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不如意なのに/だから語ること

連載・139

立岩 真也 2017/11/01 『現代思想』44-(2017-11):-

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『現代思想』連載・第120回〜『現代思想』連載(2005〜)

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立岩真也編『社会モデル』表紙   立岩真也編『リハビリテーション/批判――多田富雄/上田敏/…』表紙

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■以下の本の一部になります。

◆立岩 真也 2018 『(題名未定 2018b2)』,青土社 文献表


■■

不如意さはいくらか異なる
 たしかに社会は社会的に構築されているのだろう。ただ、そこにも、そう簡単にはどうにもならないものが種々ある。それに区切られ制約されたり、それを扱ったりものを言ったりし、そうしたことごとが絡まり堆積して、社会がある。その簡単にどうにもならないものとして身体もある。厚みのある不透明な物体としてあり、その物体には種々の制約・限界があり、衰弱があり、消滅がある★01。身体と身体の外は仕切られ、複数の身体は離れており、その全体あるいは部品の移動・交換の不可能性あるいは困難がある★02。このことに関わるできごとを、一つにここしばらくの間の時期について記述すること、一つに事態を捉える枠について検討すること、ここでしようとしているのはそんな仕事だ。
 前者について、本連載中「身体の現代へ」という(副)題で書いてきたものが八月号の回まで二四回分ある。この国の敗戦後から六〇年代、とくに国立療養所といったごく限られた場に起こったことについて書いた後、いくらかを飛ばして八〇年代になって起こったそこからの脱出について書いた★03。あと三回分ほど七〇年代の「難病」政策の始まり等を記しその間を埋めてそこで打ち切り、ごく限られた地の歴史を記した本として一冊にする。
 それを終わらせてからでよかったのに、あと三回分ほど足すと、以前本連載で何回か書いた「社会モデル」等と合わせ一冊になると思って、その初回を九月号に書いた。だが、初めてみて、無理だとわかった。あと半年ほどはかかる。
 二つには重なっているところもある。書籍にするときに整理する。こうして互いに関係する二冊が二〇一八年に出るはずだ。
 自分や他人にとってよいものもなかなか思い通りには手に入いらないのではあるが、病や障害と呼ばれるものも、身体にいつのまにか備わったり、不意に訪れたりする。そこに、数えれば、(1)非能力、(2)差異、(3)苦痛、(4)死、(5)加害性と少なくとも五つの契機があると述べた。今度の結核療養者(とハンセン病療養者)、筋ジストロフィー者、重症心身障害を収容した国立療養所のこと等書いた歴史の本はこの五つともに関わる。もう一つの本はおもにできる/できないこと、障害に関わる。この(1)できる/できない自体はある人・身体から別の人・身体に容易に移動はさせられないが、しかしそれは、本来は、他と比べて大きな問題にならない。ここが特異だ。そのことをまず述べる。
[…]

苦と死
 さらに不如意なことについて。人はわりあい簡単に人を殺すことはできるし苦しめることもできるし、実際に行なってきた。死なないようにすること苦しくないようにすることは、それより難しい。
[…]

表わすこと
 こうして、隠されたり無視されたりするのだが、他方で、まただからこそ、語ること、語られざるをえないことがある。本人が語ることもある。他人(たち)が画像を示したり、語ることを促したりということもある。
 隠されてならないこと、明らかにされ示されるべきであることがたしかにある。例えば相手の不正を糾するために、その証拠を示そうとすることがある。そうしたことはとても大切であることがあって、その意志や行ないが妨げられてはならないことがあるだろう。ただ、同じ目的のためにであっても、自らの窮状を訴えたり、そして賠償や給付を得るために、苦しみを表出せねばならないとなれば、それは辛いことがある。
[…]

慰めること
 結局死は訪れるし、苦からも完全には免れえない。なおること、死を避けることがここで望まれているのだが、それは多くの場合に、また最終的にはすべて、果たされえない。
 社会をただ語る者たちはその望みに答えることなど、さらにいっそう、できはしない。それでも苦痛と死についていろいろと語られてはきた。「受苦」であるとか「受容」といった言葉が言われてきた。そうしたことが「人間学」の営みとされる。なおらないのなら慰めようというのである。
 それはきっと大切なことではある。[…]


