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成年後見に代わるもの

立岩 真也 2017/07/22
明治安田こころの健康財団2016年度研究助成成果報告会:http://www.my-kokoro.jp/

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『障害学国際セミナー 2016――法的能力(障害者権利条約第 12 条)と成年後見制度』表紙画像(クリックすると大きな画像で見ることができます)   『障害/社会をめぐる新たな展開と課題――連続セミナー「障害/社会」3』表紙画像(クリックすると大きな画像で見ることができます)   立岩真也『自己決定/パターナリズム』表紙

◆立岩真也 2017/10/01 「成年後見制度後見に代わるもの」,明治安田こころの健康財団編『研究助成論文集・第52号』 
 https://www.my-kokoro.jp/books/research-aid-paper/vol52_2016/pdf/mykokoro_research-aid_paper_52_14.pdf

 ※以下は提出した原稿の草稿

<要 旨>
 本人でなく他人たちが決めるしかない場面、決めるべき場面があることを認める。しかしそのことは後見制度を認めることを意味しない。本人のための制度として、この制度はよくない制度だと言える。代わりにどうするか。一方で、自分の決定にも、過去の自分のでも(→「事前指示」)、さらに他人(後見人)の決定や差配に委ねるのでもなく、認められ支持され「自動的に」供給されるべきものがあるとした。他方で、本人の「恣意」を、それを「自由市場」のほうに放置することによってはではなく、いくつかの仕掛けを周囲に設置することによって認めるのがよいとした。

 研究助成を得たことによって、2016年9月、韓国、中国、台湾、香港、日本の研究者・実務家を招いて障害学国際セミナー 2016「法的能力(障害者権利条約第12条)と成年後見制度」(於:立命館大学)を開催することができた。その報告書が公刊されている(長瀬・桐原・伊東編[2017])。関心のある方にはお送りする。以下、その企画にも関係して作成した文章と当日の報告(立岩[2016b])をもとに、論点を幾つか確認し、議論の方向を予示する。よって、そのセミナーでの報告に言及することがある。これは理論的にも広く深く、実務的にも重要な主題である。まとまった長い文章・書籍は別に用意する。

1 問題
 成年後見制度の拡充が社会的に必要とされる理由ははっきりしている。認知症の人の増大である。それで例えば経済的な被害に遇うことがある。本人の意志・発言を聞く、その通りにするというだけではうまくいかないこと、うまくいかないように思われることが多く起こっている。本人も困るし、家族が困ることもある。また、金を預かり運用している保険会社や銀行も対応に苦慮することがある。2016年に成立した「成年後見制度利用促進法」はそうした背景から出てきた。幾つかの障害者団体他は反対したが法律は成立した。ただなんとはなしによい制度であると思われていたものの問題点が、メディア、いくらかの政治家に知られ、今後検討すべきことがあることが認識されたことは、その時の動きの一定の成果ではあった。
 成年後見制度のもとでは他人が本人になりかわってしまう。後見人が本人を擁護するというより、その後見人が本人とされるのだから、(本人その人によるだけでなく)本人「側」から抗弁が成立しなくなってしまう(cf.斎藤[2011a][2011b])。
 2000年の成年後見制度の導入の時、3つの型が示され、これからは、100%その人ができないので100%その人に代わるというタイプの保護・後見なのではないと言われ、それが肯定的に受け止められた。部分的に保佐する、保護する、後見するという類型が認められるから、この制度は前の制度に比べると良い制度だと受け止められた。しかし結局、部分な補佐といった仕組みはあまり使われなかった。ずっとその「改善」が唱和されているのだが、この枠組のものとでそれがどれほど可能かを冷静に考えるなら、「実質的な」その可能性はさほど大きいものではない。
 次に実際に「代理」する人について。まず家族。財産の問題をめぐって、家族は本人と利害が一致しない、一致しないだけではなくて相反する可能性があることはよく知られている。さらに例えば(現在のところは、法としては、後見の対象とはされていない)医療について。費用を家族が負担するなら、本人が生き長らえることは負担を増やすことにもなるから、家族が代理決定をするなら、その決定は医療の停止・不開始に向かう可能性がある。可能性があるだけでなくその現実がある。
 東アジアにおいて家族が重視されていることはセミナーで幾度も語られた。その国々において、家族がもし本当に大切にされているのであれば、それはそれで良いことであると言ってよいだろう。しかし、それをアジア的と言うべきかどうかは別として、家族を大切にすべきであるという価値観に照らしても、後見制度は、麗しい良い家族を破壊する可能性がある。つまり、そこに潜在する利害の対立を顕在化させ、その一方の利害を通させることにおいて、良好な家族の関係を破壊するものとして作用し得るし、実際に作用している。
 次に職業人。職業的な後見人によって担われたときにうまくいくのか。もちろん、その職業的な後見人には使命感を持って、良心を持って仕事をしている人たちが多数いる。その人たちの気持ちや実践を低く見ようというのではない。しかし、これもセミナーで示されたように、様々な不正が各国において共通に起こっている。そこでより正しく制度を運用するようにという方向が示されるのだが、それはどれほど有効か。というよりむしろ、合法的な範囲内において何が起こるか。本人が生きている限り収入が得られるなら、さきの家族の場合と逆に、今度は「延命」が有利になることがある。また、その費用の負担元(それは国家であることもある)の利害に影響される。
 これらと別のアイディアはセミナーでも幾つか出された。特に、池原の基調講演(池原[2016])では、誰か一人というのでなく、その人の周りにいる幾人もの人たち皆が、そして法律によって決めるというのではなくて、もっと柔らかい形で、話をしながら、その人を見守りながら決めていくといった支援の仕方が提起された。
 それはそれでよいものだと思う。ただ、それだけでもないだろうし、他にも考えるべきことが幾つもあるだろう。一人よりもみながよいということは、たくさんの場合にあるだろうが、一人よりもみんなの方が怖いということもありうる。一対一ならまだけんかができるかもしれないが、周りの人たち皆にこうした方がよいとされるとそこから逃れにくいということもないではない。一人よりみんながということは、多くの場合に言えるだろうけれども、それだけでうまくいくというわけでもないだろう。


