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ただの病気を記述することは

「身体の現代」計画補足・306

立岩 真也 2017/02/01
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1840065989593713

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『良い死』表紙   『唯の生』表紙   『生死の語り行い・1』表紙   『現代思想』2017年2月号 特集:ビットコインとブロックチェーンの思想――中央なき社会のゆくえ・表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 『現代思想』2月号、特集「ビットコインとブロックチェーンの思想――中央なき社会のゆくえ」に掲載されている連載第130回を分載している。
http://www.arsvi.com/ts/20170130.htm
だいぶかかるので2月号買ってください。役に立つはずです。文献(のリンク先含め)これから足していくので時々見てください。&抜けている本たくさんあると思います。教えてください→tae01303@nifty.ne.jp(立岩)。
 「死生学」関係の本は『生死の語り行い・1』
http://www.arsvi.com/ts/2012b2.htm
に続く本で紹介することにして原稿は書いてあって、2014年には出すつもりだったのだが、もう2017年になってしまった。近く、たぶん電子書籍(だけ)というかたちで出すつもり。『良い死』『唯の生』『生死の語り行い・1』と合わせた文献表は
http://www.arsvi.com/ts/2008b1b.htm
 フェイスブックに載せているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20172306.htm
にもあって、そこから上記の本を紹介する頁にリンクされている。


 「■医療社会学的にコレクトなもの/そうでないもの
 […]
 他方、ただの病気を記述することは難しいように思われる。快癒がないのであれば、苦があり、死がある。それは一人ひとりに個別に固有に生ずることではあるとしても、あるいはそれゆえに、なにかをまとめて書くことは難しく、また他方で、固有で深刻なことであるけれども人々は身近に知り体験することでもあって、そこから「学術的なもの」に求められる「新しいもの」を見出すのは困難なように思われる。記述でなく「実践」の方面を行こうとするならどうか。病において目指されているのは、快癒することや生き延びることである。むろん、治療や技術開発に金はいるからその方面については(医療)経済学や政策学が関わる部分はあるが、おおむね、社会科学や人文科学は普通の意味での治癒のためには直接には役にたたない。「普通の病気」についての書きものが少ないのにはまずそんな事情もあるだろう。
 社会学者・人類学者による慢性病に関わる著書に『病気だけど病気ではない――糖尿病とともに生きる生活世界』(浮ケ谷幸代[2004])、学位論文として『治療という名の予防――自覚症状がない糖尿病患者を対象とした「治療」の社会学的分析』(福島智子[2005])がある。また『脳卒中を生きる意味――病いと障害の社会学』(細田美和子[2006])がある。例えば糖尿病は珍しくはないものだが、本人によって病気と意識されないことがある。そこにおもしろみを見出し、それを見ていこうとしたりする。その限りでは医療社会学の本道から外れてはいない。
 他方には深刻な病がある。ただそれはかえって記述が難しい。人々は対処のしようがないことがあることも含め、かなりの部分を既に知ってもいるのである。それでも、中には人が置かれる場自体が特別であり、そこに家族が絡んだりすると、調べてもらい報告してもらいたいことも出てくる。『小児がん病棟の子どもたち』(田代順[2003])といった価値ある本はある。ただ多くの場合には書くことがない。書きようがない。生死の間は「死生学」の対象になったりはするが、その学自体がすぐに反復し共感しあう世界になる。」


UP:201701 REV:
『生存学の企て』  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇病者障害者運動史研究  ◇身体の現代:歴史
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