HOME > Tateiwa >

どこから分け入るか

連載・138

立岩 真也 2017/10/01 『現代思想』44-(2017-10):-
137 < / > 139
『現代思想』連載(2005〜)

Tweet


立岩真也編『社会モデル』表紙   立岩真也編『リハビリテーション/批判――多田富雄/上田敏/…』表紙   多田富雄『人間の復権――リハビリと医療』表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]

■五つ
 個々の人の身体に存在する/しない、そのように言われたり思われたりするものが、どれほどか、どのようにかは多くの場合にわからないのだが、人のあり様、社会の中でのあり様に関わっている。障害という捉え方のもとでは、身体に存在する契機は「インペアメント(impairment)」ということになるのだろうが、それより広く、個々の身体において存在する事態があり、その差異があり、それがもたらすものがある。さしあたり五つあげることができることを述べてきた★01。そのことをもう少し説明しながら進める。前回はあと二回でひとまとめして本にすると書いたが、無理なことがわかった。これからまだ、長いものになってしまう。
 […]

■五つについての必然的でない事情、関係・併存
 なぜこのような範囲から見ていくのがよいと考えるか。全体を割っていくと五つになるということではない。五つにし、五つから始めるべき論理的な必然はない。ただ、全体を網羅しようということがあってもよいが、それは膨大な作業になり、そこに現われるのはとりとめのないものになりがちだ。境界や複合や、境界に関わる混乱が生じている部分を、ある程度の範囲でまず大括りに括って、それから見ていくのがよい。社会的事実の形状に合わせるのである。
 […]

■各々について、誰にとっての正負
 次に、各々について、各々についてなされることについての正負、得失の両方が問題である。そしてそれが、本人、幾種類かの周囲の人々の各々にとってどうか、その各々の意味・得失が、本人といく種類かの周囲の人々の各々にとって異なる。すくなくとも異なりうる。その人々についても本人とそれ以外という以外にいく種類か分けようがある。言われれば、言うまでもないことだ。だが実際にはその言うまでもないことがしばしば看過されてきてしまっている。だから確認しておく。そして大切だと考えるのは、五つあげたものについて本人の得失と周囲の得失とが異なることである。
 […]

■インペアメントを言う人たち
 起こってきたこと起こっていることを記述し、分析し、これからの道筋を考える。そのために、広すぎはしないが、狭くはない範囲をとって、複数のものの輻輳や、それらの間の境界線について考えるのがよい。まずこのことを述べた。ただその道を行けばよいと思うから、これまでなされてきた議論の混乱を整理することにはさほどの関心はない。ただ述べたことは、障害の社会モデル、「インペアメント」(impairment、「損傷」と訳されることがある)とディスアビリティを巡ってあってきたという議論に関係はするから、いくつかを述べておく。
 […]

■なおすことの位置
 なおすことについて。障害者運動・障害学は医療(モデル)を批判した、なおす(なおされる)ことに抵抗したと言われる。それはすくなくとも一部に実際にあったこと、あってきたことだ。ではそれは何を言ったのか。何を言ったと捉える時に反批判に耐えられる主張であることができるのか。
 […]