 では代わりにどうするか。われわれの社会は決定にどう関わるべきか。代理人・後見人を決めて委ねるという方法の方がたしかに簡単ではある。一人について一人が付く、そして一人から差し引いた分だけもう一人に委ねればすむ。しかしこの場合には簡単である方がすなわちよいことではないことをわかっている必要がある。むしろ一つの答えはない、その方がよいかもしれない。その可能性を含めて考えた方がよいはずだ。そのことの認識は大切だと考える。
 その上で一つ、人が決めるのでなく、決まりにおいて、「自動的に」決まっているというかたちでよいもの、それでかまわないものがあれば、それでよいと考えることである。
 すべての人が得られてよいもの、得られてよい状態があると考えられる。それがどれほどのものであるとするかは立場によって分かれるとしても、その度合いの決定が代理人とされる人の選好や利害によって左右されてよいと考えることは正当とされないであろう。ならばその部分については、ときにその人の状態に応じつつ、普遍的な基準によって、自動的に対応するという道が選ばれるはずである。
 例えば日本に「申請主義」という言葉がある。何か制度を使う場合に、本人が「私はこういう者で、こうであるから、これを使いたい」と役所に行って申請しないとその制度が使えないという仕組みが基本とされる。すると、申請をしに行く人が必要で、そのための様々な手続きが必要になる。それを本人ができないので代わりの人がやるという話になる。けれどそういうことが本当はどれだけ必要なのかを私たちは考えみてよい。本人の申請を待たず、例えば、所得保障、あるいは社会サービスと呼ばれるものが政府によって自動的に支給されるという仕組みになっているのであれば、申請は必要なくなる。そうすると、誰かが代理する、では誰が代理するのかという問題も生じなくなる。
 点検していくと、そうした不要な申請、申し込みがわれわれの社会の中にはけっこうな数あるのではないか。まず所得保障、社会サービスに関わる場面ではたくさんある。それらをより簡素にする、必要でないものはなくするのがよい。
 そして生命、生命の維持に関わる部分――2016年の「促進法」において、当初、その方面にも後見の権限の拡大の方向が示されていたが、批判もあり、その時にはそのままになった――について。例えば、さきに述べたように、被後見人の延命から経済的益を得る弁護士の後見人は治療〜延命を支持し、財産の目減りを心配する家族は治療の停止を支持することがある(斎藤[2011a])。本人同意をとれないときは後見人等の同意がなければ医療を施せない(施さない)というのではなく、すべき医療を行うようにすればよい。これに異論はありうるが、まずこの立場があること、そしてそれが生命は普遍的に大切にされるべきであるという直感にかなったものであることは確認しておく。
 以上は、誰が個別に決めるかという問題設定自体が不要な場合がありうるという提起だった。他方で、同時に、私たちは個別の決定をよいものとして認めている。それはなぜか。そしていまあげた二つはどのように分かれてるのか。


