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松山善三1961「小児マヒと闘う人々」

「身体の現代」計画補足・342

立岩 真也 2017/04/16
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1875285082738470

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立岩真也編『与えられる生死:1960年代』表紙   立岩真也・杉田俊介『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』表紙   立岩真也『青い芝・横塚晃一・横田弘:1970年へ/から』表紙   『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙
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 忘れたほうがよいことはたくさんあって、知らなくてもよいこともたくさんある。ただ、社会福祉(学)を教えたりする側にいる人はいちおうのことを知っていた方がよくて、知っているなかから、教えることを、自分が習ったのとはすこし違うようにした方がよいなどと考えることがある。
 04/22(土)日本社会福祉学中部地域ブロック部会主催2017年度春季研究例会研究例会 、「相模原障害者 殺傷事件から問い直す『社会』と福祉」で講演。於:名古屋。「道筋を何度も作ること――7.26殺傷事件後」
http://www.arsvi.com/ts/20170422.htm
ですこしそんなことも話そうと思う。
 そのいちおうのことの一部を、『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』(立岩真也編、2015)
http://www.arsvi.com/ts/2015b1.htm
にまとめた。ここに引用するのはその2番目に収録した松山善三1961「小児マヒと闘う人々」の冒頭から。
 フェイスブックに載せているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20172342.htm
にもある。

 「身体障害者の生活を主題にした映画『名もなく貧しく美しく』を製作した時、私はたくさんの身体障害者に会って話しあったが、その人たちの誰もが、私に訴えた悩みの一つは、オシ、ツンボという言葉で呼ばれ、健康な人々からさげすまれることであった。日本語には、そうした身体障害者を蔑視する言葉が非常に多い。不具者、癈人、カタワ、チンバ、ビッコ、骨なし、奇型児など、心ない人人が、何げなく使うその言葉が、いかに身体傷害者の心を傷つけ、自分自身はもちろんのこと、人間の尊厳そのものまで傷つけるかに気づいていない。昨年の夏、北海道に集団発生した小児マヒは、今年は九州の熊本にとび、日本全国の子を持つ母親たちを恐怖のどん底におとし入れた。小児マヒが急激に世間の関心を集めると同時に、その後遺症(傍点筆者)にも照明があてられ、やっと、肢体不自由児の問題が、人々の口の端にのぼるようになった。
 肢体不自由児は、全国で約四十万人といわれる。小児マヒ、先天性股脱、骨関節結核、化膿性骨関節炎、リウマチス、脳性マヒ、クル病、外傷などが、その直接の原因である。肢体不自由児の一人一人が、難しい病名を持ち、その病気と闘っている。彼らは罹病者であって、不具者や癈人では決してない。
 外部にあらわれた病気だけが、なぜ健康者の蔑視をうけなければならないのか。