★01 いっとき身体論の本が幾つかあった。書かれたものの多くは、身体の可能性を言うものだった。実際に可能性はあるのだろうから、それは間違ってはいなかったのだろう。そして本来の姿、本来の共同性や関係性を言うものが多かった。『関係としての身体』(管[1982])とか。それを見田宗介が授業で取り上げたことがあったように思う。また、舞踏、身体芸術を論ずるものもあった。『精神としての身体』(市川[1975])、『<身>の構造――身体論を超えて』(市川[1984])等。ここに書くことにつながる題名を有するものは『翔べない身体』(三橋[1982])ぐらいのものだ。ただこの本も、この時代・この社会において「翔べない」ことを書いた本であって、私のここでの構えとは異なる。実際私たちの身体はなにか押し込められているようには感じられ、そこから解放された方がよいのではあるだろうし、その可能性があることを否定はしない。ただそうであっても、同時にどうしても、身体は制約のもとにあり、有限であり、脆弱である。
★02 移動の不可能は生体が異物を排しようとする働きによるところがあり、その生体の反応を薬などで弱めることができると、臓器の移動が可能になったりする。すると例えば「生存籤」が議論されることにもなる([199709→201305:104-109]――今回も私の書き物については著者名略、発行月まで記載)。ただ、誰かが死ぬことで誰かが生きられるといった状況は、とくに技術の水準云々に関わらず、倫理学が好む救命ボート的場面を設定すれば、どこにでも生じうる。
★03 それからまた三十年以上経って、この十月十一日、以前紹介した四〇歳第中盤の筋ジストロフィーの人が日本海側にある旧国立病院から退院して金沢の街に暮らし始めた。その施設で死亡退院でない退院者はその人が初めてだと言う。またお知らせする。
★04 その差や差の由来が、身体においてわりあいはっきりしている場合にそれは障害と呼ばれる。そうして一部が取り出されることこそがまさに社会的な構築であって、それについて調べたり考えたりするのは必要なことだが、わざわざ自分(たち)でそれを取り出すこと、「障害とは何か」を定義するといったことは必要ないのだと前回述べ、次回そのことをさらに説明する。ただ、私がこのように言うことは、そのできる/できないが、個々の人、人の身体に帰属することと両立する。さらに、そのできる/できないことに関わる生産物を必要とし欲する人々の選好のあり方の可塑性が、社会の変革の可能性とその方法とに関わっている。後でこのことについても再説することになるだろう。
★05 前回もあげた前田[2009]。草山[2005]前田[2005]等を含む倉本編[2005]。前田が大会長を務める今年の障害学会大会(十月二八・二九日、於神戸学院大学)初日のシンポジウム1は「障害、介助、セックスワーク」。
★06 人は人を差別してしまう。それは望ましくないが、あらゆる場でそれを除去することはできそうにない。とするとどうするか。[201109-]などで述べたことの一つは、差別嗜好(taste for discrimination、[199709→201305:606])による差別を例えば雇用の場において禁ずるという方策である。せめて公私のうちの公の部分について、その場は情緒的紐帯によって作動されねばならないわけではないのだから、だめなことはだめだとしようというのである。すると次に、そうした解がどこまで有効で正当かが問われる。
★07 白田幸治の研究(白田[2014-2016])が関わる。苦しみは(普通の意味での)社会モデルによっては包摂されないと言われる。それはそれのとおりだと思う。関連して桐原[2016]。
 身体障害、そして知的障害、そして精神障害と並べられ、そして近年はこの国では発達障害が加えられ並べられるのだが、各々にはだいぶ異なる部分があるように思う。知的障害と呼ばれるものは、認識や表出に関わる性能の度合いの差異、能力におけるできなさであり、同時にそのことに関わる様式の異なりであるとされる。そして日本で発達障害と呼ばれるものは、世界・人に関わるときの差異であり、差異に関わって現象すこの社会でのできなさと受け止められる。これらは必ず辛いというものではない。
★08 例えば腎臓病にしても、人工透析がうまく行っている限り他のことに支障がないのであれば、それは人工透析によって補うことのできる「障害」だというになるだろう。苦痛もまたその受け止め方によって変わってくるだろう。もちろん苦痛によってできていたことができなくなるといったことは多々ある。だがこのことは両者を分けることができること、分けた方がよいことを否定するものではない。動かすことはできないのだが、身体にとくに苦痛のない状態はある。苦痛――補われないことに伴う苦痛を除外すれば――のない障害はある。他方で、苦痛とできないこととは同時に存在する場合もあり、苦痛ができないことをもたらすこともある(→註10)。
 いったん分けてみることは、その間の関係を知り、各々の重みを考えることでもある。例えばハンセン「病」と呼ばれてきたものは、多く異なることと、そして――感染が誤って危惧されてきたことによる――加害性をもつものとして社会によって扱われ、そして「防衛」の対象になってきた。精神「病」もまた加害性を貼り付けられてきた。なにか身体的なものにかかわるよからぬもの全般が「病」という札を貼られ、その中で「機能」に関わる部分が「障害」と括られてきたのかもしれない。そして同じ施設にハンセン病療養者が入り、結核療養者が入り、結核が流行らなくなると、重症心身障害児と呼ばれる人が入り、筋ジストロフィーの子どもたちが入り、そして大人になっていった。ここで加害性(からの防衛)と負担(の軽減)は明らかにつながっている。そして「狭義の」加害性〜社会防衛は現実にはどれほどの重みをもっているか。一般に反体制的な気分の社会運動においては治安が問題にされるのだが、いったい実際にはそれはどれほどのものであるのかは考えておいてよい。
