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何がおもしろうて読むか書くか 第1回

立岩 真也 2017/04/25
『Chio』115号 別冊「Chio通信」
http://www.japama.jp/cgi-bin/event.cgi#4
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立岩真也・杉田俊介『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 小学生や中学生や高校生のころ、私も同級生たちも学校に不平不満があった。社会がどうとか政治がどうとか、そんなことはよくわからなかったが、学校(的なもの)に対する反体制的な気分はあったと思う。やがてその人たちも、つまり私たちも、大人になるのだろう、その時には、私たちはこの社会が気持ちわるいのだから、そしてその私たちが大人になるのだから、社会はいくらか変わっているだろうと思っていた。
 けれどもたいして変わっていない。今の子どもたちは昔の子どもたちと比べてこんなに変わったみたいなことを、多くの人が言ってきたけれども、私はあきれるほど、いろいろなことが変わっていないと思う。なかなかこの仕組みは手強いものだと思う。どのように強いのか。弱くしたほうがよいとして、どうするか。私はそんなことを考えてきたと思う。この連載も、いろいろ考え迷って、そんなことについて書くことにした。そのそんなこと、って何か? なにか気にくわない、とかいやな感じがするとか、つらいとか思うことと、社会か変わればいい、でも変わらない、ではどうするのか、といったぐるぐるしてしまう、そういうことについて、ということだ。
 昨年の七月二六日、神奈川点相模原市のやまゆり園という障害者の施設で、たくさんの人が殺され傷ついたという事件があることは覚えているのではないかと思う。その犯人(でなく容疑者、とこのごろは言う、その方がよいとは思う)について、「私の子はその人に似ている」と言う知り合いがいる。その知り合いは私とあまり年が変わらない。私は一九六〇年生まれ。五六才。その世代の子どもというと二〇代前半とか中盤とか。本誌の読者はその私たちの子たちより少し年とってるという人が多いのだろうか。
 その容疑者と私たちの子たちは似ているか。もちろんそんなことはないよ、と気休めではなく言うのではある。ほぼ確実に、その子たちは、十九人などという人を殺したりはしないはずだ。しかし、である。殺しさえしなければよい、というものではないたろう。ではどんなだったらよいのか。
 どこまであの人(容疑者)と私は違うだろう。違うと思う。私は、殺すならもっと身近な人を殺すだろう。そしてそこには正義もなにもないことはわかっているだろう。しかしその容疑者は、正義のためだと言う。そこは違う。しかしそれは、この世には正義はない、正義はいらないということか。そうではないだろう。そんなことを書こうと思う。軽妙洒脱な随筆、とか書けなくはないかもしれないのだが結局重めになる。それが役回りかなと思って、始める。
 […]」
 ※以下略。『Chio』お買い求めください。

◆立岩 真也 2007/11/10「もらったものについて・1」,『そよ風のように街に出よう』75:32-36,

◆立岩 真也 2010/08/10 「本出ました+余談――人間の条件・31」,理論社・ウェブマガジン


UP:201701 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇病者障害者運動史研究  ◇身体の現代:歴史
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