 本人が本人のことを決めること、「自己決定」をどれだけのこととして、どういう意味で大切なこととしてわれわれは考えるのか。
 なぜ自分のことを自分で決めることが良いことなのか、その一つの答はまずはとても単純なものだ。私にとって良いことは、他の人たちより私自身が知っている。これは、多くの場合に事実であり、よって、その場合にはその人に決定を委ねればよいとされる。ただ、そのように本人が決めることを正当化するということは、本人にとって良いことが今本人がこうしたいと言っていることとは違うかもしれない場合には違ってくる、その可能性を論理的に残すということでもある。そしてもう一つ、その人の好み自体を尊重することもその人を尊重する、尊重とは言わないまでも認めることの一部であるとも言える。けれど、他方で、その人が表出する選好を認めることが、かえってその人の存在を毀損すると考えられることもある。
 これらの「幅」とその「間」について考えることが大切だと思い、『私的所有論』(立岩[1997][2013])以来考えてきた。ただその議論はすこし長くいくらか複雑なものにならざるをえない。そこでセミナーでは拙著の英語版([2016])を参加者に提供したのでもある。他に「パターナリズム」が肯定される場合があることとその理由を述べた立岩[2002](より短いものとして[2008a])等がある。そして、
 そしてその私はだいぶ長く、安楽死・尊厳死といった主題について考えてきた。それは自己決定であるとも言える。私は死にたい、だから死なせろ、私には障害がある、だから悲しいから死なせろというのである。そして現在は意思表示できないが、その前には可能という場合に、今示されている対処法の一つが「事前指示」である。そして後見人による決定も含む代理決定がある。その代理決定がさきに示したような理由によって否定されるなら、では、その場における「自己決定」であれば、それが今はもう可能でないのであれば「事前指示」がよいのか。私は言えない、あるいは言ってはいけないと考え、その理由を本に書いた。これは『良い死』という本になった(立岩[2008b])。それには韓国語版がある。もう一つ『唯の生』という本がある(立岩[2009]、さらに立岩・有馬[2012])。論証についてはそれらを見ていただくことになるが、結論だけを言えば、「救命」については、基本的に、その義務を負うものが行なう、例えば医療機関はまずすべきことをするべきであるとなる。