 「小児マヒと闘うアメリカ」というテーマをもらって、ある雑誌社の仕事で、私はアメリ力を旅行して来た。一ヵ月の短い旅行で、しかも専門外の仕事なので深い観察はできなかったが、それでも幾つかの感慨を持った。例えば、米国では、肢体不自由児の写真をとらせてもらう場合、その病院の許可と、その子の母親の承諾がなければ、一枚も撮るこ△117 とはできない。手や足や、呼吸筋が冒されていても、人間としての尊厳は、周囲の人々の理解と愛情に包まれて完全に守られている。また、ロスアンゼルスの肢体不自由児を収容する病院には、小児マヒばかりではなく、あらゆる原因で身体の自由を失った子供たちが収容されていた。職員は千八百人、年間予算は千二百万ドルという。そのうち小児マヒに使用される予算は百五十万ドルから二百万ドルといわれる。ここでは、子供たちの精神的、肉体的、職業補導の三つの治療が同じに行われている。患者一人あたり、一日の入院費は平均五十ドルで家庭の貧富に応じて支払い可能な額だけ支払えば良いことになっている。無料の患者ももちろん収容されていた。
 日本にも、これに負けない病院はある。東京の板橋にある整肢療護園がそれである。規模や設備の点では、私が見たロスアンゼルスの病院と同等である。ただ違うのは、ロスアンゼルスの病院には看護婦や理学療法師の姿がいっぱいなのに、日本のそこには、子供を見守る悲しい母親の姿がいっぱいという現状であった。日本の母親の方が、米国の母り、子供に対する愛情が深いなどと誤解してもらっては困る。病気そのものに対する認識が、日本と米国では全く違うのである。
 日本では、小児マヒと闘うのは子供を抱いた母親の姿だが、米国では医師その人(傍点筆者)である。子供を抱いた母親の姿は悲壮だが、戦争中の竹楯を持った兵士に似ている。日本の医師が、なぜ大きな組織となって、今日の緊急課題、小児マヒと闘わないのか、私には不思議に思われる。
 ロスアンゼルスでは、州の医師会員、八千人が、義務的に、ソークワクチンの接種運動に奉仕している。この運動は、ソークワクチンの発見以来つづけられてきた。接種の日時は新聞に報道され、地区の教会や、中学校などで予防注射が行われる。料金は一ドルで、医師は、何日間かの労力を無償で提供する。
 ニューヨークでは「ポリオ・バス」と呼ぱれるソークワクチンの無料注射を施すバスが市の衛生局の仕事で、毎年春さきから夏にかけて市内全域を巡回する。「ポリオの予防注射は済みましたか?明日では遅すぎる!」と衛生局の人々が市民に呼びかけ、個別訪問してまで予防接種に努力していた。
 こうした運動は、すべて医師たちの努力によって生まれた。私が米国旅行中に、もっとも感動したのは、こうした医師たちの勇気と情熱、たゆまぬ働きかけの成果であった。
 ソークワクチンか?生ワクチンか?の論争も断絶することなく続き、アメリカ政府は、生ワクチンにはまだまだ不安や、研究の余地があるとして、製造許可をしていない。
 しかし、ペンシルヴァニア州の首都、ハリスヴァーグでは生ワクチンに百パーセントの信頼をよせて、今年の四、五、六月の三回にわたって、大規模な生ワクチンの投与が行われた。これに用いられた生ワクチンは、英国ファイザー社製のもので、日本に贈られたものと同じ生ワクチンである。この大規模な投与を成功させたのは、ハリスヴァーグに住む二人の小児科の医師の努力によってである。
 一人はドクター・トーマス・フレッチャーといい、四十がらみの落ちついた感じでグレン・フォードに似ている。この人は十五歳の時、自分も小児マヒにかかり右足が不自由でった。もう一人はドクター・フランク・プロコピオといい、三十代で派手なリボンのついたパナマ帽をかぶり小意気な遊び人の風態で、いわばリチャード・ウィドマークばりの△118 男であった。私がハリスヴァーグを訪ねた時、二人は花束を持って私を出迎え、自身で教会へ案内してくれた。
 この二人の医師がペンシルヴァニア州の医師会を動かし、その賛同を得て「セービン・ワクチン(生ワクチン)を投与したいが助力を頼みたい」と、生ワクチンの発見者ドクター・セービンに手紙を出したのが今年の二月。セーピン博士からファイザー社へ連絡がとられ、英国から空輸、第一回の希望試飲が行われたのは二ヵ月後の四月六日。そのスピードぶりにも驚かされるが、二人の医師の子供たちを守ろうという情熱に私は頭をさげた。生後七週間の赤ちゃんから四十五歳までという条件で希望者をつのった。もちろん無料である。第一回目が九万人、五月十一日の第二回目が十万人、第三回目の今日は恐らく十一万人を越えるだろうと、ドクター・プロコピオは胸をはった。この成功はほとんど絶対的なものといわれ、ハリスヴァーグでは、今年は小児マヒ患者は一人も出ないだろうといわれている。日本には、ソークワクチンも、生ワクチンも不足だ。しかし、真実不足しているものは、子供たちを病疫から守ろうとする医師の情熱と努力ではないだろうか。
 ハリスヴァーグの成功は、全米で支持をうけ、翌日のヘラルド・トリビューン紙は「夏季をむかえるまでに、全米の少年少女にセービン・ワクチン(生ワクチン)を一日も早く与えるべきだ」と書いている。セービン・ワクチンが全国的に使用されるのもはや時間の問題となり、その投与によって、人類は永久に小児マヒから予防されるだろうといわれる。「小児マヒを絶滅させることはできないが、完全に予防することはできる」と、私を案してくれたニューヨークの衛生課員でさえ自信のある声で言った。
 小児マヒはアメリカではもはや過去の病気である。一九五五年、全米で小児マヒ発病者の数は三万八千名であった。昨年はその十分の一に満たない三千二百名に激減している。
 小児マヒは台風に似ている。突然やってきて、身体の中を吹き荒れ、狂い、そして大きな傷あとを残して、どこへともなく消えてゆく。意志はあっても抵抗する方法をもたない人間は残された傷あとを営々とつくろうより仕方がない。営々と――。これは小児マヒ患だけではない。小児マヒよりもっと恐ろしい病気がある。脳性小児マヒがそれである。」


UP:201704 REV:
松山 善三(1925/04/03〜2016/08/27)  ◇病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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