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スモン関連書籍・22冊、『ALS――不動の身体と息する機械』の後に出た本、『ALS』の文献表に出てこない本:前者28冊、後者が4冊、計32冊、筋ジストロフィー:62冊(ありのまま舎関係別掲)、以上以外の「難病」関連:65冊、難病看護」関連等のリスト。この文献リストを載せると倍くらいになってしまうので、それは別にした。それが
http://www.arsvi.com/ts/20170130.htm
です。文献(のリンク先含め)これから足していくので時々見てください。&抜けている本たくさんあると思います。教えてください→tae01303@nifty.ne.jp(立岩)。
「病者障害者運動史研究」は
http://www.arsvi.com/d/hsm.htm
そこから科研費の申請書類も読めるようになっています。
『ALS――不動の身体と息する機械』は
http://www.arsvi.com/ts/2004b2.htm
フェイスブックに載せているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20172303.htm
にもある。
■「研究者」によるもの/そうでないもの
こうして、何を、どこまでを対象とするのかによって何をあげるかも変わってくる。そして、誰が書くのか語るのかによっても分けられる。そして分けることにどんな意味があるかという問いがある。
書きものには研究者によるものがあり、ジャーナリストによるものがあり、本人や家族によるものがあり、医師など供給側ときに加えて研究側にいる人によるものがある。ちかごろは学者の書いたものの方が高等であるといったことを言う人は少ない。優劣でないにしても差異があると見るか、見ないか。差異はあり、あるから、紹介する場合にはそれぞれに分けて紹介した方がよいとはまず言える。
それにしてもどんな差があるか。それを本格的に言うのは別の機会にするが、一方に「地」の語り・記述があり、他方に、それを分析するものがあるという分け方がなされる。また、一般に人は同じ物語を、人と同じ話を幾度も語ってならないことはない。だが「学術論文」では、何か新しいことを言わねばならないとされる。
ただ「学」の側のどのように見るかというその分析の枠組、見方自体は、大きな枠組としては、たいがいは既にあるものに乗っている、だからその学の世界に受け入れられるということもある。大きな枠組は共通であるそのうえで、人によっては瑣末と思われる「新規なもの」が加えられるのである。すると、その「学」の側の捉え方の枠組自体を対象として見ていくことができる。さきに述べたように、分かれ方、境界の接し方を見ようとするなら、そうした作業が積極的に求められることにもなるのである。
そして次に、私がここで行なっている記述にとっては、一方で様々に反復される物語も、また他方でいくらかのオリジナリティを有するという記述も、それらの間にある差異に一定の注意は払うとしても、それほど大きく異なると捉える必要がない場合もある。まずは証言として、あるいは証言の記録・伝聞としてみる。取材して書かれたものの中に書かれている記述もそのように使える。研究論文として書かれた論文に収録された発言も同様である。なかには直接の取材による希少な情報があることもあり、その文献によってしか知られない部分もある。
学術的とされるものが、査読があるからまた虚偽を記した場合に制裁があるから、格段に確実であるとは言えない。例えば「闘病記」に虚偽を記そうという利害はそうはない。そして、何かが語られたこと自体は事実であり、発せられた言明は事実存在する。どんな媒体に載ったものにせよ、そこに載っていること自体は事実である。簡単なやり方としてはそのことを明示すればそれでかまわない。ただそれはときに言い訳ということになるだろう。まずは、このように記述されているという事実の水準を確保しておいて、さらに確実性を可能な範囲で求めるという当たり前の手続きを取ることになる。
そしてこれといくらか別のこととして、何を語りたがっているのか、何を隠しているのか、ということがある。そしてそれは、多く学的なものにおいてもはっきりとある。それ自体が記述・分析の対象になるとさきに述べた。関連して、書く人と書かない人との間にある差異には注意を払う必要がある。『ALS』(立岩[2004])でも書いたことだが、死んだ人は死んでからものを書くことはない。そして困難な境遇にあるからこそ文章を書くということはあるのだが、それでも極端に困難な人は書くことが少ないだろう。書ける人はそこそこにうまくいっている人であることもある。」