2 契約…
 他方、経済、消費については人々の選好・恣意がかなり広い幅で認められてよいと考えられる。そしてすこしでも考えてみれば、これは私たちの常識にも適ってもいる。しかし実際には、その「自由」を、多くパターナリスティックな理由が付与されるのだが、制約する方向でことは進んでいる。そしてその一つが成年後見の利用である。代理が全面的に否定されるべきであるとは考えない。ただ、この部分についての本人の選好・恣意を認めつつ、本人に対する危害――これがパターナリズムによる本人決定の制約、代理決定を正当化する理由にされる――を減少させることは不可能でないはずである。
 消費に関わる事例もセミナーで多く報告された。例えば、何かを買ってしまってそれが随分な出費になってしまい、大変なことになってしまったという台湾での事例が報告された。それを聞くと確かに大変だとわれわれは思う。では、それをどう防ぐか。そのままにしておくと、結局のところ、本人も被害を被ってしまう。ただ、これも一つの手ではなくて、幾つもの対応の仕方があるのではないか。
 セミナーの前に、日本でも事前のディスカッションをする場を設けて、そこでも議論した(その記録が渡辺編[2017]に収録されている)。使えば、知的障害であれ、精神障害であれ、物がひどく買いたくなる精神状態になることはあるが、今日はこれだけしか使えないといったことは既にいくらか実現されている。クレジットカードを使って支払う時にも、銀行から金をおろす時にも、1回・1日の上限をいくらにするといった制約の仕組みはある。またこれは池原の基調講演でも言われたが、詐欺を普通に取り締まることは本来はできることであり、さらに詐欺にまでは至らないとしても、消費者保護として契約を無効にしたりすることはできる。そしてその講演が講演で述べたように、悪い契約をした相手を罰する、あるいはそういう行為を禁ずる、制約することのコストの方が、そういうことをしてしまうかもしれない利用者側を保護するために、弁護士や専門家に次々金を払うコストよりも、社会的に安く済む可能性もある。安いという理由知によって、すくなくとも安いというだけの理由によって安い方を選ぶべきだと私は考えないだが、そのうえでより簡素でコストのかからない方法があるかもしれないと考えることはわるいことではない。このような方向で考えていくと、この人に決めさせると危ないから、別の人に決めさせるというやり方でなくても、本人にとって危なく不利なことはそう生じなくなっていくかもしれない。
 もう一つは、契約の効力や影響が及ぶ範囲の問題、とくに家族の問題である。本人が契約し、そのことによって家族に迷惑が掛かることがあり、それ故、家族はそれを心配して、この人に後見人を付けることが起こる。しかし、その本人の持っている金、この人が管理できる金の範囲と、家族が持っている、あるいはそれに責任と同時に義務を負う範囲を分けることができればよい。すると、本人の使い過ぎによって本人は多少の迷惑を被るとしても、家族が危害を被ることはない。すると危害回避のために後見という仕組みを使わなくてもよくなる。
 以上によって、人が「賢い」消費生活を送れるようになる、と言っているのではない。人は様々に変わった、さらに愚かな、かもしれない、生活を送る。しかしその全体のなかのどこからを制限したり禁じたりするべきであるかを決めることは難しい。むしろできるだけ決めないほうがよいとも言えるだろう――倫理学には「愚行権」といった言葉もある。しかし後見人をつけることは、他の人(たち)により多くが残されるようにと、本人に慎ましい生活を送るようにさせ、そしてそのことをもって、本人のための賢い生活を送らせているのだとされることにもなりうるのである。たんに可能性、蓋然性としてではない。いくらも現実に起こっていることだ。
 以上、一方で、自分の決定にも、過去の自分のでも(→「事前指示」)、さらに他人(後見人)の決定や差配に委ねるのでもなく認められ支持され供給されるべきものがあるとした。他方で、本人の「恣意」を、それを「自由市場」のほうに放置することによってはではなく、いくつかの仕掛けを周囲に設置することによって認めようとした。矛盾している二つを述べているかのように受け取られるかもしれないがそれは違う。一貫していると考える★01。その根拠をここで述べることはしなかった。ただ、大きくは二つの方向の対処を併存させることが現実的に可能なことは理解されるだろう。
 しなくてもよい手続きは自動的になされるような仕組みに変えていく。それは不要な判断を減らしていくとともに、判断・決定を容易にさせることでもある。ただ意思決定支援ということだけでなく、それは、社会保障等の基本的なシステムのあり方についての提案である。
 そして、私人間の契約においても、本人が危ないことをするから本人の側を制約・制限するということではなく、危ないことをさせてしまう側、それに乗じて加害的なことをする側を制約する。そして、本人に起こっている危害が他の身近の関係者に及ばないようにする。具体的にはその家族に及ばないようにするという仕組みを取ることは、われわれの社会が持っている知恵を拡大し、よりよく使うことによって十分可能である。その上で、なおどれだけその人に代わる人が必要なのか、そのような順序で考えるべきであると考える。

