『社会モデル』
http://www.arsvi.com/ts/2016m2.htm
を読んでもらいたいので、そこに収録している文章を紹介中。その02回目。「「社会モデル」・1――連載・58」(『現代思想』2010-9)より。
04/22(土)日本社会福祉学中部地域ブロック部会主催2017年度春季研究例会研究例会 、「相模原障害者 殺傷事件から問い直す『社会』と福祉」で講演「道筋を何度も作ること――7.26殺傷事件後」
http://www.arsvi.com/ts/20170422.htm
そこでは理屈ぽい話はしない。
なお、フェイスブックに載せているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20172347.htm
にもある。
「[…]そんなことがあって、「障害の社会モデル(social model of disability)」という主張を検討しようとしている。それは「「障害」をインペアメントとディスアビリティという二つの次元に分けて考えて、社会的に形成されるディスアビリティについて社会的責任を追及していく」(杉野[2007:117])考え方であるとされる。前回は、英国のUPIAS(隔離に反対する身体障害者連盟)の一九七六年の定義と、マイケル・オリヴァーの説明を紹介した。このモデルを巡ってはこれまでに相当の議論がなされてきた。そのかなりの部分は杉野[2007]、星加[2007]に紹介されているのだが、ここではそこに紹介されたり検討されたりしていることとすこし別のことをも含めて述べようと思う。
UPIASの定義では、インペアメントは「手足の一部あるいは全部の欠損、または手足の欠陥や、身体の組織または機能の欠陥」のことであり、ディスアビリティとは「現状の社会組織が身体的インペアメントのある人々のことをほとんど考慮しないために、社会的活動のメインストリームへの参加から彼らを排除することによって引き起こされる活動の不利益や制約」であるという(UPIAS[1976:3-4])。そしてこの組織は身体障害者(肢体不自由者)の組織であったから定義が身体に限られているのだが、後にその範囲が広げられることになる。
私は、社会が問題にされるべきであるというその主張に基本的には賛成するが、いくつか加えて、あるいは言われていることに代えて述べるべきこと、検討するべきところがあると考えている。
まず、これは障害者は病人ではないという――言おうとすることはもっともだが、字義通りには正確ではない――言明をどう理解するかにも関係し、身体の状態・差異に関わる契機として、どんなものがあるのか、障害と病はそのどの部分を占めるのかを確認する。以上を十全に述べるためには、五つはあるとする各々の契機についてそれぞれいくらかは詳細に検討しなければならない。今回はごく簡単に記すに留めるが、身体に関わり、その中で障害に関わる契機の中で「社会モデル」がそのうちの何を問題にしているのか(していないのか)は簡単に確認しておく。それは「インペアメント」の軽視という批判をどのように解するのかということにもつながる。このことについては次回以降に検討する。
そして今回は、社会モデルが問題にしようとすることを言うためにも、インペアメントとディスアビリティという二つの言葉で言っていくのには都合のわるいところがあることを述べる。」