石田圭二さんたちに
立岩 真也 2017/06/22
◆島田療育園
◆病者障害者運動史研究
◆石田 圭二
◆石田 圭二・石田 エリ子・和田 幸子・岩橋 誠治 i2017 インタビュー 2017/06/22 聞き手:立岩真也・三井さよ 於:多摩市
◆立岩 真也 2017/**/** 「もらったものについて・17」:,『そよ風のように街に出よう』91
※以下はこの文章の一部
「□島田療育園での脱走事件
「拝啓」と座談会の約二〇年後(八二年一月)、その水上が公的な支援を訴えた島田療育園で、そこにいた斉藤秀子という人の「脱走事件」が起こった。とくに重症心身障害児施設の初期には、知的と身体の重度障害の重複する子どもが重症心身障害児という定義とは異なった人たちがかなりいた。斉藤は脳性まひの人で、発話に障害はあったが、作文を園の文章に載せたりしていた。サリドマイド児がかなりの数暮らしていたこともある。そしてかつて子どもだった人も、成人しても他に行くところもなく、施設にとどまっていた。斉藤は当時三二歳だった。その「脱走」を支援した施設職員は懲戒解雇された。その撤回を求めて裁判が闘われた。その中で施設側は、斉藤には知的な判断能力がないから施設を出る出ないの決定を本人がなすことはできない、勝手に職員たちが連れ出したのだといったことを主張した。島田療育園に連れ戻された斉藤には面会もままならないことになった。それに抗議した人たちがいた。本間康二(『月刊障害者問題』)、三井絹子(府中療育センター→かたつむりの家)らが八二年十二月、施設の前で泊まりこみ、呼びかけた。そこまでのことは、『季刊福祉労働』(現代書館)と荘田智彦『同行者たち』(現代書館、八三年)に書かれているから、ある程度のことはわかる。そして尾上浩二からもらった資料の中にそのときの抗議書、ビラが見つかった。そしてそこらあたりまでのことは今回の『相模原障害者殺傷事件』の第一部第二章に書いた。なぜ書いたか。これもおわかりと思う。それは、作ることを求められ、存在することがよいことであると賞賛された施設でのできごとだった。そして施設を出ること、どこで生活するか、それをどう考えるかどうするかに関わっている。家族、本人や、本人の意志をどう扱うかに関わっている。
相模原での事件の後、障害者の親の会の人たちが、事件について発言をし、発言を求められ応えた。それが真剣なものであったことを疑わない。ただ、その名はこのごろよく口にされるようになった青い芝の会が七〇年に談判し批判したその相手は、そうした組織の人たちであった。そのこともまた『相模原』の同じ章で紹介した。そのことはどう考えるのか。すぐにどちらがどうだと、どちらを敵に回せと言いた△061 いのではないが、あったことは知っておいた方がよいと思って書いた。
そう、すぐにどちらかを選べとか言いたいのではない。ただ、私たちには、「どちらの気持ちもわかる」といったことを言う以外に何か言えることはないのだろうか。ある、と私は思う。そう思うことと、その事件はいったい何だったのだろうと思うこととはつながっている。しかしその島田療育園(療育センター)について近年になって出版された書籍も、創始者小林提樹――さきに紹介した水上勉らの座談会にも出ていて、殺すことには反対であることを(出生前診断→選択的中絶には賛成するのだが)述べている――礼賛するものである。礼賛した書籍が出るのはかまわない。きっとよいことでもあるだろう。しかし、それだけのことがあったわけではないということだ。
裁判が始まったことまでは書かれたもので知ることができる。だがその後どうなったのか。気にはなっていた。そしてこのごろようやく、すこし、人に会って話を聞くことができるような気持ちになれて、いくらか研究費もとれて、この原稿を書いている三日前、六月二二日、東京都多摩市で、私は、解雇され裁判の原告になった石田圭二――解雇されたのは四人だったが裁判に残ったのは石田だけだった――に話をうかがった。語りにくいこともあるだろうと思ったが、ずいぶん長く、詳しく話してくださった。何がわかったかは、どこかに、例えば月刊の雑誌『現代思想』(青土社)でさせてもらっている連載に書くことになると思う。