補:東アジアで
 どのように考えるべきか。基本的なことを述べた。それと同時に、これまでどのように、この主題が受け取られてきたのかを追い、考えるべきことがさらにないか等、点検するという作業もある。
 日本では、今の成年後見制度は2000年に始まった。公的介護保険の制度が始まった年だ。高齢化に対応する政策という性格の強いものだった。セミナーに参加した各国の中では早く始まった。そして各国でその制度の内容は大きくは変わらない。時期はずれながら、おおむね同じような制度を各国がこの十数年の間に整備されてきたことを確認できる。
 そして日本ではあまり大きな抵抗や疑問が呈されることなく、この制度は始まったと言ってよい。その当時出た本が何十冊かあり、今回の助成を用いて入手した。紙数の制約もあり、その紹介・検討はHPに掲載している――「立岩真也 成年後見」で検索していただきたい。その大多数は制度を解説する実務的な本だが、それ以外のものも、おおむね肯定的であり、ノーマライゼーション、自己決定などといった標語を持ち出し、その標語を実現するためにこの制度が作られるといった解説が付される。ただ、その時に全く何もなかったかと言えばそうではない。禁治産といった恥辱的な言葉えて新しい制度はできるが、これでいったいわれわれの生活は変わるのだろうか、主に家族によって自らの生活が決められるという状況は大きく変わるようには思えないといった悲観、すくなくとも楽観はできないだろうという見方もじつはあった。ただそれは革新的な社会福祉学者たちによっても取り上げられることはなく、専ら新制度への期待が語られた。この時どれだけのことが想定されていたのか、されていなかったのか。これらが検討されてよい。
 そしてそれから10年以上たって、韓国でこの制度が導入されようとするときに、こんな制度は要らないという抗議行動があった。つまり、日本で難なく導入されたものが、韓国で同様のものがつくられたときに、韓国の人たち、とくに障害者たちは少なくとも抵抗の姿勢を見せた。
 その違い、変化をどのように見るのか。それは考えるに値することだ★02。それ以前にその差異があったこと、韓国で抵抗の動きがあったこと自体、ほとんど知られていないはずである。各国の人たちが共通のテーマで集まり、討議する場でこの差異は明らかになり、それを検討する差異が各々において認識されることになる。それは、ごく近年になって制度を作ったあるいは変えた国においても、それ以前から制度がありそしてそれを推進するという方向が主流であるような日本のような国においても、それぞれこれからどのような方向に進むかを検討するうえでも有意義なことである。そしてこうしたことごとは、基本的には成年後見を推進するべきであるという前提に立った学会等においては、本格的に検討されることがなかった。今回、例えば文部科学省の科学研究費の領域区分には存在しない障害(学)という共通性において各国の研究者・実践に携わる人が集まったことによって問題の所在が明らかになった。そのことの意義は大きいと考える。

■注

★01 「私たちの社会では一方で、身近な、とくに善意もなにも必要とせず、むしろそれがうっとおしく感じられるような場面で、やさしさやふれあいが語られる。善意が押しつけがましく押しつけられ、それは問題にされない。他方で、生死に関わるような場面になると、本人の意志を尊重して云々と言う。周囲は口を出さないようにしようと言う。これは逆さではないか。」(立岩[2006:143])
★02 各国の様子についてすぐに日本語で読める文献として、江(Jiang)[2014][2015]、王(Wang)[2010]等。それらを読む限りでは法の枠組みはこれらの国々で大きく変わらないようだ。そのことはセミナーでも確認された。ただその上での受容・批判のあり方は一様でないことが自覚され共有されたのである。

■文献 ※のあるものは当方のサイトから全文を読める

池原毅和 2016 「障害者権利条第12条(法的能力)実施の国際的課題」(基調講演),障害学国際セミナー 2016「法的能力(障害者権利条約第12条)と成年後見制度」→2017 長瀬・桐原・伊東編[2017] ※
江涛(JIANG Tao) 2014 「台湾における成年後見制度に関する一考察」(A Study on the Adult Guardianship System in Taiwan),『千葉大学人文社会科学研究』29:28-40
―――― 2015 「中国における成年後見制度に関する研究」,『千葉大学法学論集』30:1・2 ※
長瀬修・桐原尚之・伊東香純編 2017 『障害学国際セミナー 2016――法的能力(障害者権利条約第 12 条)と成年後見制度』,生存学研究センター報告29
斎藤正彦 2011a 「成年後見制度は高齢者の人権を守れるか」※ 
―――― 2011b 「認知症の人の意思決定をサポートする」※
立岩真也 1997 『私的所有論』,勁草書房
―――― 2002 「パターナリズムについて――覚え書き」,『法社会学』56→立岩編[2016]
―――― 2004 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院
―――― 2008a 「パターナリズム」,加藤尚武他編『応用倫理学事典』:658-659→立岩編[2016] ※
―――― 2008b 『良い死』,筑摩書房
―――― 2009 『唯の生』,筑摩書房
―――― 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院
―――― 2016a On Private Property, English Version,Kyoto Books
―――― 2016b 「成年後見制度に代わるもの」,障害学国際セミナー 2016「法的能力(障害者権利条約第12条)と成年後見制度」→2017 長瀬他編[2017] ※
立岩真也編 2016 『自己決定/パターナリズム』,Kyoto Books
渡辺克典編 2017 『障害/社会をめぐる新たな展開と課題――連続セミナー「障害/社会」3』,生存学研究センター報告28
王麗萍(WANG Linping) 訳:鄭芙蓉 20100331 「挑戦と対応――中国における成年後見制度について」,『東洋文化研究』12:247-267 ※