★09 病院における死への慣れについてSudnow[1967=1992]がある。やはり病院における看護師たちの慣れについてChambliss[1996=2002]。これらを紹介した短文[200407]は[201708]に収録されている。
★10 大野真由子は強い痛みが常時身体にある複合性局所疼痛症候群(CRPS)の人たちの生について論文を書いた(大野[2008][2011a][2011b][2011c][2012][2013])。論文には書いていないが――それは彼女が書かないことを選んだからだった――彼女自身がCRPSの人だった。痛み、というよりは痛みのもたらす生活上の障害が政治的給付の対象にならないことを問題にした。痛みを測りを示すことができない、あるいは困難であるから対象とできないとされるのだが、米国や韓国では障害として認定されていることを示した。彼女はくも膜下出血で亡くなった。その博士論文を出版できればと思っている。
 性同一性障害に関わる医療とその失敗とその責任、医療過誤訴訟、所謂薬害エイズ訴訟、等に関わって催された企画があり、その記録他を集めた報告集があって(山本・北村編[2008])、私はその後ろに「争いと争いの研究について」という短文[200810]を書いた。そして改稿して、主に所謂自閉症スペクトラムの人たちのことを書いた[201408]の終わりに収録した。きっとそんな部分があると思われていないその部分をなぜその本に置いたかは、本に書いた。
 「救済されるために、自分たちがいかに大きな被害を受けてきたのかを語らねばならない。[…]そして周囲のけちな人々から、あの人(たち)は悲惨と苦痛を大袈裟に言っているとか、さらにはあの人(たち)は偽っているなどと言われる。そんなことではないのだ、と言っても、聞いてもらえない。[…]そんな悲しい世界から抜けるためにも、医療や福祉のサービスを受け取られること、暮らせるだけの所得が得られることは、そうしたサービスの必要や稼ぎのないことが被害に関わっているとしても、それと別に、得られるようにした方がよい」([200810]、いくらか改稿して[201408:282-283])。
 「すると被害者の訴えは、たんに悲しみ・恨みに発するものになる。[…]訴えは、ただ本当のことを知り、謝罪を求めようとするものになる。そのような人たちだけが訴えることになるから、別の利害があるなどと邪推されることがなくなる。」([201408:283])
 このことは以前から思っていて幾度も書いている。『自由の平等』より。
 「平等の定義にさほどの意味はない[…]こうした議論は、たしかにときに必要なのだが、必要な理由を忘れてのめり込んでしまうと、人々がある状態のときにいかに不幸であるかを言わねばならないかのようになってしまい、そしてその真剣な主張が誇張であると受け取られてしまい、さらにそれに反論しなければならないといった嘆かわしい事態が生じてしまうのである」([200401:106])。
 『良い死』より。
 「死や苦痛や不便をもたらした者たちを[…]追及するのはよい。ただ、第一に、そのことを言うために、その〔被害者たちの〕不幸をつりあげる必要が出てくることがあるとしたら、それはなにかその人たちに対して失礼なことであるように思えるということだ。だから、それはしない方がよい」([2008:177])。
★11 苦痛を表わすことについて書いた人としてスーザン・ソンタグがいる(Sontag[2003=2003])。その人は、知られているように、結核やエイズといった病がなにかを象徴してきた事実を記しながら、病があくまで即物的に捉えられるべきことを書いた人だ(Sontag[1978=1982][1989=1990])。そしてその人は癌で厳しい闘病の生活を送った後亡くなったが、そのことをその子である人が書いた本(Rieff[2008=2009])がある。
★12 私たちが関わる人たちの研究の一部ずつを収録し活動を紹介した『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』(立命館大学生存学研究センター編[2016])私はその「補章」([201603])を担当し、その中の「語らなくてすむこと・埋没すること」で山口真紀の仕事(山口[2008][2009][2012])に触れている。そして、アーサー・フランク(Frank[1995=2002]等)を呼んだ企画(その報告書は有馬・天田編[2009])で話が噛み合わなかったことも書いてある。その企画のためにその『傷ついた物語の語り手――身体・病い・倫理』を読みながら書いた註が『良い死』にあった。
 「第6章「探求の語り」が私にはよくわからなかった。わからなかったというか、必ずしも受け入れる必要のない前提を共有して初めて理解できる章であるように思った。[…]
 語りたくないのであれば、そして/あるいは語ってよいことがないのであれば、語らずにすませるためにも、私たちは、たとえば歓迎できない出来事が起こってしまった時に何を語ってしまうのか、それを分類し、並べ、それぞれの得失を計算したりする必要がある。山口真紀[2008]がその仕事を始めている」([200809:232-233])。
★13 このことは小泉義之との対談(小泉・立岩[2004→2005])でも述べた。そして小泉は、状況がそのようなことであることが気にいらないのであり、そこでそんなものではない「病の哲学」を構想しようという(小泉[2006])。そういうものがあったらよいと思う。その本の紹介といくらかの検討として[200903]第7章「『病いの哲学』について」。小泉[2012]はこれから。


