『社会モデル』
http://www.arsvi.com/ts/2016m2.htm
を読んでもらいたいので、そこに収録している文章を紹介中。その03回目。「「社会モデル」・1――連載・58」(『現代思想』2010-9)より。
04/22(土)日本社会福祉学中部地域ブロック部会主催2017年度春季研究例会研究例会 、「相模原障害者 殺傷事件から問い直す『社会』と福祉」で講演「道筋を何度も作ること――7.26殺傷事件後」
http://www.arsvi.com/ts/20170422.htm
そこでは理屈ぽい話はしない。
なお、フェイスブックに載せているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20172348.htm
にもある。
「■すくなくとも五つ [略]
■インペアメント
社会モデルの話をまず聞き、インペアメントとディスアビリティという対置のさせ方を知ると、まずはこれでいけるような気がする。だがしばらく考えていくと、どうも都合がわるいところがあるようにも思える★05。
「ないにこしたことはないか・1」(立岩[2002])という文章を書いたことがあり、英語に翻訳してもらったこともある。その場合何が「ないにこしたことはないのか」かといえば「障害」なのだが、「障害=ディスアビリティ」とは「不利益」のことを言うのだとすれば、ディスアビリティは(本人にとっとては)「ないにこしたことはない」に決まっているわけで、この問いには意味がない、というか間違っていることになる。ではその文章にある「障害」とか「できないこと」といった語をすべて「インペアメント」とすればよいのだろうか。他になければ置き換えてもかまわない箇所もあるのだが、やはりうまくないと思えるところがあり、いくらかでもずれてしまう部分があるように思う。
第一にインペアメントについて。インペアメント/ディスアビリティという図式が採用される場合、障害学・社会モデルを唱える論者たちはインペアメントの契機を小さく位置づけるのではあるが、しかし、同時にそれは必須の契機でもある。そしてインペアメントがここに置かれることによって、「できないこと」について明示的に語ることをしなくてすむことにもなる。足がないとなれば(足で)歩くことができないのは自明なことなのである。」
「★05 このことはインペアメント・ディスアビリティ・ハンディキャップという三つの語を使う以前の図式について、立岩[2000]に再録された文章(立岩[1998])――本誌の「身体障害者」の特集に掲載されたものだった――でも述べたことがある。」
立岩真也 1998 「一九七〇年――闘争×遡行の始点」、『現代思想』26-2(1998-2):216-233→立岩[2000:87-118]
―――― 2000 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』、青土社