「第一に、ポストモダンが語られた前世紀から今の世紀にかけて基本的な変化は起こっていないと私は考えている。つまり、近代を自己所有権(self-ownership)の時代・能力主義の時代(the age of "ableism"=A)とするなら、その時代は続いている。だが、同時に、常に、別の原理・現実Bは併存している。Aの時代の後にBが来る、来てほしい、来るかもしれない、と考える必要はない。常に二つ(以上)の間の抗争がある、それに社会運動も、またときに学問も関わっているのだと考えることである。Bは社会に現に存在する契機むしろ社会の基底であり、またAを批判し続ける位置でもある。それをポストモダンと呼びたければ、そう呼んでもかまわない。そしてBは、ポストモダンの思想と一定の親和性を有するものではある。私も以前いくらかは読んだ。ただ、その思想・言説がなければ成立しないものでなかったことも言えるとも思う。私はむしろ障害を巡る社会運動とその言葉から、Bを受け取ったと思う。(そして「post」と呼ぶ必要もないだろうから、私はその言葉を使ってはこなかった。)
第二に、近代社会とdisability はどのように関わるのか。ここで私たちは、多様で連続的なability / dis-ability のなかに相対的に位置づくdis-ability と、impairment とセットのもとしてあるdisabilityとをいったん分ける必要がある。そして近代社会は、近代社会であるというその条件のもとで、di-sability の一部をdisabilityとして括りだし、ときにそれに一定の保護・免責を与えてきたのだと考えることができる。さらにそのことによって近代社会は自らを維持しているのだとも捉えることができる。とすれば障害学もまた近代社会の維持に貢献してきたのだと見ることもできる。
そしてそれと同時に、障害を巡る社会運動と障害学は近代と別のものを提示したともさきに(第一点として)述べたのだった。第一点と第二点、この両者はどう関係するか。報告原稿の各国語のフルテキストをできるだけ早く用意し、私どものサイトに掲載する。また本報告のとくに第一点については、拙著『私的所有論』(初版一九九七、第二版二〇一二)に詳述した。その英語版が二〇一六年に電子書籍で出版された。やはり当方のサイトから購入できる。またセミナー当日にも持参する。」