■文献→本の文献表

◆有馬斉・天田城介編 2009 『特別公開企画「物語・トラウマ・倫理――アーサー・フランク教授を迎えて」』、立命館大学生存学研究センター、生存学研究センター報告5
◇Blanchot, Maurice 1950 Thomas l'obscur, nouvelle version, Gallimard=1982 菅野昭正訳,『謎の男トマ』,『筑摩世界文学大系82 ベケット/ブランショ』,筑摩書房→20050930 菅野昭正・三輪秀彦訳,『ブランショ小説選 謎の男トマ 死の宣告 永遠の繰言』,書肆心水,411p.
◆Chambliss, Daniel F. 1996 Beyond Caring: Hospitals, Nurses, and the Social Organization of Ethics, The University of Chicago Press=20020301 浅野 祐子 訳,『ケアの向こう側――看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾』,日本看護協会出版会,274p.
◆Foucault, Michel 1976 La volonte de savoir (Histoire de la sexualite I), Gallimard=1986 渡辺守章訳,『知への意志――性の歴史I』,新潮社
◆市川浩  19750310  『精神としての身体』,勁草書房,228+10p.
◆市川浩  19841115  『<身>の構造――身体論を超えて』,青土社,218p.
◆管孝行 1982 『関係としての身体』,れんが書房新社
桐原尚之 2016 「精神障害による辛さの社会モデル」,障害学会第13回大会報告 
◆小泉義之 2006 『病いの哲学』,ちくま新書,236p.
◆―――― 2012 『生と病の哲学――生存のポリティカルエコノミー』,青土社,384p.
倉本智明 編 2005 『セクシュアリティの障害学』、明石書店
草山太郎 2005 「介助と秘めごと――マスターベーション介助をめぐる介助者の語り」、倉本編[2005]
前田拓也 2005 「パンツ一枚の攻防――介助現場における身体距離とセクシュアリティ」、倉本編[2005]
◆―――― 2009 『介助現場の社会学――身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ』、生活書院
松原 洋子・小泉 義之 編 20050225 『生命の臨界――争点としての生命』,人文書院,306p.
三橋修 1982 『翔べない身体――身体性の社会学』,三省堂,294p.
大野真由子 2011a(/03/31 「「認められない」病いの社会的承認を目指して――韓国CRPS患友会の軌跡」,『Core Ethics』Vol.7 pp11-22. 
◆―――― 2011b 「難病者の就労をめぐる現状と課題――CRPS 患者の語りからみえる『制度の谷間』とは」,『障害学研究』障害学会, Vol. 7, pp. 219-248.
◆―――― 2011c 「難病者の「苦しみとの和解」の語りからみるストレングス・モデルの可能性――複合性局所疼痛性症候群患者の一事例を通して」,『人間科学研究』(立命館大学人間科学研究所)23:11-24
◆―――― 2012 「複合性局所疼痛症候群患者の支援に関する一考察――「認められない」病いの現状と課題」,立命館大学先端総合学術研究科博士論文
◆―――― 2013 「慢性疼痛と「障害」認定をめぐる課題――障害者総合支援法のこれからに向けて」「『障害学国際セミナー2012――日本と韓国における障害と病をめぐる議論』,生存学研究センター報告20
◆Rieff, David 2008 Swiming in a Sea of Death: A Son's Memoir, Simon & Schuster, Inc.=20090324 上岡 伸雄 訳,『死の海を泳いで――スーザン・ソンタグ最期の日々』,岩波書店,178p.
◆立命館大学生存学研究センター 編 20160331 『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』,生活書院,272p.
◆白田幸治 2014-2016 「福障害の社会モデルは精神障害を包摂しうるか――社会の生きづらさか病のつらさか」,日本学術振興会特別研究員奨励費
◆Sontag, Susan 1978 Illness as Metaphor,Farrar, Straus and Giroux=1982 富山 太佳夫 訳 『隠喩としての病い』,みすず書房,157p. ISBN-10: 4622010828 ISBN-13: 978-4622010821 [amazon][kinokuniya] ※ →1978,1989 Illness as Metaphor ; Aids and Its Metaphor, Farrar, Straus and Giroux=1992 富山 太佳夫 訳,『隠喩としての病い エイズとその隠喩』、みすず書房