■註
★01 『みすず』連載の[200807-201005](立岩のものについて以下著者名略)、その一部をもとにした『自閉症連続体の時代』([201408]、第7章「社会がいる場所」)で述べた。英語になっているものとしては[201108]。そして『造反有理』([2013:326-354]、第5章「何を言った/言えるか」)。書籍の一部を分担執筆したものとして「障害論」([201105])、「存在の肯定、の手前で」([201406])。後者の目次では、2「痛みと死をもたらす病に」、3「障害の諸相、のうちの異なり」、4「できる/できない」。
★02 ここでも私たちは身体「とは」何であるのかという議論をするつもりはない。ただそこに個別性という契機はあるだろう。「その人ができる」「あの人はできない」という区別はおおむね可能である。そして、身体は時間的にも空間的にも有限である。そうした条件が外されていったらどんなことが起こるかといった主題は、ある人たちにとっては興味深いものであるかもしれない。私も、生きた臓器の移動可能性の出現に伴って起こることについて[199709]で少し考えてみた。
★03 前回に検討を予告したが、今回は結局すこししかふれることのできない星加の本には次のようにある。
 「たとえば、「あらゆる人にどのような程度かできないこと=障害disabilitiesがある」(立岩[199709:323])というような言い方も可能ではある。しかし、本書ではこうした立場を採らず、ディスアビリティをある種の特有な現象として特徴付けることで、ディスアビリティについて特に問題化することの社会的・社会学的意義を主張することが企図されている」(星加[2007:99-100])。
 立場・方向の設定は学の世界ではまずは自由であるとされている。いま記された道を星加は行こうとする。その道行きを紹介し、そしてそれがあまりうまくいっていないと評価したうえで、別の同定の仕方を提示するというのが榊原[2016]で行なわれていることの一部である。その評価に私も同意するが、私はそれとは別に、「障害」を自分で(研究者の方で)取り出そうとするということの意義がどこにあるだろうかと思っている。後にさらに説明を追加する。
 こうして、私はとくに「障害」に関心があるわけではない。ただ同じことを次のようにも言える。
 「私は、狭い意味での「障害者」に格別の関心があるわけではない。「誰もが障害者になる可能性がある」といったことが言われるが、そんなことの手前で、誰でもできる/できないことがあって、そのことについて書いてきた。ただ、その普通の意味での障害者の人たちの言うことややっていることにいくらかの関心を払ってきたのは事実だ。それはつまり、できないことがより多い人は、より大きく損をする人で、そのままだと損をし続ける人で、文句を言うのだが、文句を言うだけでも損はし続けるから、社会が変わってもらわねばならず、社会とけんか別れをしてすむわけではない。具体的にどんな社会がよいかを面倒でも言わねばならない。となると――しばしば、考えてものをいうのが仕事のはずの学者たちより――考え続けること言い続けることをせざるをえない。(実害がそれほどでもない人たちは、文句を言ってみるとしても、結局、社会のことを考え、社会と付き合うことから逃れることができる。)
 それは当人たちにとってみれば疲れることだが、まともに人・社会に対しているから、聞くべきことがあると思う。」([201105])
★04 「ALSは障害なのか病気なのか。ALSの人は病者なのか障害者なのか。むろん、言葉は様々な意味に使うことができ、それぞれの言葉が示す範囲を変更することができるから、それによって答は変わってくる。ただ一般に、病は健康と対比されるものであり、苦しかったり気持ちが悪かったりする。また死んでしまうこともあり、よからぬものとされる。また障害とは、身体の状態に関わって不便であったり不都合であったりすることがあるということだ。病によって障害を得ることはあるから、両方を兼ねることはある。ALSは病気ではある。そして同時に機能障害が生ずる。ALSの人たちは同時に、病人・病者でもあり障害者である人たちだ。答としてはまずはこれでよい。/そして制度との関係でもALSの人たちは両方である。」([200411:57])
 たしかに苦痛はあるのだがそれをうまく除去したり軽減したりできるのであれば、またやはり適切な対応をとれば死に至るものではないのだから、ALSはむしろ重度の(そして他の固定された障害とは異なった)進行性の障害であると捉えた方がよいだろう。そして、そうではあってもその人たちはなおることを求めているし、そのことにもまたもっともな理由がある。
 そしてもちろん、このことと、医療や医療的ケアと呼ばれるものをこの人たちが必要としていることとは矛盾しない。身体の状態を維持するために技術が必要であり、その技術を医療者(だけ)がもっている場合がある。ならばそれは必要である。また他方で、しかるべく技術を習得すれば、医療や看護や介護の資格をもっていなくても対応できる。にもかかわらず資格による制限がなされたり、なされようとしているために、それに反対せざるをえないことになる。
 立命館大学生存学研究センター編[2016]の「補章」([201603])の2「両方・複数がいて考えられる」に、幾人かの幾つかの研究について紹介した。その中の幾つかを今後紹介することもあるだろうが、まずはその補章を読んでいただければと思う。
★05 星加の著書で言及されているのはMorris[1991][1992]、Crow[1992][1996]、Hughes & Paterson[1992][1997]。現時点で私はこれらの「もと」に当たっていない。『社会モデル』(立岩編[201610-])の引用を増補している。『障害学のリハビリテーション』(川越・川島・星加編[2013])の紹介も加えた。
