はわずかだ。なにかお持ちの方、ください。知っている方、知らせてください。そして下記の高野はの高野岳志。

 フェイスブックに載せているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20172371.htm
にもある。

 「■写真集『車椅子の眼』/詩集『車椅子の青春』(一九七一)

 […]
 そして高野にとっても、写真集は筋ジストロフィーの実相を示すものだった。

 「父から「治らない病気」と言われても、それは足の病気だと思ったいた彼が、仙台の西多賀病院の写真集を手にしたのは中学一年の時だった。そこには、筋ジス患者の多くは二十歳までに死んでいくこと、この病気の研究費として国からは一千万円しか出ていないこと、病棟生活は患者にとって人生そのものだから、内容を改善していかなければならないこと等が書いてあった。/「ショックでしたねえ。」」(小林[1981:39])
 「結局私に筋ジス≠決定的に教えたのは、中学一年生のときに出版された、西多賀病院の写真集だと記憶しています。私はこれに出会うまで筋ジス≠ニいう病気を楽観的に捉えていましたが、自分の置かれた現実を改めて思い知らされました。私達にとっては、あたりまえとなってしまっていることが、一般社会の位置づけからみると、特殊で、異常で、悲惨な状況であることがわかり、筋ジス≠ェ死≠フ病であり、狭い療養所という空間的に限られた場で、時間的に極く限られた生≠送らねばならないことを知りました。
 写真集ではカメラを通しての客観的な眼が、私達の日常を暗い陰を帯びたものとして映し出していました。寝返りさえ打てずに横たわる最重度患者の眼は、死≠ノ観念したようでいて、怨念のこもった視線を向けていました。やせ衰え骨と皮ばかりになった身体は、飢餓状態に置かれ路端に倒れ伏したアジア・アフリカ諸国の子ども達を連想させ、生命の宿りさえ感じさせない点がありました。また、退院の日を夢見て身体的苦痛に耐え貫き機能訓練に励む子ども達の姿は、最重度患者を頭に描くためか、そのあどけなさがかえって残酷さを強調しています。いくら機能訓練をしたところで進行を若干遅らせることが精一杯なのですから。そして、そこに映しだされた姿はまぎれもない私自身の姿でもあるのです。最後の解説には筋ジス≠フ詳しい説明と、筋ジス患者は収容されるだけで死≠待つだけの状態になり、能率的な研究体制も打ち出せない行政の不備が指摘されていました。」(高野[19831125:170-171])

 写真集には研究費の具体的な記述はないから、高野がそのことを知ったのは、この写真集ではないだろう。ただ写真集の終わりに置かれる近藤文雄院長(幾度もその文章を紹介してきた)による解説には「一五才から二〇才の間に大抵死んでしまいます」(近藤[1971:105])と書いてある。写真には、「一五で死亡」「二一才…」「一四才…」「一八才…」といったキャプションが付されている。
 写真を見てもそう悲惨は感じない人もいるはずだ。そして映画を撮った柳沢はむしろ明るいとも述べていた。だが一つ、本人たちにとっては違うだろう。それは自らの未来を予示するものになる。補装具ができたのが四年前だと記され、それらを付けた子どもたち、それを付けて訓練する子どもたちの写真もある。「非同性筋萎縮の防止」のためであり、病気を治すものではないという近藤の解説が入っている。がんばっている表情はあるが、極端な苦行のようには見えない。小さい子たちが足の補装具を付けヘルメットをかぶっているのは可愛くもある。ただ当人たちにとっては、それは虚しい行ないだ。画像・映像は、衰弱と死を現実に示すものとなる。
 写真集がなくとも、療養所にいる期間が長くなれば、そこで人は亡くなっていくことを知ることになる。ただ当初は現実の未来としてはなかなか受け止められない。高野にとってはこの写真集だったという。山田の小説が七八年、高野の八三年の文章はそれを読んで書かれたわけでないが、同じ筋になっている。「結局私に筋ジス≠決定的に教えたのは、中学一年生のときに出版された、西多賀病院の写真集」の前は次のようだ。

 「私が最初に筋ジス≠フ記述を見たのは、小学四年生のときであったと思います。それは、ある少女雑誌の中でのマンガでした。内容は進行性筋ジストロフィー症に冒された少女が、徐々に進行して行く病気との闘いの中で葛藤し、ついには死んでしまう過程を克明に描いたもので、筋ジスに関する小さな解説が付いていました。これを読んだとき私は、全く信じられずに一笑に付してしまいましたが、後になって正しいことがわかって行きました。私の内面では強烈な否認が起こっていたのです。根拠は、死んたものはいない(当時死んだ人を知らなかった)、主人公が女性である、自分は足が不自由なたけで健康であるなどの点でした。」(高野[1983:170])

 山田の小説にあったのと同じ少女マンガが念頭に置かれているのかもしれない。そのマンガを読んで筋ジストロフィーを知ったが、その時はそのままに信じる気にはならななかった、だが、写真集で確かなことを知ったというのである。二人に一つずつ、同じ経過があったということだろう。
 病棟において死は知らされず、病院長他が文章を書いたい写真集では知らされるというのは、そうした出版物が子ども・入所者用のものと考えられていなかったとしても、いささか不思議ではある。ただ、病院長他も病気の悲惨を訴え、研究の推進や処遇の改善を訴える。それは山田や高野や福嶋といった入所者たちやその自治会も違わない。そして、知ることは絶望をもたらすものでもあるが、知ってしまったものを知らない状態には戻せない。高野や福嶋はやがて仲間の死に立ち会わせてくれと病院に願い出ることにもなる。
 そして『ぼくのなかの夜と朝』がまったく気にいらず、「だからこそ納得のいく物を作りたい、私たちの思いを本当に写し出せないだろうか、とその頃から考えていた」山田は、自分たちの映画として『車椅子の青春』を製作する。「出演者には、病気のタイプも、生き方も異なり、住む所も互いに遠く離れている筋ジスの仲間を選んだ。同じ筋ジスの次兄・秀人が長い旅を重ねながら訪問し、生活の様子や考え方などを取材し語り合、つというドキュメント形式で映画は進められた」(山田[199004:77-80])。できあがると、七七年二月一九〜二七日、まず仙台で上映会が行なわれる。千葉の高野たちのその年の終わりに上映会を行なう。」


UP:201705 REV:
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