『現代思想』3月号の特集は「社会学の未来」
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#03
私の連載は第131回。「施設/脱施設/病院/脱病院――生の現代のために・19」。これを分載していくこれがその第3回。長くかかる。『現代思想』買ってください。この回の目次・リンク付の文献表は
http://www.arsvi.com/ts/20170131.htm
以下で「昨年の事件についての本」は
http://www.arsvi.com/ts/2017b1.htm
その第1部第2章「障害者殺しと抵抗の系譜」の第6節「一九八二年・島田療育園からの脱走事件他」でその事件のことを記している。
「八二年に島田療育園から出ようという人がいて、それが阻まれることがあった。一月一六日に斉藤秀子(当時三二歳、脳性まひ)が施設を出る。家族は捜索願いを出し連れ戻される。「家出」を支援した職員は懲戒解雇処分になる。それに抗議した職員は訴訟を起こすが、その公判で施設側は斉藤に「意思能力」「同意能力」がないことを主張した。支援者は連れ戻された斉藤に会おうとするが拒絶される。[…]」
フェイスブックに載せているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20172324.htm
にもある(書籍紹介の頁へのリンクがある)。
「■かつて書いたこと残されたこと
[…]
そしてもう一つ。最初に紹介した時にも「革新(都政)」の側の人たちがこの運動に冷たかったことは述べた。府中療育センターと同じ敷地には都立神経病院と七二年に開設された神経科学総合研究所があり、この開設は薬害スモンに関わりがあった(木下[1978:85-86]等)。神経病院と研究所で、「難病看護」の初期の活動を担い、そして長くその中心にいた木下安子、川村佐和子といった人たちが活動した。しかしその関連の書きものにいくらかある府中療育センターについて言及した部分には例えばこの「闘争」への言及はない(中島[1975]、木下[1978]等)。こうしたことがしばしばある。そしてそれはその後の、障害者・病者の生にいくらかのそしてよくない影響を与えたと私は考えている。だからその空白の具合も含めて書いていこうと、この連載を続けているのでもある。
そして私に限っていえば、もっと単純に知らないこと忘れていることもある。一九七〇年代の終わりから一九八〇年代は私がもう大学生などをしていて障害者運動にもいくらかの関わりはあったはずなのだが、私が知っていたのは宇都宮病院での事件(報道が始まるのは八四年)ぐらいのものだった。加えて文字によっていくらか知ったものが島田療育園(現在の島田療育センター)に起こった八二年の「脱走事件」他のできごとであり、府中療育センター闘争を紹介したのと同じ文章で荘田[1983]等の文献をあげ紹介はしている(立岩[1990→2012:333]註8)が、それ以降、注意を払ってくれた人はいないようだ。そして島田療育園の活動、そしてそこへの公的支援を求める水上勉の公開書簡とその後の動きをもって六〇年代の社会福祉の前進を語るという伝統に大きな変化はない。それで昨年の事件についての本でも再度紹介したのでもある。後述する。」