★06 本質主義という言葉がしばしば使われる。
 「ヒューズとパターソンは、「社会モデルにおいては、身体はインペアメントないし身体的機能不全と同義である。それは、少なくとも含意としては、純粋に生物学的に定義されるのだ。身体は非歴史的である。それは本質的で、時間を持たず、存在論的な基礎である。したがって、インペアメントはディスアビリティと対極的な性質を持つことになる」(Hughes & Paterson[1997:328-9])と述べ、「社会モデル」によってディスアビリティには社会的排除が、インペアメントには生物学的機能不全が割り当てられ、インペアメントが本質化されたと主張する。その上で彼らはインペアメントが本質的に定義されることを拒絶し、インペアメントの社会的構築性を指摘するのだが、社会的文脈においてインペアメントとディスアビリティとがどのように関連しているのかについての理論的探求はなされていない。」(星加[2007:95])
 インペアメントが社会的に構築されると言うことはできる。ただそのことと、本文に引用した記述がうまく対応するかというと、そうでもないと考える。さらに、本質主義/構築主義を対置させ、後者を支持するようである論者が、できごとの社会性をうまく扱えているか。星加たちの論を紹介するなかでこのことについて述べる。
★07 簡単な方から、費用対効果のよさそうなところから考えていく、考えてきたと幾度も述べている。他方、(5)加害と責任・罰といったことをどう考えたらよいのか。そして(2)美醜、好悪といったことをどう考えたらよいのか。気にはなっていないわけではないのだが、なかなか難しいと思って、手をつけてこなかった。(5)については、精神障害/精神病と犯罪との関わりについて少し書くことを始めている。(2)については[201109-]いくらか考え始めて、中断した状態になっている。再開することがあるかもしれない。
★08 [200210]で紹介した。そこで、土屋[1994]の主張もこれに近いこと、出生前診断・選択的中絶について考えた[199709]第9章でほぼ同じことを述べたとした。また水俣病に関わり企業や国の責任を問うた時の病・障害の表象に関わる議論がいくらかあったこともこのことに関わる。『良い死』([200809:176-177,227-230])で述べた。苦痛や悲惨について語れることは少ないが、苦痛や悲惨について語られることについて語ることができることは時にある。
★09 そして、このようにして、なおすこと/なおさないことについて言われたことと、医療批判…、医療化批判として言われたことはどこまでが同じで、違っているか。勇ましい人は昨今は少ないとして医療社会学が懐疑的な視線を向けてきたのは何に対してであってきたのか。そうしたことも考えることができる。一つに、苦痛や死(の軽減)という普通の病(医療)と捉えられない部分、例えば出産、生殖補助医療と呼ばれるものが取り上げられた。つまり死と苦から遠ざける行ないとして許容される範囲外のことがなされることが問題にされた。その限りでは、今述べた利害の範囲に収まっているということになる。ただそれだけのことではないだろう。とすると何が残るか。このように考えていくことができる。
★10 星加は「責任帰属によるディスアビリティの特定化」の難点を二つ挙げている。その二つめが医療に関わる論点である。まず私は、ディスアビリティを特定化することに目的があるわけではないから、出発点・目的が異なるのだがそれはいったん置いておく。
 「責任帰属によるディスアビリティの特定化は、「社会モデル」の提起に当たって焦点が当てられた問題と、完全には重ならない部分を持っている。これについて考えるために、従来のディスアビリティ認識が「個人モデル」として批判された際のポイントについて、今一度確認してみよう。「個人モデル」への批判の主要なポイントが、個人の身体に介入し、インペアメントの消去を目指す医療的な処置に向けられたものであったことは、既に見た[…]。そこでは、医師などの専門家が障害者を医療の対象として捉え、「健常」「正常」へと近づけようとする磁場の中に障害者をからめとっていったことが批判され、そうした社会の「医療化medicalization」(Illich[1976=1979])の中で障害者が受動的なサービスの受け手として無力化されていったことが告発された。」(星加[2007:57-58])
 ここではさらに、医療(化)を批判した文献として他にOliver[1996a:129]、二日市[2001:180]が挙げられている。ただ、私は、星加が引いている同じ文章([200210])において、また別の文章([200107])で、医療に否定的・懐疑的な主張、動きがあったことを記し、そこにはまっとうな理由があったこと、意義ある主張であることを認めている。
 と同時に、まず一つ、なおすことと補うことの境界設定は困難であることを述べている。「身体への介入と身体と別の水準での策を取ることとが、まず事実の上でも連続していることを確認しておこう。例えば補聴器や人工内耳――その是非についての賛否の議論はあるがこのことはまた別に取り上げる――や人工関節は身体に装着あるいは埋め込まれるものであるが、人工的な装置である。なおすこととなにか別のもの(人や機械)でおぎなうことの間に明確な線を引くことは時に困難である。そしてこれらの手段は様々あることがあるし、そしてその中のいずれがよいのかは予め決まってはいない。」([200210])
 そしてなおさないほうがよいとすくなくとも常には言えないことを述べている。よって「社会」を言う主張を、身体をなおすことと社会をなおすことを対比させ、後者を肯定する主張と解する必要はないと述べたのである。よって星加の批判はあたらない。他方、榊原は両方ともに認められることがあるとしている(榊原[2016:171ff.]、第2章10「社会的処遇と医学的処遇」)。

