前回再開した、『生存学の企て』(生活書院、2016)
http://www.arsvi.com/b2010/1603rcav.htm
「補章」の再掲第2回(通算第29回)。
『REAR』38号に掲載された廣瀬浩二郎さんとの「障害と創造をめぐって」と題された対談でいくらかを話している。
http://2525kiyo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/rear38-27eb.html
またお知らせする。鹿島萌子の論文の一つは『生存学』9号(2016)に載っている。
http://www.arsvi.com/m/sz009.htm
他に『生存学』7号(2014)
http://www.arsvi.com/m/sz007.htm
等々。
フェイスブックに載せているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20172291.htm
にもある。
「■4 言葉にしていくこと
■日常を言葉にする&言葉でない世界を言葉にするのは難しい、が
[…]
それでも、いくつか思いつくことはある。
例えば「障害者アート」「アール・ブリュット」――二つは異なる――といったものがあって、例えば前者はいかにも胡散臭いのだが、しかし名前はなんであれ実際にすごいものはあって、そしてそれは障害の有無と関係ない、と言えるかというと、そんなことはない、関係があると思われる。(『生存学』の表紙のいくつかを見てもらってもよい。)胡散臭いことと実際すごいことの間に何があるのか、それは難しそうだが、なんとか書きようがあるような気もする。そしてそこには、教育業界であるとか医療・福祉業界であるとか、いろいろな思惑があってきたことも明らかだ。そこを書くことも、なんとかなるように思える。書いて書けなくはないと思える。
もう一つ、視覚障害者の触る美術鑑賞というものがあって、実際それを研究の対象にしている人がいる(鹿島[2014][2016])。それにもその成り立ちがあるのでまずそれが書けるのだが、それとともに、素朴に、触る人たちは何がおもしろいのだろうと思う。お客はいるのだから、なにかは楽しんでいるのだが、なにを楽しんでいるのだろう。それは調べれば書けそうな気がする。さしあたりそのぐらいのことは思う。
他の領域・主題についても言えることだが、自分はこれはすごい、と思ったとしても、あるいは思っているからこそ、たいしたことないんじゃないか、という反問、横槍をきちんと、まじめに受け止めるところから書くというやり方がある。あるいは、「そのもの」がなかなか書けないのであれば、それを捉えるだめな捉え方、扱い方をもってきてそれを批判することによって、「そのもの」に近づくというやり方がある。」