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映画『車椅子の眼』(1971)2

「身体の現代」計画補足・361

立岩 真也 2017/05/06
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1886811574919154

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 高野岳志(1957〜1984)の他、山田富也(1952〜2010)、渡辺正直(1954〜2012)、石川正一(1955〜1978)、福嶋あき江(1958〜1989)といった人たちについて書こうとしている。ただ手許にある情報はわずかだ。なにかお持ちの方、ください。知っている方、知らせてください。
 『現代思想』2017年5月号の特集は「障害者――思想と実践」。目次、そして一部の執筆者についての頁へのリンクは
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#05
にあり。そこからすぐに注文もできる。
 私が書いているのは特集とは別の連載第133回「高野岳志/以前――生の現代のために・21」。
http://www.arsvi.com/ts/20170133.htm
には文献表があり、そこから文献の全体などへのリンクがある。
 以下はその冒頭。今回はいつもより長い。通して読むとけっこうおもしろいのではないかと思う。買ってください。
 フェイスブックに載せているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20172361.htm
にもある。

 「■映画『車椅子の眼』(一九七一)
 […]
 柳沢は「あんまり明るい」と思った。この映画が山田富也らに関わるきっかけだったという人もいる。さきに名を挙げた武田恵津子は、この映画の上映会で高野の実物に初めて会った★04。以下は、記者を定年退職後、朝日新聞東京厚生文化事業団の事務局長を務めた水原孝の文章。入所者の沈黙・敵意が回顧される。

 「昭和四六〔一九七一〕年に『ぼくの中の夜と朝』という映画を観ました。[…]筋ジスという病気自体を初めて知り、そういう病いの子どもがいると知ってショックを受け、仙台の西多賀病院を訪ねました。病院内に設けられた養護学校の教頭である半沢〔健〕先生の案内で病院を見学してまわり、最後に通されたのが成人病棟です。それが最初の出会いでした。私と先生を中心に、筋ジスの車椅子の青年たちが扇型に囲みました。先生は話し合いをうながすけれど、彼らは押し黙っているばかりです。その中には、富也も二人の兄もいたのでしょうが、冷やかな目で私を見つめているだけでした。
 でも、それももっともなことだったのです。自分たちがこういう酷い状況にあっても、誰も手を差し延べない。マスコミも福祉事業団も口先だけだと、一般社会に批判的だったのですね。私も多少のことには驚かないのですが、彼らの沈黙には困りました。この人たちは、二〇歳前後で死んでいくと言われているのに、自分たちはなにもしていない。でも、申し訳ないと言っても反応がない。苦しまぎれにその直前に訪れた中国の話をしても、なにかできることがあればと言っても、一言も答えがない。結局、「行動を通して信頼関係をつくりたい」と言って、私は話を終えました。」(水原[1997:51])

 「見学者」に対する敵意は他でも、例えば次に紹介する写真集に付される文章でも表出される。「ある日、わたしの一人はささやいた/「施設を見学にいらしたの? それともわたしたちを見に」/無遠慮にジロジロ眺める目/同情にみちた目/あわれみを含んだ目/中三 赤松栄子」(鳥海他[1971:4])
 そして疚しい人は、その敵意や沈黙を向けられることによってさらに疚しくなるだろう。この後、水原は山田から「ありのまま舎」(後述)設立にあたっての支援を依頼される。この流れの中にいると、この頼みは決して断れないものになる。疚しい人は必ず手伝い、それを続けることになる。

 「★04 「私が下志津に赴任したのは、卒業二年前に、たまたま『僕のなかの夜と朝』の上映会に行って、会場で高野君に会い、彼が下志津にいることを知ったのがきっかけです。
 何か自分の生きていく手がかり、足がかりをつかみたかった。高野君や石川正一君は、そのための実存的なきっかけでした。/上映会場の壇上で挨拶したのが、あの高野君であることを確認して、何か言わなければと彼の前に一歩踏み出した瞬間、口をついて出てきたのは、「まだ生きていたのですか」という言葉でした。(筋ジス患者さんの寿命は、およそ二〇歳と理解していたので、もう亡くなっていらっしゃると思っていたからです)」(武田[1987:173-174])


UP:201704 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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