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高野岳志

「身体の現代」計画補足・358

立岩 真也 2017/05/03
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1884706118463033

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立岩真也・小林勇人編『<障害者自立支援法案>関連資料』表紙   『現代思想』2017年5月号 特集:障害者・表紙   立岩真也・定藤邦子編『闘争と遡行・1――於:関西+』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 『現代思想』2017年5月号の特集は「障害者――思想と実践」。目次、そして一部の執筆者についての頁へのリンクは
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#05
にあり。そこからすぐに注文もできる。
 私が書いているのは特集とは別の連載第133回「高野岳志/以前――生の現代のために・21」。
http://www.arsvi.com/ts/20170133.htm
には文献表があり、そこから文献の全体などへのリンクがある。
 以下はその分載の第3回。第1回と第2回はHP版では
http://www.arsvi.com/ts/20172354.htm
http://www.arsvi.com/ts/20172355.htm
 高野岳志(1957〜1984)の他、山田富也(1952〜2010)、渡辺正直(1954〜2012)、石川正一(1955〜1978)、福嶋あき江(1958〜1989)といった人たちについて書こうとしている。ただ手許にある情報はわずかだ。なにかお持ちの方、ください。知っている方、知らせてください。これらの人、書いたもの/書かれたものについては文献表からどうぞ。
http://www.arsvi.com/ts/20170133.htm
 前便
http://www.arsvi.com/ts/20172357.htm
の素朴な疑問への応答も求めています。
 フェイスブックに載せているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20172358.htm
にもある。

 「■高野岳志
 高野は一九五七年六月六日、東京生まれ、茨城県石岡市の父親の実家に移る。六四年、小学校入学の前日六歳で筋ジストロフィーと診断され、九歳のとき親元を離れ、千葉県の国立療養所志津病院に入院。八一年九月に病院を出る。亡くなるのは八四年十二月。高野が八三年と八四年に書いたいくつかの文章が残っている。今年で終刊となる『そよ風のように街に出よう』を長く編集してきた小林敏昭が高野を取材して書いた八一年の文章、八五年の追悼文、他がある。そのいくつかで、同じことについて書かれながら、語り方、書かれ方はすこしずつ異なる。そのこともまた大切だと思うから、以下、重複する箇所を含む記述を紹介することがある。また刊行の月日が大切な場合があるから、規則性なくそれも表示することがある。

 「筋ジスのベッドが百床に増床されたので入らないかと保健所から話があった。父は「この病気は治らないけれども、いろんな先生が研究しているから、入院していれば一番早く治せる。養護学校が棟続きで建っているから、通学に苦労しなくていい」と息子に話して聞かせたという。」(小林[1981:39])
 「入所を決める際に両親が私の意見を求めてくれたことは、今でも忘れることができません。両親が私のことを一個の尊重されるべき人間として扱っていること、また、入所ということが加何に重要な問題を含んでいるかということな私は子ども心にも感じていました。/このとき、父が私に言ったことは次のような内容でした。「岳志君も良く知っていると思うけど、岳志君の病気はまだ治らない病気なんだよ。だから、日本や世界のおおぜいのお医者さんが、一生懸命に病気の冷療法の研究をしているわけだ。そこで、入院するかもしれない病院は、岳志君と同じ病気の人達を集めて、お医者さんが研究をするために、検査をしたり、投薬したり、機能訓練をしたりする所なんた。たから、治療法が発見されれば一番先に治るし、岳志君と同じ病気の人達のためにもなると思う。それに、学校たってあるんだもの、淋しいだろうけど、入院したらどうかね」これに対して私は二、三年ならがまんできるよ。六年生くらいには、もどってこれるよね」と応えたものです。」(高野[19831125:167-168])

 高野は後に、自身の退院を巡ってこの父とたいへん厳しく争うことになるのだが、この入所の時のことについてはよい父親であったと、その争いの後に書かれた文章でも述べている。連載で見てきたように、この時期はちょうど、一九六四年から開始された国立療養所への筋ジストロフィーの子の収容が拡大していた時期にあたる。今は治らないがそのうち治るようになる可能性と教育の機会があることが病院入院への理由にされる。高野もまた多くの人も筋ジストロフィーの予後がわるいことはその時には知らされない。
 高野はその療養所で活発な子どもだったという。七二年十二日一日、当時一四歳の高野の一年間の生活を取材したNHKのドキュメント番組『ある生の記録』が放映される。この番組はいくつか賞をとる★01。今でも各地のNHKの「番組公開ライブラリー」で見ることができる。それを見た人に、後に下志津病院に看護師として務め、福嶋あき江の渡米に付き添うことになる武田恵津子がいる。

 「自分を必要としてくれる場所、空間、そういうものを必要とした時期に、NHKの高野君のドキュメンタリーを見たんですね。高校の二年のときでした。それで、看護婦になろうと思って聖路加の看護学科に進学したんです。[…]
 なぜ筋ジスだったのか? ドキュメンタリーを見たときは高校生で、それがなんであるか調べようという気もなく、不治の病気にめげずにがんばっている、っていう印象だったんです。[…]/その番組には、高野君だけでなく、彼の先輩ですでに亡くなった人の声が背景に流されていたのね。その人はクリスチャンだっていうのが、ひっかかったのかもしれない。彼の言葉は今も覚えています。/「お父さん、お母さん、僕が死んでも悲しまないでください。僕は幸せでした」/たんたんと語っていました。石川〔正一〕君の文を読んでも、死を前にとても幸せそうで、安らかで。それが、やっぱりすごいショックだったんです。
 私自身、中学生のときに洗礼を受けていましたので、人の役に立つ生き方をしなければならない、と考えていました。その一方で、私のような者でも、必要としてくれる対象がほしかった。そのことで自分の存在を確認したかった。そういう志向が筋ジスへと目を向けさせたのかもしれません。」(武田[1987:173-174])

 そんな人が、数は多くはないとしても、いつもいくらかはいる。人の死生や存在価値についてその人たちは何かを得たように思う。それは否定されることではないだろう。ただ、そんな具合に、なにか達観できた人間として受けとめられるのは違うと思う本人たちもいる。ただ達観できない人も懸命であることはあって、それにも武田恵津子は、また多くの人は感じ入っている。その感じ入られ方に対してもまた反発を感じる人もいる。ただその感じ入られ方が人から「支援」を引き出すこともある。
 だからといって実際に深く関わるようになる人は少ない。ただ武田は後に映画の上映会で高野に会い、下志津病院で働き始め、そして福嶋あき江の渡米に際して一人で介助者を務める。そして二人はひどく疲労し衝突し、すっかり消耗してしまう。後述する。

★01 モンテカルロ国際テレビ祭ゴールデンニンフ賞(最優秀作品賞)受賞。 日本テレフィルム技術賞奨励賞受賞(撮影)。」



UP:201704 REV:
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