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映画『車椅子の眼』(1971)

「身体の現代」計画補足・360

立岩 真也 2017/05/05
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1885906695009642

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立岩真也編『与えられる生死:1960年代』表紙 立岩真也・定藤邦子編『闘争と遡行・1――於:関西+』表紙   『現代思想』2017年5月号 特集:障害者・表紙   立岩真也『青い芝・横塚晃一・横田弘:1970年へ/から』表紙   立岩真也・小林勇人編『<障害者自立支援法案>関連資料』表紙  
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 『現代思想』2017年5月号の特集は「障害者――思想と実践」。目次、そして一部の執筆者についての頁へのリンクは
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#05
にあり。そこからすぐに注文もできる。
 私が書いているのは特集とは別の連載第133回「高野岳志/以前――生の現代のために・21」。
http://www.arsvi.com/ts/20170133.htm
には文献表があり、そこから文献の全体などへのリンクがある。
 以下はその冒頭。今回はいつもより長い。通して読むとけっこうおもしろいのではないかと思う。買ってください。そして私は高野岳志(1957〜1984)の他、山田富也(1952〜2010)、渡辺正直(1954〜2012)、石川正一(1955〜1978)、福嶋あき江(1958〜1989)といった人たちについて書こうとしている。ただ手許にある情報はわずかだ。なにかお持ちの方、ください。知っている方、知らせてください。
 フェイスブックに載せているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20172360.htm
にもある。

 「■映画『車椅子の眼』(一九七一)
 高野自身がずいぶん目立った人で、だから高野が/高野のことを書いたものもある。その高野の前にも、知らせようという営みがあって、それが高野の方に届くことがあった。読んでいくと、最初に筋ジストロフィーの子たちを受け入れた仙台の西多賀病院の入所者や施設関係者の活動、活動によって生み出されたものが与えたものが大きいことがわかる。一九七一年に、詩集、写真集、映画が各一つできる。写真集は映画の副産物でもあった。映画のことから。
 一〇〇分の記録映画『ぼくのなかの夜と朝』(一九七一)の製作は社団法人西多賀ベッドスクール後援会、監督は柳沢寿男。

 「たまたま仙台の西多賀公立病院というところにいきました。院長先生が[…]病棟を案内してくれました。筋ジスというのは、一九才くらいで亡くなってしまう病気です。そういう子供たちが非常に明るい。あんまり明るいので、この明るさはどこから来るのかっていうことで映画を撮る決意をしたわけですけども、さて、ここで小川のいう自立、自分で銭集めろってことですが、目標は二五〇〇万ぐらいです。」(柳沢[1993] )

 監督の柳沢(一九一六〜九九)が自分の映画について語った講演から。ここで小川は小川紳介(一九三六〜九二)。柳沢は尊敬する映画監督として亀井文夫(一九〇八〜八七)、土本典昭(一九二八〜二〇〇八)を挙げている。この後、話は映画制作のための寄付を集めたその苦労話になる。その前にはその前に撮った映画の話★02、その後には次に撮った映画の話がある★03。おもしろいが略す(こちらのHPの文献表から山形国際ドキュメンタリー映画祭のサイト内にある全文にリンク)。

★02 二〇一二年にアテネ・フランセ文化センターで「柳沢寿男 福祉ドキュメンタリーの世界」という企画があり、後に引用する鈴木一誌の講演はその時のもの。その企画で上演された『夜明け前の子どもたち』(一九七一)『ぼくのなかの夜と朝』(七一)『甘えることは許されない』(七五)『そっちやない、こっちや』(八二)『風とゆききし』(八九)が「福祉五部作」と呼ばれるという。
 五部作最初の『夜明け前の子どもたち』は東京の島田療育園と並んで挙げられる西日本で最初の重症心身障害児施設びわこ学園を撮った映画だった。「重症心身障害児なんて見たことも会ったこともないんです。見にいきましょうというんで、行きました。尼崎というところに行ったんですけども、鉄格子のなかにいるんですよ。お母さんがお昼ご飯をもって入りますと、むしゃぶりついて食べる。お母さんが外へ出て鍵をかけようとすると、母親に抱きついて、踏んだり蹴ったりする。これが重症心身障害児、とても人間ではございませんという感じでした。その人間でないものを教育する。療育をする。先生に「療育ってなんですか」と聞いたら、「そりゃあ、理論的にはわかっているけど、現場で試して当たっているかどうかわからない。だから学園を作って療育するんだ」というので、そうか、これはまたすごい、でも、この子が明日どうなるかということもわからないのに映画を撮るわけにはいかないとも思った。それでも映画を撮ってくれというので、やみくもに撮っていたんですが、ある日近所に流れている川がありまして、その川から石を運んできて学園の裏庭にプールを作ることになった。土を盛って礎石にして、その上にコンクリートを張りプールを作る、そういう作業をですね、ボランティアが約七〇人と、重症心身障害児が八、九人ぐらい、保母さん、看護婦さんみんな協力して作ろうとなりました。重症心身障害児にとってはまったく新しい経験です。そういう経験のなかで、働き方が見事だというよりないほど良く働く、すこしずつ子供たちが変わってくる。療育ってこういうことだなと[…]」(柳沢[1993])
 「夜明け前の子どもたち」が題に入っている本に「全障研新書」として刊行されている田中[1974]があり、二〇〇六年にその復刻版が出されている。
★03 三本目の『甘えることは許されない』は連載でも紹介した西多賀ワークキャンパスを撮っている。
 「最後のほうに、小林君という下半身がマヒした青年が登場します。この青年の、毎朝二時間の日課を捉えたシーンは、柳沢監督について話すときに取りあげずにはいられない、日本映画史に残る屈指の名シーンだと思います。小林君はみんなより二時間も早く起きる。なにをするのか、寝間着から作業着に着替えるんです。[…]キャメラは、それをえんえんと捉えます。[…]
 小林君は、自力で服をきちんと着て、みんなといっしょに朝食をとる。ここに小林君のアイデンティティ、人間の尊厳があるわけです。ここに、「手伝いがあれば五分ですむ作業なのに、彼はひとりで二時間費やす」というナレーションが入ります。[…]「補助を付けてあげられないのか」との非難ともとれる。ただ、そのいっぽうで、小林君が、汗を流し苦悶の表情を浮かべながら必死でズボンをはく、そのすがたからは生きることの崇高さが立ちのぼってきます。告発と描写が背中合わせに貼りついている。手伝いがないからこそ、小林君は二時間も苦心するのですが、それゆえ、何気ない行為の積み重ねが人間の尊厳を形成していくようすをくっきりと捉えてしまう。」(鈴木[2012])
 八〇年代的障害学・障害者運動的には介助してもらって短くすむことなら短くすませるのがよいという話につきるのだが、この話はそれとしてわからないではない。『ぼくのなかの夜と朝』の後、柳沢は西多賀病院院長の近藤文雄に協力し筋ジストロフィーの研究所を作る活動に関わったこと、そしてそれは、田中角栄の失脚などもあってうまくいかなかったことは連載でも述べた。写真集でも近藤は「時間を浪費することは惜しいことです。一日でも早く専門の研究所を作って国民の期待にこたえて欲しいと思います」(近藤[1971:105])と述べている。高野や福嶋、筋ジストロフィー病棟の自治会もその運動を知り、それに参与したことは後でも紹介する。


UP:201704 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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