■文献→本の文献表

◆Crow, Liz 1992 "Renewing the Social Model of Disability", Coalition July: 5-9
◆―――― 1996 "Including All of Our Lives : Renewing the Social Model of Disability", Morris ed.[206-226]
◆二日市安 2001 「やれるときに、やれるだけのことを」,全国自立生活センター協議会編[2001:177-87]
星加良司 2007 『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』,生活書院,360p.
◆Illich, Ivan 1976 Limits to Medicine: Medical Nemesis, The Expropriation of Health,London: Boyars=1979 金子嗣郎訳,『脱病院化社会――医療の限界』,晶文社
◆Hughes, Bill & Paterson, Kevin 1992 "Personal and Political: a Feminist Perspective on Researching Physical Disability", Disability, Handicap and Society 7-2:157-66
◆―――― 1997 "The Social Model of Disability and the Disappearing Body: Towards a Sociology of Impairment", Disability & Society 12-3:325-40
石川准倉本智明 編 2002 『障害学の主張』、明石書店
◆三輪妙子編 1989 『わいわいがやがや女たちの反原発』,労働教育センター,230p.
◆Morris, Jenny 1991  Pride Against Prejudice, London: The Women's Press
◆―――― 1992 "Personal and Political: a Feminist Perspective on Researching Physical Disability", Disability, Handicap and Society, 7-2:157-66
◆Morris, Jenny ed. 1996 Encounters with Strangers: Feminism and Disability, London: The Women's Press
野口裕二大村英昭 編 2001 『臨床社会学の実践』、有斐閣
Oliver, Michael 1996 Understanding Disability : From Theory to Practice, Macmillan.
◆立命館大学生存学研究センター 編 2016/03/31 『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ」,生活書院
◆Sontag, Susan 2003 Regarding the Pain of Others, Farrar, Straus and Giroux=20030708 北条 文緒 訳,『他者の苦痛へのまなざし』,みすず書房,155p.
◆田島明子編 2016 『「存在を肯定する」作業療法へのまなざし――なぜ「作業は人を元気にする!」のか』,三輪書店
◆立岩真也 1997 『私的所有論』、勁草書房
◆―――― 20010730 「なおすことについて」野口・大村編[2001:171-196]
◆―――― 20021025 「ないにこしたことはない、か・1」石川・倉本編[2002:47-87]
◆―――― 20041115 『ALS――不動の身体と息する機械』、医学書院
◆―――― 20080905 『良い死』、筑摩書房
◆―――― 20110520 「障害論」,戸田山・出口編[2011:220-231]*
◆―――― 20110823 "On "the Social Model""Ars Vivendi Journal1:32-51
◆―――― 20131210 『造反有理――精神医療現代史へ』、青土社
◆―――― 20140600 「存在の肯定、の手前で」田島編[2014:38-62]
◆―――― 20140826 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p.
◆―――― 20160331 「補章」立命館大学生存学研究センター編[2016:180-230]
◆立岩 真也 編 201610- 『社会モデル』Kyoto Books
◆戸田山 和久・出口 康夫 編 20110520 『応用哲学を学ぶ人のために』,世界思想社,380p.
土屋貴志 1994 「障害が個性であるような社会」、森岡編[1994:244-261]
堤愛子  1988 「ミュータントの危惧」、『クリティーク』1988-7→1989 三輪編[1989]
◆―――― 1989 「「あたり前」はあたり前か?――「障害者」が生まれるから「原発に反対」は悪質なスリカエ論法だ!!」、『地域闘争』1989-12:32-35
◆全国自立生活センター協議会 編 20010501 『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』,発行:全国自立生活センター協議会,:発売:現代書館,480p.


UP:2017 REV:2017
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)