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そんなこともあって、「能力主義」について考えはじめた

何がおもしろうて読むか書くか 第2回
立岩 真也 2017/07/31
『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』116号 別冊『Chio通信』02
http://www.japama.jp/cgi-bin/event.cgi#4
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『私的所有論  第2版』表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]

[説明]
 『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』は前の号から単行本仕立てになった。この116号は浜田寿美男さんの『親になるまでの時間』。本の頁は別途作るが、まずは注文→[amazon][kinokuniya]
 私はその別冊『Chio通信』に短文を載せることになっている。この『Chio通信』は『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』を定期講読するとそのおまけ(特典)としてついてくるという趣向のもの。以下に広告があった。
http://karaimo.exblog.jp/26367357/
 『Chio通信』02に載ったのは「そんなこともあって、「能力主義」について考えはじめた――何がおもしろうて読むか書くか 第2回」という題になった。広告のために載せていこうと思う。

◆第03号のお知らせ:https://twitter.com/japama_official/status/923752263700553728

 ※[…略…]の部分はその友人からの申し出で伏せ字にした部分です。紙版では伏せ字になっていません。

 □学校は、なんだか困ったものだった

 私は田舎の出だ。佐渡(島)という島――島の人たちは「佐渡が島」とはいわない。「佐渡」という――があって、そこで生まれて、高校を卒業する一八歳まで住んでいた。いっとき離島ブームというのがあって観光客がけっこう来たこともあるが、それはすぐ終わった。農業や漁業はあるが、それできちんと稼ぐのはなかなかたいへんだ。大学などに行って島内あるいは県内に就職するとなると、公務員、教員がまあよい仕事ということになる。私の同級生にももう学校の校長とかになっているのがいて、「あいつが校長?!」と笑ってしまう。私の母親も小学校の教諭で、父親は高校の教諭だった。小さい島だから――といっても当時島に高校は六つあったというとたいがいの人は驚く――ということもあるのだが、私が通った小学校に二年間だったか母親が働いていたし、高校(私の家の隣にあったので、そこに行った)にはずっと父親がいた。彼は、家のすぐ隣ではないがちょっとした林を隔てたその高校に、二〇年ぐらい行き来していたことになる。夏休みも、スポーツ部の顧問などはしていたが、きちんと休んでいた。転勤は、その数十年のあとには定年前にひとつ。いまにくらべれば教員稼業もよい時代だったということだろう。それにしても、同じ学校に親がいるというのは最悪、というほどではないとしても、しかしたいへんよくない。その母も昨年亡くなり、父親は本格派の認知症で、いまはもういいやという感じだが、その個人的なことを別にしても、学校は、なんだか困ったものだった。前回、変わらなかったと書いたのも、ひとつには学校のことを思ってのことだった。
 私はとても記憶力の弱い人で、たいがいのことは忘れてしまったが、学校のことならいくらか書ける。小学校五・六年は担任と生徒たちの関係がどうにもならず、ほとんど授業もなにもかも成立していなかった。一九七一年とかのころだと思う、片田舎にすでに「学級崩壊」と呼べるものは存在していたのだ。ただそれはそれで楽しかった。楽しくなかったのはまず、中学校とか、つまらぬきまりがあり、それを守らせるこわい教師がいることだった。記憶に残っているのは中学校の音楽の教師で、なんだったのだろうあの人は。ビートルズが解散したのは一九七〇年で、田舎ならではのことだが、私がそれを聞き出したのは解散のあとだった。その音楽がどう考えてもその音楽田舎教師のいう音楽よりも立派であることによって、その教師がいかに不当でだめであるか納得してみずからを慰めていたところがある。
 そんなこんなでいろいろと恨みごとはいえるのだが、それは多くの人が経験してきたことだろうから、ここでは書かない。そしてまあだんだんとその怒りもリアルではなくなっていくところがある。高校などに進むと、私は学校が近くにありすぎたからということでもないのだろうが、行くこと自体をさぼるということはしなかったのだが、ほぼ毎日、授業とはまったく別建てで内職をしたりだった。中学校のときは内職といっても小説を読んでいたわけで、それは隠れてのことだったが、高校だと受験勉強をしていたり、寝ていたりする限りは、おおむね黙認されていた。私は最短で受験勉強を終わらせて島を出ようと思っていたから、合理的な行動をしていたことになる。私がいたのは新潟県立両津高等学校(今は中高一貫校の佐渡中等教育学校になっているという)の普通科というところで、ほかに商業科、家庭科、そして水産科があって(後でなくなった)、普通科というのは基本進学するところだったが、それでも学力的には種々さまざまな人たちがいた。
 いまはその島の印刷会社で働いていて、昨年から私の普通の出版社からは出ていない方面の資料集や冊子等の表紙を作ってくれている私の小学校来の友人は、絵は得意で、体育は全面的にだめで、そしてついに[…略…]。学力別に「輪切り」にするほど人の数がいないわけで、それはわるいことではなかったと思う。
 □社会のほうを問題にせざるをえなくなる

 こうしてだんだんと敵意と鬱屈は少なくはなっていったが、それでも、「もっと自由を」という感じはあって、そういった気分をもって高校を終えた。大学に入ったのは一九七九年だが、その数年後、後に国会議員その他になる保坂展人〔のぶと〕らが*1『学校解放新聞』を創刊するのが八四年、*2東京シューレが始まるのが八五年だそうだ。そういうものにかかわっていた大学の友人もいた。ただ私はこの方面のつきあいはほぼなかった。*3『不登校新聞』のインタビューを受けたりといったことはずっとずっとあとのことになる。もう学校を出てしまっていて、喉元すぎれば……、ということもあきらかにあったと思う。ただ、学校を変えればなんとかなるということでもないし、学校だけを変えようとしても限界はあるということもあった。
 そのわけはだれもが知っていることで、学校というしくみは「ふりわけ」のために使われているということだ。学校は社会の部品として機能している。このしくみが気にいらないなら、その社会のほうを問題にせざるをえないということになる。そんなこともあって私は、「能力主義」について考えることになった。それを始めてほぼ二〇年もたった一九九七年に『私的所有論』(勁草書房、第二版は生活書院、二〇一三年)という本を出してもらうことになる。そうしたことはまた別の回に。では。」

*1 反管理教育を掲げたミニコミ誌。
*2 不登校のこどもの居場所、フリースクールとして生まれる。現在はホームエデュケーションなど多様な活動をおこなう。
*3 当事者の声によりそうことを掲げた、不登校・ひきこもりに関する専門誌。


■フェイスブック・HPでの分載

 □学校は、なんだか困ったものだった
◇2017/07/25 「島の1970年前後――「身体の現代」計画補足・392」
◇2017/07/26 「表紙製作者in佐渡島――「身体の現代」計画補足・393」
 □社会のほうを問題にせざるをえなくなる
◇2017/07/31 「『学校解放新聞』とか『不登校新聞』とかあった――「身体の現代」計画補足・394」


UP:201707 REV:20171029
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
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