◆―――― 1989 Aids and Its Metaphor,Farrar, Straus and Giroux=1990 富山 太佳夫 訳 『エイズとその隠喩』,みすず書房,152p.→1978,1989 Illness as Metaphor ; Aids and Its Metaphor, Farrar, Straus and Giroux=1992 富山 太佳夫 訳,『隠喩としての病い エイズとその隠喩』 みすず書房.
◆―――― 1978, 1989 Illness as Metaphor ; Aids and Its Metaphor,Farrar, Straus and Giroux=19921028 富山 太佳夫 訳 『隠喩としての病い エイズとその隠喩』,みすず書房,304p.
◆―――― 2003 Regarding the Pain of Others, Farrar, Straus and Giroux=2003 北条文緒訳、『他者の苦痛へのまなざし』、みすず書房
◆Sudnow, David 1967 The Social Organzation of Dying, Prentice-Hall=19920706 岩田 啓靖・志村 哲郎・山田 富秋 訳,『病院でつくられる死――「死」と「死につつあること」の社会学』,せりか書房,312p.
◆立岩真也 199709 『私的所有論』,勁草書房
◆―――― 200407 「摩耗と不惑についての本」(医療と社会ブックガイド・40),『看護教育』45-07:(医学書院)→立岩[20170816]
◆―――― 200505 「死/生の本・5――『性の歴史』」(医療と社会ブックガイド・49),『看護教育』46-05:(医学書院)→立岩[20170816]
◆―――― 200809 『良い死』、筑摩書房
◆―――― 200810 「争いと争いの研究について」山本・北村編[2008:163-177]→立岩[2014]
◆―――― 200903 『唯の生』、筑摩書房
◆―――― 201109- 「好き嫌いはどこまでありなのか――境界を社会学する 1〜」,河出書房新社HP http://mag.kawade.co.jp/shakaigaku/
◆―――― 201305 『私的所有論 第2版』,生活書院,973p.
◆―――― 201408 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p.
◆―――― 201603 「補章」立命館大学生存学研究センター編[2016:180-230]
◇―――― 201701 「精神医療の方に行かない」,立岩・杉田[2017]
◆―――― 201708 『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』Kyoto Books
◆立岩真也・有馬斉 20121031 『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』生活書院,241p.
◆立岩真也・堀田義太郎 201206 『差異と平等――障害とケア/有償と無償』、青土社
◆立岩真也・齊藤拓 201004 『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』、青土社 ◇立岩真也・杉田俊介 20170105 『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』青土社,260p.
山口真紀 2008 「「傷」と共にあること――事後の「傷」をめぐる実践と議論の考察」,立命館大学大学院先端総合学術研究科博士予備論文
◆―――― 2009 「〈自己物語論〉再考――アーサー・フランクの議論を題材に」,『Core Ethics』5:351-360 
◆―――― 2012 「書評 出来事を思う「位置」と「距離」――宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』みすず書房、2007 年、228p.」『Core Ethics』8, p.525 
◆山本 崇記・北村 健太郎 編 2008 『不和に就て――医療裁判×性同一性障害/身体×社会』、生存学研究センター報告3


UP:2017 REV:20171027, 30
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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