■文献表に掲載しなかったもの
立岩真也 2002/03/30「パターナリズムについて――覚え書き」,『法社会学』56(日本法社会学会) ISBN10:4641027757 ISBN13:9784641027756 [amazon]
―――― 2008/01/15「パターナリズム」,加藤尚武他編『応用倫理学事典』,pp.658-659,丸善
―――― 2016/09/01 「七・二六殺傷事件後に」,『現代思想』2016-9→2017 「精神医療の方に行かない」,立岩・杉田[2016:17-45]
立岩真也・有馬斉 2012 『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』,生活書院
―――― 2016/09/23 「成年後見制度に代わるもの」,障害学国際セミナー 2016「法的能力(障害者権利条約第12条)と成年後見制度」,於:立命館大学 [Chinese] / [Korean]
立岩 真也・堀田 義太郎 2012/06/10 『差異と平等――障害とケア/有償と無償』,青土社,342+17p. 2400 [amazon][kinokuniya]
立岩真也・村上慎司・橋口昌治 2009 『税を直す』,青土社,350p. ISBN-10: 4791764935 ISBN-13: 978-4791764938 2310 [amazon][kinokuniya] ※ t07,
立岩真也・齊藤拓 2010 『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』,青土社,329+19p. ISBN-10: 4791765257 ISBN-13: 978-4791765256 2310 [amazon][kinokuniya] ※ bi.
立岩真也・杉田俊介 2017 相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』,青土社

■本(リンクは後で)

野田 愛子 編 19931130 『新しい成人後見人制度をめざして――意思能力が十分でない人々の社会生活を支えるために』,東京都社会福祉協議会東京精神薄弱者・痴呆性高齢者権利擁護センター,368p. 2400
長谷川 泰造 19951130『くらしの相談室:成年後見Q&A』,有斐閣,1500
金沢 章 19980930 『意思能力をなくした人々――新しい成年後見制度に向けて』,萌文社,222p. 1800+
金澤 彰 19981001 『意思能力をなくした人々――新しい成年後見制度に向けて』,萌文社,222p.
市民がつくる政策調査会成年後見制度検討プロジェクト 199811** 『みんなでつくろう成年後見制度――障害者・高齢者の権利擁護と自己決定の構築に向けて』,市民がつくる政策調査会,市民がつくる政策調査会成年後見制度検討プロジェクト報告書,160p.
熊倉 照男 20000327 『新成年後見制度のすべてが本当にわかる本――3日でわかる民法1〜3の補訂版』,受験法律研究会,90p. 900+
小林 昭彦 編・大門 匡 編・岩井 伸晃・福本 修也・原 司・岡田 伸太 20000413 『新成年後見制度の解説』,金融財政事情研究会,488p.4600+
小林 昭彦 編・大鷹 一郎 編 20000520 『わかりやすい新成年後見制度』,有斐閣,新版,有斐閣リブレ,160p. 1000+
大曽根 寛 20000715 『成年後見と社会福祉法制――高齢者・障害者の権利擁護と社会的後見』,法律文化社,226p. 2900+
加藤 淳一 20001130 『事例でみる新成年後見制度』,大成出版社,215p. 1600+ [amazon] /[kinokuniya] ※
松田 美智子・中野 篤子 20010210 『ボケても安心?成年後見――自分らしく生きるために』,醍醐書房,146p. 1500+
一番ケ瀬 康子 監,更田 義彦 20020410 『人権保障としての成年後見制度』,一橋出版,介護福祉ハンドブック,132p. 900+
田山 輝明 監・多摩南部成年後見センター 編・明治安田生活福祉研究所 編 20051120 『成年後見の最前線――後見センターからの実践報告』,中央法規出版,189p. 2600+
小賀野 晶一 20120310 『民法と成年後見法――人間の尊厳を求めて』,成文堂,成文堂選書,273p. 2800+
田山 輝明 20121010 『成年後見制度と障害者権利条約――東西諸国における成年後見制度の課題と動向』,三省堂,399p. 3800+

■言及

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


UP:201706 REV:
意思決定支援  ◇成年後見  ◇病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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